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天狼の巫姫  作者: 利月
三章
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其ノ弐

 街に出たのは意図的なものではなかった。ただ、胸が騒ぐ方、喧騒のする方、開かれた回路が示す方へと歩いていたら、いつの間にか人混みに迷い込んでいた。

 カゼヤを背にした犬神は街を見下ろす。

 街道に沿って天幕が張られた店が立ち並んでおり、その隙間を人々が行き交っている。煙の匂い、芳醇な匂い、タレの匂い、生(ナマ)の匂い、そして老若男女の匂いが立ち込め、品定めし、売り買いする声があちこちから聞こえていた。

 情報量に、犬神は圧倒される。すっと、カゼヤが犬神の前に出た。そのまま、無言で石段を下りていく。二、三段下りたところで、犬神が立ち止まったままついてこないことに気づき、振り仰いだ。

「どうした? 行かぬのか?」

 まっすぐに問われ、犬神はカゼヤを見下ろす。人混みに狂犬を散歩させることを聞くことすら、二人の間ではすでに無意味だった。だから犬神は問わず、説明もせず、ただ一度だけ目を伏せて、石段に足を乗せた。トン、トン、トン、と下りていく。

 そうして二人で街に下りた。

 なじみのある店なのか、カゼヤが真っ先に向かったのは、小さな球体の焼菓子を売っている店だった。一人が生地をいくつもの半球型が穿たれた鉄板に流し込み、一人が客引きをしている。甘い匂いが漂い、こんがりと焼けた菓子が並んでいた。客引きをしていたふくよかな女性が驚きの声を上げた。

「あれまあ姫様! おケガなさったと聞いたけども、もう大丈夫なんかえ?」

「あぁ、すっかり。ありがとう。――もうそんな噂が?」

「そりゃあ。旅芸人がねぇ。――いつもので?」

「うん、二袋、いただきたい」

「毎度。――そちらは? 新しい近衛さんかえ?」

 にこやかに犬神を見て話しかける。犬神はちらりと主に視線を送り、カゼヤは帯から小銭入れを出しつつ、「いいや」と代答した。

「この者は近衛ではない」

 言いながら、銅銭を数枚取り出す。何のためらいもなく、当然のように続けた。

「犬神だ」

 瞬間、この言葉に、女性はおろか、犬神も息を飲んだ。まじまじと犬神は主を見下ろす。カゼヤは広げられていた女性の手に銅銭を載せ、平然としている。やがて女性の手が震え始めた。

「犬神……?」

 客引きの商売道具であるところのその声は、震えた囁き声であったにもかかわらず、人の耳によく届いた。ざわ、と人の群れがどよめく。そのざわめきは、明らかに不安と脅威に満たされていた。次期巫女姫と朱色の長髪の男から、人垣が割れていく。

 カゼヤは至っていつもどおりの常連客の顔をして、生地を焼いていた男性からできたての焼菓子が詰まった袋を受け取った。

 怯えているだろうことが、分からないわけでもないはずなのに、カゼヤは袋の一つを犬神に押しつけると、一言促して、犬神と連れ立って行った。

 喧騒から外れた道に入る主のうしろを歩き、あたたかい球体を一つ取り出して鼻を近づけながら、犬神は呟いた。

「バカじゃろ」

「なに?」

 わずかに怒りを含んだ声で問い返され、犬神は栗色の球体を口に放り込んだ。それは歯応えのない肉のように柔らかく、かつもちもちとした食感だった。――何よりも、甘い。犬神は呆れたように言った。

「だから言うたじゃろ? 外に出るんならこっちのほうがええ、って。せっかくオレが護衛でも何でも言い訳の通るように人形になったんに……」

「それがどうした。人形でも、おまえは犬神だ」

 カゼヤも焼菓子を口の中に含みながら言う。

「だからそれが、あの人間たちを不安にさせたんじゃろうが」

「なぜだ。おまえは人を喰(た)べないだろう?」

 振り返って、まっすぐに犬神を見つめる。それは問いではなく、確認だった。犬神もまた、カゼヤをじっと見下ろす。

「じゃが襲う。少なくともそういう前歴があることを人間たちは知っとる」

「私が傍にいる」

「そんなんじゃ何の足しにもならんってことじゃろ」

 カゼヤでは枷にもならないと覆して、焼菓子を食む。じゃが、と付け加えた。

「これは美味いな」

 何でもないことのように言われ、カゼヤは視線を逸らし、「そうか」とだけ言った。前を向いて、歩き出す。犬神もそれに続こうとし、刹那。

 ピクリッ、と気づいた。

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