表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
天狼の巫姫  作者: 利月
三章
12/32

其ノ壱

 ついにカゼヤの包帯が取れた。犬神と約してから一月(ひとつき)と二十日(はつか)、予定より早い完治だった。

 カゼヤはくるくると包帯を巻き取ると、部屋の隅に控えた犬神を見た。犬神は相も変わらず獣形、カゼヤの手先で揺れ動いている白い包帯にも興味がないのか、肉食の動物にしてはあまりにも無関心だった。

 円筒形にたたんだ包帯を医者の助手に渡し、退るように命じる。二人きりになったところで、カゼヤはさて、と呟いた。犬神を見据える。

「散歩に行くぞ。犬神」

 唐突に、しかし当然のように誘われ、犬神の目は一瞬点になった。奇妙な沈黙が流れる。カゼヤは訝しげに眉根を寄せた。

「犬は散歩させなければならぬのだろう? 嬉しくないのか」

『犬の飼い方』だ、と真っ先に犬神は思った。あの書がカゼヤに少なからず影響を与えている。しかし当のカゼヤは、無言のままの犬神に盛大な呆れを示した。

「長く散歩をしなかったのは主として失格とは思うが、そうもむくれることはなかろう? そもそも、外出禁止令が出たのはこの腕の傷のせいだ。致し方あるまい?」

 自信満々に正当性を主張するカゼヤに、犬神は違うと言いたかったが、否定するのも説明するのも面倒くさくなって、代わりに人形(じんけい)に成った。――こんなふうに、すでにただの犬ではないモノを、散歩させなければならないと思い込んでいるところは主らしいが、それに付き合わされるのも考え物だ。食事が不要ということは、散歩も不要だというのに。

 主を見れば、カゼヤは人形の犬神を不思議そうに見上げている。しみじみと言った。

「なんだ。人形(そのすがた)で行くのか」

「……外に出るんじゃろ? なら、人形(こっち)のほうがええ」

 ふいと横を向いて、犬神は答える。そうか、とだけ主は言った。

 互いに顔も見ないままで、部屋を後にする。



 仮にも姫様と呼ばれているこの主は、城から出るというのに一人の供も付けなかった。狂犬を連れて城内を闊歩し、堂々と城門をくぐる。

 その間(かん)、ある側近は犬神など見えていないかのようにカゼヤにのみ視線を合わせて形式だけの挨拶をし、ある女官はあからさまに怯えて壁に背中を押しつけ通り過ぎるまで硬直し、またある武官は槍を握る手に力を込め睨みながら二人を見送った。それらを横目で見ながら、犬神はカゼヤの後をついて歩き、宮城を抜けたのだった。

 巨石の階段を下りていく。やがて濠と庭が混在した場所に出た。ちらほらと四阿(あずまや)が建ち、さらにその遠くを濠が囲っている。剪定の行き届いた垣が目に青々しかった。

 草むらを踏み、時折花崗岩の石畳へ入り、樫の木で建てられた四阿を突っ切って、白い玉砂利の道を進む。互いに無言のまま、玉砂利を踏みしめる音だけが響いた。

 次第に、前方に何かが広がっているのが分かる。近づくにつれて、それは石垣だと気づいた。――宮城の最果て。

 カゼヤは石垣まで来ると、しゃがみこみ、岩に似せた小さな鉄扉を開けた。外を覗き込み、人影がないことを確認してから、匍匐前進で通り抜ける。

 抜けた先は青草の段、ピョンと跳び下りて、カゼヤは今し方くぐった抜け道を振り仰いだ。同じくしゃがんだ犬神と、視線が合う。犬神が何かを言う前に、カゼヤが口を開いた。

「来い、犬神」

 しかし犬神は動こうとしない。述べるつもりもないようだった。カゼヤは体ごと向きなおる。

「どうした? 散歩に行くぞ」

 小首を傾げて問うように誘われ、そこでようやく犬神は渋々ながらもそれを表情に出さずに抜け道へと頭を突っ込んだ。――城の外、街へ出る。供なき姫の、背後について。

 ――たった、二人きりで。



 青草の段を跳び下りれば、そこは土手だった。穏やかな川面が、朝の陽射しを受けて輝いている。――二人はやはり無言のままで、川べりを歩いていた。

 季節は三月(はる)、白さを増した陽光に包まれて、歩いているだけで体温の上昇を感じる。しかし汗ばむほどではなく、空気そのものはまだ冷たいので、出歩くにはちょうど良い季節であった。

 川面を、風が滑り渡ってゆく。水面(みなも)がさざなみ立ち、涼やかに髪や衣を撫でていった。

 空を見上げれば晴天、硬い青が広がり、解放感と胸騒ぎを覚える。

 と、それまでまっすぐ歩いていたカゼヤが方向を変えた。曲がった先には反橋が架かっている。朱塗りのそれを渡ろうとしているのだった。犬神もついていく。

 橋板の下は川、その空洞が足音を反響させる。カゼヤはちょうど反りが一番高い所で立ち止まり、川面を見下ろした。爽やかな風がカゼヤの髪をなびかせ、横顔を見せる。犬神も立ち止まった。

 しばらくカゼヤを見つめる。が、やがてつとカゼヤが見ているものと同じものを見た。

 欄干の下には銀に輝く清流、光の隙間を縫うように鮒が泳いでいた。水面は刻一刻と色を変え、静かに水紋を織りなす。――世界には極彩色があふれていることを、犬神は初めて知った。

 そう。思えば。

 犬神はこんなにも、彩りある風景を見たことがなかったのだった。

 気分が高揚する。殺戮という思考とはまた別の思考が回路を開く。

 そして犬神は、カゼヤの背後を通り過ぎ、先頭に立った。

 ――主を散歩に誘う、犬のように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ