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天狼の巫姫  作者: 利月
二章
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其ノ伍

 それはあまりにも直情径行な吐露の仕方だった。

 犬神の懐に飛び込んだカゼヤは襟をつかんで押し倒し、全体重をかけて寝台に犬神を沈めた。はずみで、犬神が後頭部を飾棚に打ちつける。目の前が一瞬、赤くちりちりと焼けた。

「おまえは私が主でなくても良いと言うのか」

 低く、押し殺したような声だった。犬神はうっすらと目を開ける。

 外は雨、光は無く、部屋は薄暗い。主の表情(かお)は、見えなかった。

「私はおまえを選び、おまえも私を選んだのではなかったか……っ!」

 首を絞められる、と思った。それでいい、とも。だって刀も持たずにこの犬神を御しようだなんて――恐ろしいではないか。

 ――自分が。

 何の枷もないという自由。いったい何を野放しにしているのか、主はまったく分かっていない。

 あぁだけど「死ぬ」のはやはり怖くて。

 ふっと、襟元を絞め上げる力が緩んだ。

「私は……。私は、おまえの主になると、そう、定めた。おまえも、同じように定めたのではなかったのか」

 馬乗りになった主は驚くほど軽い。改めて、本当に小さいのだと思った。

 ――こんな小さな体で。

 御しきれるはずもないのに。

 それでも、己が主と、言い切るものだから。

 犬神は、主の手首をやわらかく握りしめた。

 気づいたカゼヤが犬神の上で暴れ出す。

「離せ! もうよい、もうよいわ!」

「ええんなら」

 そっと、主の頬に手を当てる。水が流れているかと思ったのに、そこは我が主、矜持だけでこらえていた。

「なんでそんな泣きそうな顔しとるんじゃ?」

「うるさい! 泣いてなぞおらぬわ!」

 つかまれた手をぶんぶんと振り回すが、犬神の手は離れない。どころか、緩みもしなかった。――呪いのように。

 失敗だった。こんな激情に身を任すつもりなどなかったのに。主たる者、いかなるときも冷静でいなければならないのに。

 なのに、つい。

 犬神が、侮るものだから。

 ――犬神まで。

 カゼヤはつかまれていないほうの手を振り上げた。

 互いに拘束し合っているような体勢、まして犬神は両手を使っており、ゆえに避(よ)けることもかわすこともできなかった。

 響いた音は破裂に似た音、人の肌と人形の肌が勢いを持って衝突すると、皮膚も粘膜も骨も波のように揺れるのだと、犬神は初めて知った。あまりの衝撃に、黒の中に極彩色の点が一瞬にして散らばったことしか分からない。

 小さなてのひらで犬神の頬をひっぱたいた主は、肩を上下に動かしていた。つう、と犬神の口の端から血が伝う。その血を、犬神はぞろりと舐めた。

「これで分かったじゃろ。――犬を飼うときには、鎖が必要じゃと」

 カゼヤは目を、見開いた。

 ――すべて、そのために。

 カゼヤに刀を、持たせるために。

 くっと、カゼヤは唇を引き結んだ。

「……要らぬ。今更だ」

 犬神まで、言うか。そんなことを。他ならぬ犬神自身が。

「何を憂いている。何を恐れている。こうして言葉を交わす以上に刀が必要と言うか。――恫喝(どうかつ)による調伏(ちょうぶく)をせよとおまえまで言うのか!」

 とうとう視野の下が滲んだ。

 誰もがカゼヤを止める。こんな方法で、犬神と繋がってはならないと。

 ――けれど。

 だって。

 決めてしまった。

 それは愛された命ではなかったから。

 首から上だけを出して生き埋めにされた犬。それが愛された命の末路であるはずがない。――あのとき犬の死に立ち会った者は全員、あの犬を愛していなかった。

 ――だから。

「……決めたのだ。絶対に、見棄てぬと」

 ぐっと、強く目をつむってあふれた涙を押し戻す。そうして目を、開けた。

「おまえを愛すると!」

 わずかに滲んだ視界に、しかしはっきりと犬神を映して、カゼヤは誓った。犬神に馬乗りになって押し倒したまま、カゼヤはあの、不遜にも見える笑顔を浮かべる。

「おまえは刀を持たぬ私を選んだ。おまえは、おまえを愛することを誓った私を選んだのだ。これほどの天命があろうか」

 呆然と、犬神は自分の上に乗った主を見上げる。さらに主は高然と言い放った。

「これしきのことで愛想を尽かす主と見くびるな。選ばれた以上、損も後悔もさせぬ。刀は要らない。鎖は無意味だ。汝、犬神の主は、このカゼヤ! 間違ってもあんな飾りだらけの大刀などではない!」

 豪語し、カゼヤと犬神、両者が見つめ合うことしばし。沈黙が流れる。雨音がいやに響いた。

 やがて、犬神が先に沈黙を破った。こらえきれぬように、鼻からも口からも呼気を漏らし、それは次第に哄笑に変わっていく。口を大きく開け、腹も上下させて、笑い続けた。

「……何がおかしい」

 怒りを含んだ声で問われ、犬神はひとしきり笑ったあと、目尻に浮かんだ水を拭った。

「最高じゃ、我が主」

 言って身を起こし、カゼヤと正対する。両脚の間に収まった小さな主は、犬神を強く睨んでいた。

「何が最高だ。褒めておらぬだろう」

 そんなふうに、決めつけるように言うものだから。そんなんじゃないのにと犬神は、伝えたくなった。

 こういうときはどうするのだったか。言葉の代わりに持っていたものは、爪と、牙と、そして――。

 瞬間、犬神はぺろり、とカゼヤの唇を舐めた。

 あまりに突然の行為に、カゼヤは目を見開いたまま黙した。

 脳裏に唐突に浮かんだのは、今朝から読んでいた書物。『犬の飼い方』。確かそこには、親愛の情を示す表現の一種として、人の口を舐める場合もあるとか。

 やっとのことでうっすらと、わななきながら口を開いた。

「……今、何をした」

 主の茫然とした声に、犬神は「ん?」とカゼヤを覗き込んだ。

「主の唇を舐めた」

 さらりと答える。

「なぜこの状況で今そんなことをする」

 抑揚のない問いかけに、犬神は寝台から跳び下りた。朱の髪が犬の尾のように振れる。主を振り返らずに、当然のように言った。

「お詫びのしるしと熱烈な告白のお礼――」

 言い終わるか終わらないうちに、枕が飛んできた。すんでのところで犬神は固いそれを受け止める。主を見れば、カゼヤは寝台の上に両足を広げて立ち、恐ろしい形相で犬神を睨み下ろしていた。その顔は、ほんのりと赤い。

「こんのドアホウが! 二度と寝台に近づくでないわ!!」

 烈火のごとき主の怒りに、それでも犬神は、なぜか幸福な気分しかしないのだった。

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