其ノ壱
そこは、しんとした地下だった。
篝火がなければ真の暗闇、冷たい土の気配しかしない、孤独を具現化した場所。
中央に座するは大樹。とぐろを巻いたような太い幹には、穢れを祓うための紙縒(こより)が締められていた。樹高はそれほど高くはなく、神樹と呼ぶにはいささか繁栄さを欠いていたが、幹より伸びた無数の枝が、子を誘なうように地面と水平に手招きしていた。
パチ、と篝火の中の炎が爆ぜる。
樹の手前、土の下には、狼に似た一匹の犬が首だけを出して埋められていた。
この犬は神樹のための供物にして、神を降ろすための依代(よりしろ)でもあった。
――この犬は、餓死寸前であった。
飢えきった喉、土の下に隠れた骨と皮ばかりの体、もはやまとわりつくだけとなった生気のない毛並(けなみ)、極限にまで放置された命は、ただ、眼光だけが鋭い。
飼われていたわけではない。いつだったか、野良として生きていたとき、宮城(きゅうじょう)の人間によって半ば攫われるようにして埋められた。
――そうして、今。
唐突に始まった虐げによって、犬は命を終えようとしている。
飢えという虐げ、飢えていると知っていながら見つめ続けるという虐げ、人語を解(かい)せるならば、問うたことだろう。なぜさほどに憎むか、と。
不意に、犬を見つめ続けていた女が立ち上がった。女は巫女の装束を着ており、女のうしろには、十三(おとな)を迎えたばかりの娘が控えていた。
娘もまた、巫女の装束に身を包んでおり、これから終わる犬の命が、ただの葬送ではないことを物語っていた。
――それは、狩りの仕方を教える雌獅子のようで。
これもまた、神降ろしの儀式を「見せる」ものだった。
立ち上がった女が、ゆっくりと犬に歩み寄る。その手には、蓮(はちす)の葉に盛られた肉片が載っていた。
今しも土に倒れそうだった犬の頭が、かすかに上がる。飢えてなお働く嗅覚が、犬の鼻を本能的にひくつかせた。
――欲しい、と思う。
その一つの欲求は、他の欲求をも喚(よ)び起こした。体とともに埋められていた生への執着が、一片の肉によって次々と起こされ、興されていく。
水が欲しい。
その肉が欲しい。
ここは窮屈だ。
動けない。
動きたい。
前脚を掻く。
剥き出しになった眼球が肉を追う。
――寄越せ。
寄越せ。
欲しい。
肉を持つ、女を追う。
欲しい。
白い手。
ホシイ。
やわらかそうな指。
なぜ。
その手がこの体を埋めた。
吠える声を無視して。
土をかけ、見下ろした。
バチッ、と篝火が爆ぜた。
ピクッ、と少女が動いた。
犬は、食いついた。
――否、食いつこうとした。
肉に。女の、指ごと。噛み切ろうと。
しかし、それは。
スラッ、という音と同時に、断ち切られた。
女は神宝である大刀(たち)を抜くなり、その白刃を犬の首に叩きつけた。
痩せ細った首、しかし確かな肉と骨の感触。振り切るように、粘つく“生”を切断していく。
犬の血が飛ぶ。
女の頬を濡らし、衣を染め、指に絡みつく。
――呪いのように。
刹那。
犬の首が、飛んだ。
飛び。そして。
少女が立ち上がった。
「母様っ!!」
犬の、首が。女の、腹を。
喰い千切った。