(ちょっと昔の話)
ある雪の日
その年は、温暖な地方にあるビーグル町には珍しく、記録的な大雪が降った。
夜じゅう降り積もった雪は、朝の光景を一変させた。
幼いマイにとっては生まれて初めての雪だった。郵便受けや垣根に施された雪化粧が、見慣れた町をまるで違ったもののように見せている。マイの心は舞い上がった。よんどころない事情により癇癪を起こしていた経緯も忘れ、あたりを探検することに決めた。
「おばちゃん、ちょっとあそんでくる!」
「はいはい。通行人を突き飛ばさないよう気をつけるのよー。シンは? まだ寝てるのかしら」
「シンなんか知らない!」
すでに雪はやんでいる。マイの足音だけが早朝の静寂をやぶり、澄んだ空気に響き渡る。
凍った池があれば走り出して暴れて薄氷を割って水中に落ち、軒先のつららを見つけては手当たり次第に叩き折って屋根の上から落ちてきた雪に埋もれ、それでもマイは無傷で散策を楽しんだ。
けれどそのうちに、見知った世界とよく似た異質な世界に迷い込んだような感覚に陥りはじめる。
いったん抱いた違和感が不安に変わるのはあっという間だった。好奇心が忘れさせていた寒さの感覚まで戻ってくる。
その不安は雪景色のせいというより、どちらかといえば、隣にいるべき存在の不在が原因だったかもしれない。
しかしそれを認める気のないマイとしては、家に帰るのもためらわれた。
「シンのばか」
マイが向かうことにしたのは、近ごろよく遊び場にしている廃屋だった。心なしか、今日の雪がみすぼらしさをいくらか緩和して、屋敷は普段より上等に見える。
いつもどおり木を伝って二階の窓から進入しようとしたところ、何かがしっくりこない感覚に気づいた。屋敷の上部がいつもと違う。
「窓がおおいな」
「わっひょおおおおおおおっ!?」
危うく木から転落するところだったが、幹に巻きつけた自身の脚と、マイのものではない手のおかげで免れた。だからといって、上からマイを捕まえた手の持ち主に感謝する気はない。そもそも驚かせるほうが悪いのだ。マイはその手を振り払った。
「なんで頭の上にいるのよシン!」
「マイが来るかと思って、まってた」
あたりを見下ろしてみると、マイが通った道の反対側に足跡があった。間違いない、あの傲岸不遜な足跡はシン以外のものではありえない。今朝までの怒りを思い出してマイはたちまち不機嫌になった。
「きー! 先回りなんてヒキョウだわ」
「あんなとこに部屋があったんだな。重くなった雪がおちて、屋根のはしっこといっしょに、かべがはがれたみたいだ」
「えっ、じゃあ、あの窓はかべでぬりこめられてたってこと? つまりヒミツの部屋? ボウケンのまくあけ?」
「だな」
「血がたぎるわ! 行くわよシン!」
マイはたちまち上機嫌になった。するする木を登って三階部分の高さを超え、問題の窓枠に飛び移る。窓には何もはめられていなかった。ほとんど同時にマイとシンは室内へ飛び込んだ。
古い木の匂いに満ちたそこは、ごく小さな部屋で、天井も低い。いかにも屋根裏の一角だった。マイは上下左右をざっと見渡して、がっかりした。
「何もないじゃない」
「何もないな。じゃあ、かぜをひくからかえろう。マイはずぶぬれだし。池にでもおちた?」
シンのこの発言は、もちろんマイを怒らせた。何しろ今のマイはシンに怒る理由を探しているような状態だ。
「見くびらないでよ、わたしは、かぜなんかひかない。シンがひとりでかえれば!」
「マイ? なんでおこってるんだ」
「何をとんちんかんなことを! しらばっくれようっての? シンのうすらとんかち!!」
それは昨夜の出来事だった。
近辺では唯一の盛り場であるシーレモン街で武具の万国博覧会が催されていることを知り、「行こうシン、カキュウテキスミヤカに行こう、何が何でも行こう、あした行こう」と興奮したマイに、シンはこう言い放ったのだ。
「むり。さそわれてる」
シンに断られることには慣れていない。つい逆上したマイは、シンが明日は剣術指南を受ける予定なのだと知らされると、いよいよ怒髪天を衝いた。
「何よそれ、あのよそものの剣士がシンをナンパしたってこと?」
現在ビーグル町に逗留中の剣士は、国内有数の実力者だと聞く。当然ながら町中の若手剣士および剣士見習いたちが手合わせを願い出たが、公認剣士以外は次々に断られている。マイに至っては「小さな女の子に剣など向けられん」などという屈辱的な拒絶をくらった。
「あんまりだわ、わたしというものがありながら!」
「マイ、おちつけ。どうも父さんのファンらしいんだ」
「なんてこと、おじさんのマナデシの座はわたさないわよ!」
もはや誰に対する嫉妬なのかわからないまま、マイは憤怒をつのらせた。
こういうときは剣を合わせてわだかまりを解消するのが恒例だが、シンの母に「夜は寝なさい。決闘は明日まで延期すればいいでしょう」と寝床に放り投げられたため、決着は今朝まで持ち越されたのだった。
歯を食いしばりながら眠った一夜を思い出し、マイはしつこく憤激しなおした。
「もういいもん、万博にはタキとライとガロとタズとついでにジグをさそって行く! シンはルスバンね!」
「――それはだめだ! おれも行く。あさってにしろ」
「ザンネンでした。わたしは、あした、行くの。行くったら行くの」
「あさってだ」
「うるさーいっ。もういいよ、シンとはゼッコウ、ゼツエン! せいぜい剣士さまとなかよくしてればいいわ、アデュー!」
一気にまくし立てて踵を返そうとすると、ぐいっと腕を引かれた。振り払って進もうとしたのに、掴まれた箇所はびくともしない。どうしようもないので、ため息をつきつき振り返った。
「はなしてよ、シン」
「いやだ」
「いやだじゃなくて。はなしてってば」
「マイがおれをきらうのはしかたないけど、マイがそばにいないのはいやだ。だから却下」
「キャ、キャッカだとぉ……?」
何を言い出すかこの男は。マイは妙に動揺しだした。
「わ、わけのわかんないワガママ言わないで! とにかく手をはなしてよう!」
「ゼッコウをとりけしたら、はなす」
「ちょっ、シン」
押し問答は日が高くなってもまだ終わらなかった。
「もういっかい、マイもいっしょにおしえてくれって、たのもう。それでもことわられたら、おれもやめるから」
「うるさいうるさい、というかそれ何の話だっけ! とにかくはなしてぇ!」
もはや喧嘩の原因をマイは忘れはじめていた。
長い長い言い争いの末、シンが黙ってマイの腕を引いた。だんだん疲れてきたマイも黙ってそれに従い、帰途についた。
吸い込まれそうに白く眩しい一面の雪の中、ただ不協和音のようにばらばらな足音だけがいつまでも、真っ白なしじまに響き渡った。
それからどうなったかというと。
ありていに言えば、マイが折れたのだった。
叩き付けた絶縁状を撤回させられるばかりか、「わたくしマイ・マイコ・パラフィンは生涯の友シン・ルシン・クラフトとの絆を、病めるときも健やかなるときも、死がふたりを分かつまで守り通すことをここに誓います」などと書かれた紙に血判を押す羽目になった。
マイがシンに自分の倍量の血を要求したことは、言うまでもない。