四、尊大な意気地なし
「伏せて、マイコちゃん!」
身に迫る危機にとっさに反応できたのは、声をかけられる前から本能が察知していたからだろう。
素早く身をかがめたマイの頭上を、ナイフが高速で通過していき、そのまま前方の木の幹に突き刺さった。まっすぐな軌跡は見事だが、位置からすると、あのままでは間違いなくマイの襟首に刺さっていたはずだ。
「えっ、嘘、今のルタ?」
マイを呼んだ声は確かにルタのものだったが、投げ手があの不器用な少年であるとは思えない。訝しんで振り返ったマイは、顔面から転んだらしいルタの姿を地面に見つけた。
「ご、ごめんねマイコちゃん……つまづいた拍子に手から飛んで行っちゃったんだよ」
「ひいいいい血まみれ!」
一体どれほど器用に転べばここまで悲惨な顔になれるのか、マイには想像もつかなかった。ルタはこの町の人間としては驚異的なほど運動センスを欠いているのだ。その代わり回復力だけは超人級に優れており、今もすでに立ち上がり、ぴんぴんしている。
手持ちの布でマイが顔を拭いてやると、ルタは嬉しそうに笑った。庇護欲をそそる可愛らしい少年なのは確かだ。兄のジグと似ている部分が見あたらない。
「どうしてナイフなんか持ってたの? まさかナイフ投げの練習をしてたわけでもないでしょうに」
「そのまさかだったりして……」
マイは目をむいた。無謀にもほどがある。
「こう言ってはなんだけど、負傷者が出る前に考え直したほうがいいわ」
身のほどを知れ、という意味だ。特に手厳しい意見というわけではない。なにしろルタは軽くつついただけで倒れる身体の持ち主だ。妙な考えは、世のため人のため捨てたほうがよい。
「うーん。わかってはいるんだけどね、いざというときのためにと思って」
「いざ? ジグが卒倒しかねないわよ」
ルタは困ったように笑うばかりだった。兄には内緒らしい。そこでマイは提案した。
「要は標的に当たればいいのよね? 道具を使うほうがルタにはまだ向いてるわ。スリングショットの手ほどきをしてあげる」
スリングショットとはゴム紐と竿でできた投石用の道具のことだ。
ルタの場合、身体の反応の鈍さと力のなさに最大の問題がある。そのため動作は最小限で、かつ頭を使う武器がよさそうに思えた。ジグやマイよりは遥かに常識的だと定評のある子だ、滅多な目的には使わないだろう。
「わあ、本当っ? マイコちゃんが先生なら百人力だよ」
マイは可愛い子分を手に入れた。またの名を、ジグに対する人質、という。
マイとルタのにわか師弟ごっこは驚くほどうまくいった。ルタには才能があったらしい。本人が一番驚いていた。
「マイコちゃんがいてくれてよかったよ!」
「ルタよ、師をそのように軽々しく呼ぶでない」
「あっ、そうでした。マイコ先生!」
「ふぉっほっほ」
マイはすっかり老師気分で悦に入っていた。今もってルタ少年が攻撃力を持とうとしている目的は明らかになっていないが、体得して損はないだろうからとマイは特に気にしなかった。
「身体の軸は動かさない! 確実に一発で仕留める意志を持て、狙いは正確に!」
今日も今日とて指導をしていると、悲鳴らしきものがマイの耳に入った。
「あーれー! 誰かー!」
今ひとつ切迫感はないが、助けを求めているようだ。
集中しているルタは見向きもしない。かなり遠くの声なので、聞こえていないのだろう。ルタを残してマイはその場を辞した。
「ちょっと、放してってば!」
「いいじゃんいいじゃん遊ぼうよー、シャンなメッチェンとお近づきになりたいよー! たいよー太陽サンシャイン!」
緑道の木陰で、少女が若い男に腕をつかまれていた。どちらも見ない顔だ。少なくともビーグル町の住人ではない。
「やだぁ、なんなのこの人、頭がおかしいの? それともジョークセンスがおかしいだけ?」
強きをくじき弱きをたすく剣士道精神を重んじるマイは、何はさておき信念に従うことにした。少女はいかにもか弱そうだったのだ。
そういうわけで、マイは堂々と彼らの前に姿を現した。
「控えおろう! そこの兄さん、ここが剣士の町ビーグルと知っての狼藉かね」
男の風体からすると、この町の人間に果たし合いを申し込みに来た、流れの剣士くずれだろう。高名な剣士を打ち負かして名をあげようと思い立つよそ者は少なくない。さらに、そのほとんどが例外なく返り討ちに合って逃げ帰るところまで、ビーグル町では日常茶飯事だった。
「お、邪魔が入った」
男は偉そうに笑った。
「ごつい剣を持ってるじゃないか、姉ちゃんさては剣士だな? ここはひとつ俺が稽古をつけてやろう」
なるほど腕に自信があるようだ。そうとわかれば遠慮はいらない。マイは朗らかに答えた。
「あらご親切な申し出ですこと! ぜひともよろしくお願いしますわ」
「はっはっは、さあ来い」
陽気な男だ。彼の構えは悪くなかった。しかし、マイに剣を抜かせるほどでもない。
一見何気なく、マイが足を踏み出す。小手調べのように揺れる相手の剣先を、鞘ごと突き出した剣で搦めとり、手首をも巻き込むと強引にはじき飛ばした。彼の剣はひとときの空の旅に出た。マイはそのまま剣を一閃させ、まだ何が起きたか理解できていない男の両臑に叩きつけた。男が前のめりになり、地に伏した。
これらすべては数秒のうちに起きた。
マイは厳かに告げた。
「お前は既に死んでいる」
「適切か不適切かわからない決め台詞だね、マイコちゃん」
ひょっこりルタが現れて真顔で言った。
「安心なさい。みね打ちよ」
「両刃の長剣でみね打ちも何も……」
「ええいルタ、師をなんと心得る」
「ははー、マイコ先生のお手並みには深く感服いたします」
「よろしい」
ルタは如才ない少年なのだった。
「ところで、ルタ。今気づいたんだけどね」
マイは我に返った男を再度転がし、踏み付けた。
「む、胸が苦しい!」
何やらわめいている。
「それに鼓動がやけに早いぞ……もしやこれが恋のときめきってやつなのか!? そうなのか俺!」
うるさいので耳を塞ぎつつ、マイはルタを振り返った。
「この兄さん、どうも先日捕まえた盗賊団の一味じゃないかと思うの。頭領だけは取り逃がしたんだけど、まさかまだこの町にいたなんて」
ルタは目をぱちくりとさせ、マイの足の下で不気味ににやける男を見下ろした。
「また自警団に表彰されちゃうね、マイコちゃん」
一連の流れを、そもそもの原因となった少女は興味深そうに見学していた。
ラシャと名乗ったその男が言うには、捕まった仲間を助け出すため彼はビーグル町に留まっていたらしい。身をひそめて救出の機会をうかがうはずが、気の散りやすい性格が災いし、つい旅行者になりきって観光や遊び相手探しに勤しんでいたとの話だった。
「結果的によかったぜ。おかげで、いまだかつてない胸の高鳴りを知った」
縄で手足をしっかり縛られてもラシャはめげていなかった。
ルタはこれを「いわゆる吊り橋効果の一例だね」と分析した。
「ラシャさん、その胸の高鳴りは危機に瀕した際の自然な反応であって、決して恋のときめきではないんです。妙な錯誤を起こしてマイコちゃんを巻き込まないように」
「違う」
「え?」
「これは恋だ、いや、愛だ。でも相手はその凶暴な姉ちゃんじゃない。きみだ」
ずざざ、と音を立てて三名がラシャから遠ざかった。
「ルタ……」
「その半笑いはなんなのマイコちゃん、ちょっと、待って、どこへ行くのっ?」
「わたしはこのお嬢さんを保護するから、あとはよろしく」
「ルタくんとやら、あとはよろしくお願いしますね……!」
「ひどい、ひどすぎるよ、ふたりとも! ひとりで自警団の本部へ連れていけって言うの? この人を?」
「ルタ、大人になるのよ」
「それ変なニュアンスで言ってない!? あ、ちょっと、待ってえええ」
そそくさとマイは少女と連れ立って逃げ出した。あとは責任感の強いルタ少年がどうにかするだろう。マイは弟子の健闘を祈った。
「あの」
ひとまず危ない空間からある程度の距離を隔てたころ、少女が口をひらいた。
「危ないところをありがとうございました。わたし、エー学園一年のチサ・チシャ・インディアといいます」
「え、エー学? 本当に?」
マイは思い切り疑いの目で少女を見た。剣術学校に通っているようにはとても思えなかったからだ。チサは気を悪くした様子もなく頷いた。
「はい。実戦要員じゃないんですよ、ほらわたし、かわいいでしょう」
あたかも自明の理を確かめる口調だったので、マイは一歩下がって彼女を仔細に眺めてみた。そして賛成した。
「うん、かわいいわね」
「そうでしょう。ああ、あなたもいい線いってますけど。そこそこ」
なかなか愉快な少女だ。
「つまりわたしの役割は、みんなの士気を高めるためのマスコットなんです。最近はそれだけだとつまらないので、マネージャーもやってますけどね、これがもう我ながら敏腕で敏腕で」
「へえ」
よくわからなかったが、納得しておいた。
「わたしはビー学のパラフィンよ。同じ一年」
「あ、マイマイ科の……」
「マイ・マイコ!」
すかさず訂正した。妙な通り名が浸透していて、迷惑きわまりない。
「そうそう、あのシン・ルシン・クラフトの彼女さんよね。ところでパラフィンさん、このへんのお店を案内してもらえると嬉しいんだけど。あっちの町は女の子向けのお店がさっぱりないから辟易してるのよ」
「あら、そういうことなら任せてちょうだい。服屋からでいい?……って、わたしはシンの彼女じゃないわ、親友よ」
危うく聞き流すところだった。そこはきっちり正しておくべき点だ。そしてもう一点、聞き捨てならないことがあった。
「あのシン、って?」
「あの有名な、って意味よ。実際不思議なんだけど、パラフィンさんはあの人とちゃんと会話が成立してる? というかクラフトは、まともなセンテンスを喋ることがあるの?」
「……うう」
残念な気持ちを反映して、マイの口角が下がった。そう疑問に思われてもしかたのなかった昔のシンを知っているからだ。さらに、今は違うはずだと思っていたからだ。
「学校では、成立してないの? 会話」
「単語をぽつぽつ返すだけでも会話と呼べる、というのでもない限り、してないわね。表情筋が動くところも見たことがないもん」
マイは天を仰いだ。社会性のなさは無用な敵か面倒な崇拝者を作るだけだと、もっとしっかり言い聞かせておくべきだった。
「あ、でも、噂によれば最近は機嫌がいいらしいわよ。足取りが心なしか軽いとか、たまに顔がにやけてるとか」
「……ふうん」
「そんなことはさておき、せっかくの機会だから聞いておこうかしら。なんてったって辣腕マネージャーですもの。剣術大会のことなんだけど」
それは、非常に懐かしく思える言葉だった。
「そんな話もありましたね」
さてどうしたものか。
マイは夢を見た。過去の出来事が記憶のまま再現されていた。夢の中のマイとシンは、十歳にもなっていなかった。
今でこそふたりセットのように扱われているが、始めから心を通わせていたわけではない。むしろマイはシンに対抗心を燃やしていたし、シンはマイを煙たがっていた。
そもそもシンは鼻持ちならない子どもだった。態度が大きいとか、自信過剰だとか、そういうのとは違う。ひたすら周囲に対して不遜な無関心を貫いていたのだ。マイはそれが気にくわなかった。いけ好かないやつだと思った。
そこでマイは物心ついたときには決意した。この少年の人生に入り込んでやる。
マイはシンの押しかけ好敵手になった。
来る日も来る日も彼に勝負を挑み続け、拒まれても気にせず無理矢理に相手をさせた。幼いころは実力も拮抗していたから、マイが本気で倒しにかかればシンも本気で立ち向かわざるを得ない。シンに選択の余地などなかった。マイが与えなかった。退けば負けだとマイは信じていたし、シンにもそう思わせることに成功した。強制的に彼はマイの稽古相手をさせられた。
そして数年が経ったある日、いきなりシンはマイに笑いかけてくれるようになった。きっかけがあったかどうかは覚えていない。彼が根負けしただけのような気もする。ともかくもその日を境に友情は双方向のものに変わり、マイが突撃しなくてもシンは常に隣にいるようになった。
ふたりは親友同士になった。互いへの好意を少しも隠さず、何から何まで打ち明け合った。シンはマイにとってこの世で一番好きで大切で必要な存在になった。
あの家にマイがひとり残されたときは、シンが押しかけ家族になった。
――マイ、おれがいるから、なかないで。
――ないてないもん。わたしは、なかないもん。
――じゃあ、おれがいるから、ないて。
――う、うぇええん……!
本当に、いつでも隣にいた。
――どうしたのーシン。変な顔して。
――昨日のキノコ、毒キノコだった。
――テキ屋のおっちゃんにあげたやつ? おいしかったのに。わたしたちはなんともないわよね。
――おっちゃんは昨日から、狂ったみたいに笑いつづけてるんだって。そろそろ苦しくて死んだかも。
――あわわ。
――逃げるか。
――うん、逃げよう。
そして時折シンは、ぬるま湯の幸福に熱を注ぎたがっているような気配を見せるようになった。マイは恐れた。
――マイ。
情火を宿した声で呼ばれるたび怯えた。シンの示すものを、素知らぬふりで拒否した。
裏切ったのは、どちらだ。
隠し事のなかった関係に、暗黙のタブーを強要したのはどちらだ。
わからなかった。わかりたくなかった。
マイは臆病者ではない。いかなる危険に直面しても、震えて立ちすくんだり、無様に逃げ出したりしたことはない。そのはずだった。
けれど、ほかにどうすればよいのか、マイにはわからなかった。向き合わないほうが楽だと思った。認めるのが無理でも、受け入れることができなくとも、シンを失いたくはない。それだけが確かだった。
だから無意識の奥底で今日もマイは願う。どうか、誰もわたしたちを変えようとしないで、と切に願う。卑怯だろうが臆病だろうが、それ以外に活路はない。
マイの意識が自覚さえしていないこの鬱屈も、おそらくシンには読まれている。
ねえシン、そうでしょう?
「お前は既に死んでいる」 ――ケンシロウ