一、再会
返事が来ない。
マイは飼いヤギのポチを恨みがましく見つめた。ポチは素知らぬ態度で草をむしゃむしゃ食んでいる。その横長の瞳孔を見ていると、ついつい眠気を誘われるのが常だが、今日ばかりは違った。なぜなら返事が来ないのだ。
「ポチー……もしお腹の中にまだ手紙が残っていたら、なんとか胃か腸で解読して内容を教えてくれない? 無理よね、うんわかってる」
ごめんねと言いたげにポチがマイの手を舐めた。少し心が和らいだ。
考えてみれば、こちらが気にする必要は一切ない。手紙を読めなかった事情はきっちり説明し、再度送ってくれとまで頼んでいる。第一、用件があるのはマイではなくシンのほうだ。次の手紙が来ないからといって、それがなんだというのか。
「そうよ、どうだっていいじゃない。気にするのやーめた」
マイは自分に言い聞かせ、郵便受けの前に待機するのをやめて自宅へ入った。
そして結局は家を飛び出した。気にしないふりは数分間しか続かなかった。
「たのもう! ビー学院一年マイ・マイコ・パラフィンここに推参!」
エー学園男子寮の寮舎は蜂の巣をつついたかのごとき騒ぎになった。
「い、今、ビー学って言わなかったか? それにあの制服」
「パラフィンと名乗ったぞ。まさかあの華奢な女の子が?」
背中の半ばまで届く漆黒のポニーテールを揺らして仁王立ちするマイは、全体的に作りが小さい。町の外にまで轟く彼女の評判と本人とを、初対面ですぐに結びつけられる者は、皆無だった。
「いや、でも、パラフィンといえば、ビー学の天下一剣闘会で優勝したあのパラフィンしかいないよ。マイマイ科の鬼って有名じゃないか! さては道場破りか……?」
「ど、どうする。せっかくだから決闘を申し込もうか」
「誰かクラフトを呼んできたほうがいいんじゃないか。知り合いだって聞いたぞ」
「わ! こっち見た!」
口々に驚きを表すエー学園の生徒たちは、闖入者のにらみを受けてぴたりと静まった。
マイは剣を佩いているが抜いてはいない。抜くつもりもない。ここに来た目的はひとつだ。
「シン・ルシン・クラフトに用がある。彼は在寮か」
言い終わるが早いか、懐かしい姿が人波を割って現れた。心情を映して張り詰めた面持ちのマイとは対照的に、黒髪の精悍な若者は屈託なく顔を輝かせた。すっかり育ってしまった感があるが、こうするとまだ幼さがのぞく。
「マイ! 会いに来てくれたのか」
まるでわだかまりなど存在しないように、世界で一番会いたかった相手を見つけたように、嬉しくて嬉しくてしかたないと言うように、シンはにっこり笑った。マイは強烈な引力に似た何かを感じた。自分と彼は一緒にいるのが正しいのだと、理屈を超えたところでわかっていた。
それでも、どうしようもないことはある。
「久しぶり、シン。来てやったわよ」
だからマイは高慢に言い放った。
マイ・マイコ・パラフィンとシン・ルシン・クラフトはかつて互いが互いの大親友だった。
遊びも剣の稽古も悪事も勉強も一緒にした。喜びも楽しみも笑いも痛みも怒りも悲しみも悔しさも苦しさも一緒に味わった。家庭環境が少々特殊だったマイはシンの温かい家に入り浸り、自宅にいるよりも長い時間を彼や彼の家族とともに過ごした。
いつも顔さえ見ればマイにはシンの心がわかった。もちろんシンも同じだった。ふたりでいれば無敵だった。近所で恐れられていた乱暴者の少年も、大の大人が震え上がる崩壊寸前の吊り橋も、夜な夜な死霊が現れるといういわくつきの廃屋も、何も怖くなかった。マイとシンはいつも背中合わせで世の中の理不尽と戦った。信頼という言葉は互いのためにあった。
ふたりの関係はそのままで至上だった。少なくともマイはそう信じていた。まさか裏切られる日が来るとは夢にも思わなかった。
しかし、マイとシンの友情は途切れてしまった。
マイが彼に絶縁状を叩き付けてから、一年になる。シンが、隣町のエー学園へ進学するなどと言い出したのがきっかけだった。
資源に恵まれないこの地方の特産といえば、昔から人材くらいだった。幼いうちから職人に弟子入りして特殊技術を学ぶ者もいれば、学校で基本的な教育を受ける者もいる。さらに十五歳で中等教育課程を終えた若者の多くは、より高い教養を求めて、あるいは素封家や貴族に伺候すべく、たいてい町を出て行く。もっとも、剣士の町と呼ばれるここビーグル町では地元にとどまる者も少なくない。地元のビー学院で剣術修行に励むのだ。将来は町の自警団に入るつもりのマイも、その中のひとりだった。マイの知る限りシンも同じはずだった。にも関わらずいけすかない隣町の連中の巣窟をシンがわざわざ選んだ理由を、誰ひとり知らなかった。マイにさえまったく理解できなかった。ふたりは血みどろの大喧嘩をした。それ以来、今日に至るまで口も聞いていなかった。
マイもシンも十六になった。この秋には第二学年になる。
「正面切ってライバル校に単身乗り込んでくるあたり尋常じゃないよな、おまえ。相変わらずみたいで、よかったよかった」
野次馬の目を逃れてふたりは町境の川べりに移動した。夕陽を映して絶えずさらさら流れる水を眺めながら、マイは違和感に気づいた。景色が違うのだ。マイが見慣れているのは、ふたりでよく遊んだ川の向こうがわ、ビーグル町からの景色だった。
「シン」
「もう夏も終わるな。日の落ちるのが早くなった」
「シンってば。ねえ」
「そうだ、おまえ知ってるか? 月が痩せ細っていくのは、太陽に散々追い回されて疲労困憊になるせいらしいぞ」
一方的に喋り続けるシンに業を煮やし、
「自分のペースに巻き込もうったってそうは問屋が卸さないわよ卑怯者!」
いきなりマイは斬りかかった。
まったく警戒していないように見えたシンだが、すかさず剣の腹で攻撃を受け止めた。もちろん、そうなることを想定したうえでの不意打ちだ。力負けする前にマイは飛び退く。すぐに打ち合いが始まった。
「卑怯者? 心外だな、感動の再会なんだから少しくらいひたらせろ」
「断る! こちとら寝言を聞きに来たんじゃないってのよ」
剣戟の合間に怒鳴り合う。お互い腕は落ちていないらしい。こうしていると、空白の時間など忘れそうになる。それほど自然だった。やがて言葉は途絶えた。この魂の触れ合いに、ほかの要素はいらなかった。
ひととおり剣を交わした頃合いを見計らって、シンがわずかに剣先を下げた。ふたりの間における終了の合図だ。マイはそれを受け入れて退いた。
今日に限っては、まだ気を抜かない。むしろいっそう敵意を強めてシンを見据えた。両者とも剣を下ろしたというのに、先ほどとは別種の緊迫した空気が色濃く漂っている。一見飄々としたシンも、マイと同じかそれ以上に気を張っているのが伝わってきた。
おかしなことに、マイは彼の様子に少しほっとした。自分だけが神経をとがらせているのでは不公平だからだ。
「大会の件か?」
出し抜けに問われ、反応が遅れる。
「合同剣術大会。手紙に書いたろう」
「何それ。知らないわよ。前回の手紙なら、ポチが食べちゃったって言ったじゃない。そのせいでわざわざここまで来る羽目になったんだから」
「送り直したぞ。それも食われたのか」
マイは拍子抜けして、言葉に詰まった。シンと愛ヤギのどちらを信じるべきかしばし逡巡し、やがて渋々答えた。
「そうかもしれない。ことのほか、あなたの手紙がお気に入りみたいだから。次は気をつけるから、また送ってちょうだい。じゃあね」
用件は済んだ。早々に立ち去ろうと背を向けたところで、付け足すべき言葉を思いついた。
「あ、言っておくけど別にわたしがほしいわけじゃないわよ。二度も送りつけてくるとなると、よっぽど重大な内容なんだろうと気遣っただけだから。それだけだから。って、わああっ?」
己の捨て台詞に満足してふと振り返り、仰天した。追突するほどの距離までシンの接近を許していた。なんたる不覚だ。
「なあ、マイ」
「近い近い近い!」
「俺はまだ納得してないんだが。なんで俺は絶交されたんだ?」
マイは目を瞠った。言うに事欠いて今さらそんな愚問が飛び出すとは思わなかった。かっとなって、頭ひとつぶんは高いところにあるシンの顔を睨めつける。
「なんで? 今なんでって言った? 納得してないのはこっちよ、エー学なんかに入学しといてよく言うわ。ふん!」
「違うな」
両頬をシンの手で挟まれ、首から上の身動きが一切とれなくなった。またしても不覚だ。ほかの人間相手ならマイもそうそう後れを取らないが、シンの場合、いまいましいことに、信頼を寄せすぎているせいで反応速度が著しく遅くなる。身についた習慣はそう簡単に消えないという残念な一例だ。
「ぐぬぬ、何を」
「俺がエー学を選んだ理由が、マイにわからないわけがない」
頭突き――もしくは、もっととんでもないこと――をする気としか考えられない体勢で言われた。
「アナタノイッテルコト、ワカラナイネ! リカイフノーネ!」
必死で空とぼけるが、シンは薄く笑った。
「無駄だよ、マイ。おまえは俺のことをなんでも知ってるだろう? なあ」
冷や汗をだらだら流しながらマイはシンの瞳を見つめた。あまりの至近距離にそれしか視界に入らない、とも言える。世界の深淵をのぞき込んだような心地にさせる、深い藍色だ。見るたびいつも、この瞳は並外れて熱いか冷たいかのどちらかだとマイは感じていた。
今、マイのまさに目の前で、彼の藍色は仄暗い熾火のように見えた。さかんに燃え上がるために必要なのは、あとほんの少しのきっかけだと思われた。その変化が起きる予兆を見出したくなくて、しかし顔を背けることも物理的に無理な状況で、ついに炎は現れた。マイを射るシンの視線は、認めがたい熱を帯びていた。
「離して!」
なりふり構わずマイはシンから逃れた。彼は振り払われた手をそのままに、驚きもせずマイを観察していた。そして突きつけるように言った。
「やっぱりか。エー学だのなんだのは単なる口実だったんだ」
空いた距離をシンが一歩、前へつめた。間を置かずマイもまた一歩、険しい顔で慎重に後ろへ下がった。
「俺を怖がってるのか、マイ」
「来ないで、その目で見ないで!」
「その目って?」
シンの追及は容赦がなかった。自ら核心をつくことさえためらわなかった。
「俺が、おまえを女として見てる目か?」
マイの身体が大きく震えた。今すぐこの場から逃げ出したいと願った。それなのに、両足が地面に縫い付けられたように、動かせない。マイはただ十六年来の相棒を、未知の敵であるかのように凝視するばかりだった。この気詰まりな空間から逃げるには気絶するしかないとまで思った。
ところがシンの次の行動は、華麗なまでにマイの度肝を抜いた。
「ぶは!」
突如シンは腹を抱えて笑い転げたのだった。
「なんだそれ! まさか本当にそうだったのかよ、なんだってそんな大掛かりな勘違いをしたんだか。愉快すぎるだろ、マイ!」
ポチが月面宙返りを決めてもここまで呆気にとられはしないだろうというくらい、マイの困惑は大きかった。
「もっと早く言ってくれればさっさと楽にしてやれたのに。ずっとそんな豪快な思い込みに悩んでたのか?」
「え、え、え?」
「馬鹿だな、何をどうしたら俺がおまえを愛してるなんて錯覚を起こすんだ。困るよ。俺たちは大親友じゃないか、マイ」
「え、あ、そ、そうよね……」
次第にマイの表情に安堵が滲み始めた。シンは根気強くそれを見守っている。
「そうよ、そうよね、わたしったら!」
「そうさ。早合点の激しいやつだな」
シンの爽やかな笑顔が、マイの最後のためらいをついに払拭した。マイは警戒心を取り去った。手放しに顔を輝かせる。照れと高揚のために頬は赤くなった。
「てへへ! へへ! あは!」
胸のつかえが下りた嬉しさに涙まで出てきた。すると同時に、心の繊細な部分がむき出しになった。
「あ……」
「ん?」
「会いたかったの。ずっと」
ごく単純な本音をこぼす。シンが相好を崩した。マイの大好きな顔のひとつだ。だから、シンが両腕を広げたところに素直に飛び込んで行けた。
「わぁん、シンー!」
「そうかそうか、俺もだよ。いつ行っても面会謝絶だったから、本当に淋しかったんだ」
「ごめん、ごめんね」
ぎゅうぎゅう抱きしめ合って、一年間の空疎な感覚をふたりして埋めようと試みた。やはり近くに半身がいるのといないのとでは大違いだった。
「……これは、友情の抱擁よね?」
「もちろんだ。妙な誤解をするなよ、迷惑だから」
また顔が近づいていた。ものすごく近づいていた。
「これは近づき過ぎじゃないかしら」
「ああ、そうかもしれない」
「変よね」
その間も互いから目を離してはいない。シンの藍色とマイの青灰色は混じり合おうとしているようだった。正面から目が近づけば、必然的にほかの部分も近づく。
「そうかもな」
「こんなこと、よくないわ」
会話の中身とは裏腹にふたりは行動した。ついに唇が重なった。マイは目をつむった。熱っぽく柔らかい、甘美な感触のことしか考えられなくなった。直感的に、正しい、と確信した。これが正解でないなら正解のほうが間違っている。そう思った。シンも同様らしく、この瞬間を積極的に受け入れていた。というより、奪い尽くすつもりらしかった。
首と腰に回された手がしっかりマイを拘束し、どこにも逃げ場がない。しかしマイは逃げることを望んでいなかった。するりと腕をシンの肩越しに伸ばし、しがみつくように交差させた。互いが互いを等しい熱量で求めていた。奪っただけ奪われて、与えただけ与えられる。マイは自分を明け渡す寸前だった。
「――ん!」
終わりは唐突だった。マイの剣把が服のボタンか何かにぶつかり音を立て、それがマイの頭を急速に冷やした。自分がしていることもよくわからないまま飛びすさり、一秒後にはシンから大きく離れていた。呼吸が荒い。シンはきょとんとしていた。ふたりがのめり込んでいた何かは、どこか遠くへ去ったのだ。
「い、今のは不適切よね!?」
マイはやっとの思いで言葉を発した。即座に返事があった。
「その通りだ、こんなことはすべきじゃない」
「そうよ、そうなのよ」
「なんてったって親友なんだからな。今後は気をつけよう」
「そうしましょう!」
話はついた。
何はともあれ、マイとシンは変則的ながら一年越しの仲直りを果たしたのだった。