始まり
始まり
部屋に夕日が射す。僕の部屋の全てがオレンジに染まっていく。車が通り過ぎる。まだ幼いはしゃぎ声。
額にべっとりと汗をかいていた。その汗を拭う。
いつの間に眠ったんだろう。確か、算数の宿題を終わらせて、ベッドで一息ついて、蝉の声が煩くて目を閉じて―――。そのまま寝ちゃったのか。
なんだか、喉がものすごく乾く。体が水分を欲してる。
僕はベッドから身を起こし、台所へと向かった。
「大輔、起きたの?」
リビングに行くと、お母さんが洗濯物を取り込んでいた。
「お母さんこそ、帰ってたんだ」
「ええ。買い物から帰ったら何の音もしなくてびっくりしちゃった。大輔ったらぐっすり眠ってるんだもの」
僕は麦茶に手を伸ばしながらお母さんの話を聞いていた。
麦茶を飲むと、喉を通って体を流れていくのがわかる。
「宿題はどう?順調に進んでる?」
「うん。進んでる」
「そう。来年はもう中学生だし、しっかりしてきたわよね、大輔。そういえば、今まで一回も夏休み前に宿題してないっていうことないわよね」
「それが普通じゃない?」
「あら、そうなの。お母さんはいつもギリギリで宿題終わらせて、徹夜までしたこともあったわ」
お母さんはその時のことを思い出したようで、少し笑った。
「おじいちゃんにも手伝ってもらったのよ」
「おじいちゃんが?」
「そう。怒りながらも、日記書いてもらったり、勉強教えてもらったりしてくれたの。次は一人でやるんだぞって言いながらね」
洗濯物をたたむのをやめて、すっかり昔の思い出に耽っている。
おじいちゃんは今、ここから車で一時間走ったところに住んでいる。自然がいっぱいで静かなところ。小学校に上がる前までは、月に一回、おじいちゃんの家に必ず通っていた。
僕が生まれてすぐ、おばあちゃんが病気で死んだそうで、その時おじいちゃんはすごく落ち込んでたってお母さんから聞いた。
「ずっと肩が落ちてて落ち込んでるのに、なぜか泣かなかったな。ずーっと一点を見つめて何を考えてるのか分かんなくて。変な気でも起こすんじゃないかってヒヤヒヤしてるの」 一度、おじいちゃんの家に行った帰り、車の中で話してくれたことがある。
「どうしておじいちゃんは泣かなかったの?」 そう問うた僕にお母さんは、
「わからないわ。私には」
と一言答えて黙ってしまった。
なぜ、おじいちゃんは泣かなかったのだろう。悲しくない、なんてことはないだろうと思うけど。
今度、おじいちゃんの家に行ったとき聞けばいいかって思った。
だけど聞かなかった。
なんで聞かなかったかって言われてもわからない。ただ、なんとなく。
聞かなくてもいいかって思っちゃったんだ。おじいちゃんを見た途端ふとそう思った。 小学校に上がって一年もすると、僕はおじいちゃんの家にあまり行かなくなった。学校の面白さに惹かれて、ただ毎日学校のみんなと遊んでいた。そして毎日が新鮮だった。知らないことがたくさんあって、学校は僕が知らないことを全部知っていた事に驚いた。
もっといろんなことを知りたい。ただ、その感情だけが僕の胸の中にあった。
僕が九歳の時、おじいちゃんが倒れた。なんで倒れたのかはわからない。倒れたという連絡を聞いて、すぐおじいちゃんが入院したという病院へ向かった。お母さんもお父さんもなんだか怖い顔をしてて、あの時は倒れた理由を聞く暇もなかった。
命に別状はなく、おじいちゃんは四日で退院した。お母さんは今まで以上におじいちゃんを心配するようになった。おじいちゃんはお母さんが行くたびに、
「わしを年寄り扱いするのはまだ早いぞ」
って妙に自信に溢れている顔をして言うんだ。
「そういえば、大輔。大事な話があるの」
「大事な話?」
いつの間にか、母さんは洗濯物をたたみ終えようとしていた。最後の一枚をたたみ終えた後、洗濯物から僕に視線を移した。
「またおじいちゃんが入院したの。今度は手術が必要みたいで・・・。おじいちゃん、あっちにお世話してくれる人いないでしょ?だからお母さん、手術の日までおじいちゃんの世話をしに、あっちへ行こうと思ってるんだけど・・・」
「ええ!そうなの?ずいぶん急だね・・・。おじいちゃんの病気そんな悪いの?」
「命に関わるほどの大きな病気なわけじゃないっておじいちゃんからは聞いたけど。まだ詳しい事はおじいちゃんが隠してるかもしれないからね」
「・・・そう。お母さん一人で行くの?」
「そのつもりだったんだけど・・・」
「僕は?お父さんは?置いてけぼりなの?」
「そんなこと言わないでよ。あんまりあっちに行っても大輔の面倒見てあげられないと思って一人で行こうかなって思ってたけど、最近お父さんも残業続きで仕事忙しいみたいなのよねえ・・・。大輔はこっちに残るか、おじいちゃんのところ行くか、どっちがいい?」
どっちがいい?そりゃもちろん、
「おじいちゃん」
でしょ。
ごめん、お父さん。仕事頑張ってください。
おじいちゃんには負けちゃったけど頑張ってください。
おじいちゃんの病気も心配だけど、行きたいって思ったのはそれだけじゃない。