ダムが増えないのは、誰のせいなのか
水道について調べていると、こんな説明を何度も目にした。
「イギリスの水道はダムを作らず、渇水を招いた。それは水道を民営化したせいだ」
たしかに、イングランドでは1992年以来、大きな貯水池がほとんど新設されていない。2025年には貯水量が過去最低水準まで落ち込み、2700万人が断水制限の対象になったという。
ここまでは事実だ。
しかし、「民営化したせいでダムが作られない」という因果関係まで、本当に正しいのだろうか。
一つの制度の名前だけで、これほど複雑な問題のすべてを説明できるものなのだろうか。どうにも腑に落ちなかった。
そこで私は、この疑問を一つずつ確かめてみることにした。
まず分かったのは、ダムが作られてこなかった理由は、一つではないということだった。
イングランドでは、水道会社の収益が規制当局オフワットによって5年ごとに決められる価格上限によって制約される。ダムのように計画から完成まで長い年月がかかり、完成後も何十年にもわたって使われる施設にとって、この仕組みは決して簡単なものではない。
数十年がかりの投資を、5年単位の規制の中で判断しなければならないからだ。
巨額の資金を投じても、その費用を将来にわたって回収できる保証がなければ、企業が投資に慎重になるのは不思議ではない。
しかも、オフワット自身が、過去に大型投資の提案を「非効率」として退けてきたこともある。
そう考えると、問題は単純に「企業がダムを作りたがらなかった」という話ではない。長期的なインフラ投資を促すには、規制の仕組みそのものが適切だったのか、という問題も見えてくる。
さらに、実際にダムを建設しようとしても、それだけで計画が進むわけではない。
地元住民の反対や許認可の問題があるからだ。
ある水道会社はオックスフォードシャーで15年以上にわたって貯水池の建設を試みているが、地元議会の反対などによって計画が進んでいない。
つまり、「ダムを作らなかった」というより、「作ろうとしても、さまざまな壁に阻まれてきた」と考えた方が、実態に近いのではないだろうか。
もちろん、だからといって民営化が無関係だった、と言い切ることもできない。
ある大手水道会社では、規制資産価値の9割近くを負債で賄うという財務構造がとられてきた。そうした構造のもとでは、長期的で不確実なインフラ投資より、株主への配当を優先する経営判断が働きやすかった可能性がある。
イギリスの会計検査院も、規制当局が企業に必要な支出を十分に促してこなかったと批判している。
そう考えれば、民営化という制度が、こうした財務戦略を可能にした土台の一つだったことは否定できない。
ただし、ここで一つ、気になる比較対象がある。
公営のまま残ったスコットランドだ。
スコットランドの公営水道会社は、同じ期間にイングランドの水道会社より、1世帯あたり約35%多く投資し、料金も低く抑えてきたという。
一見すると、「やはり公営の方が優れている」と結論づけたくなる数字だ。
しかし、ここにも注意すべき条件がある。
スコットランドはイングランドに比べ、人口あたりの降水量がおよそ10倍近く豊富だという。
水資源が豊富で、人口密度も低い地域と、水資源への需要が大きい地域を単純に比較することはできない。
そもそもの自然条件が違うからだ。
スコットランドの実績が良かったとしても、それを「公営だったから」という一つの理由だけで説明するのは難しい。
ここで、逆の例も見てみたい。
民営化していても、うまくいっている地域はあるのだろうか。
フィリピンの首都マニラでは、水道の運営を民間企業に任せながらも、政府系の専門機関が5年ごとに料金水準を厳しく審査する仕組みがある。企業の利益率そのものにも法律で上限が設けられている。
その結果、民営化後に新たに170万人へ給水網が広がったと報告されている。
一方、ボリビアのある都市では、規制が十分に機能しないまま、民間企業に高い利益率を事実上保証してしまった。その結果、料金が短期間で数倍に跳ね上がり、ついには暴動にまで発展した例がある。
同じ「民営」という言葉でくくられていても、結果はまったく同じではない。
違いを生んでいるのは、企業が民間か公営かという一点だけではない。どのようなルールを作り、誰が監視し、企業に何を求めるのか。その規制の設計が大きな意味を持っている。
むしろ、この二つの事例を並べると、「民営か公営か」以上に、「どのような規制を設けるか」が重要なのではないかと思えてくる。
もう一つ、忘れてはいけないのが地元の反対運動だ。
仮に水道が公営だったとしても、自分たちの住む場所の近くに巨大な貯水池を建設すると言われれば、反対する住民が出てくるのは当然だろう。
実際、会計検査院の報告書は、水道会社や規制当局だけでなく、環境省や環境庁など複数の公的機関も批判の対象としている。
つまり、計画を阻んでいるのは企業の一存だけではない。
企業、規制当局、行政機関、地方自治体、そして地域住民。それぞれの立場と利害が絡み合い、結果として計画が前に進まなくなる。
この問題は、水道が民営であろうと公営であろうと、形を変えて存在するのではないだろうか。
さらに参考になるのが、フランスの水道事業である。
フランスでは、施設の所有権を自治体が持ったまま、運営だけを民間に委託する仕組みが広く使われている。
イングランドのように施設そのものを売却する完全民営化とは、そもそも制度の設計が違う。
つまり、「民営化」という言葉の中にも、所有権を誰が持つのか、誰が運営するのか、どのような規制を受けるのかによって、かなり大きな違いがある。
そう考えると、「民営化か、公営か」という二択だけでイングランドの水道問題を語ろうとすること自体が、少し乱暴なのかもしれない。
ここまで調べて、私は一つの結論にたどり着いた。
イングランドでダムが作られてこなかった理由は、規制期間の短さ、地元の反対、許認可の問題、そして企業の財務戦略など、複数の要因が絡み合った結果なのだろう。
民営化という制度も、その中の一つの要因ではある。
しかし、それだけが唯一の原因だとは言えない。
マニラの例が示すように、民間企業が運営していても、規制が適切に機能していれば長期的な投資は可能だ。
一方で、スコットランドの実績を見ても、自然条件の違いを無視して「公営だから成功した」と結論づけることはできない。
結局、「民営化のせいでダムが作られない」という説明は、分かりやすい。
分かりやすいからこそ、注意が必要なのだと思う。
複雑な問題には、たいてい一つの犯人がいるわけではない。
制度があり、企業の判断があり、行政の規制があり、地域住民の反対があり、そして土地や気候といった自然条件もある。それらが重なった結果として、「ダムが増えない」という一つの現象が生まれている。
本当に考えるべきなのは、民営化そのものの是非だけではない。
どのような規制なら、企業に長期的なインフラ投資を促せるのか。地域住民の意見を尊重しながら、必要な施設をどう整備するのか。そして、将来の水不足という問題に対して、誰がどのような責任を負うのか。
そこまで掘り下げて初めて、問題の本当の姿が見えてくるのではないだろうか。
「ダムが増えないのは、誰のせいなのか」
調べる前の私は、もしかすると一人の犯人を見つけられるのではないかと思っていた。
しかし、調べてみると、そうではなかった。
誰か一人のせいにするよりも、絡み合った要因を一つずつほどいていく。
その方が、少なくともこの問題を考えるうえでは、ずっと誠実な姿勢なのだと思う。




