後編:心は見えない
2026年に入り、日本の防衛政策をめぐる動きが相次いでいる。
4月には防衛装備移転三原則が改定され、殺傷力のある武器についても、協定を結んだ国への輸出が可能になった。
輸出先は当面17か国に限られ、紛争当事国への輸出は原則認めないとされているが、特段の事情があれば例外も認められる。
防衛大臣は非核三原則についても、タブーを設けずに議論すべきだと発言している。
スパイ防止法の整備に向けた議論も進められている。
これらの動きに対して、戦争への道を進んでいるという批判が上がっている。
一方で、非武装のままでいれば相手の侵略の意欲を刺激するだけだ、という正反対の主張もある。
そしてこの二つの主張は、実はどちらも一定の説得力を持っている。
なぜこのような、決着のつかない対立が生まれるのだろうか。
まず、備えることが戦争を招くという批判について考えてみたい。
ある国が防衛のために軍備を増やしても、相手国はその意図を確かめる術を持たない。
そのため、相手はそれを脅威だと受け取り、対抗して自らも軍備を増やしてしまう。
双方とも守りのつもりが、結果として緊張がどんどん高まっていく。
これは安全保障のジレンマと呼ばれる、国際政治ではよく知られた現象だ。
第一次世界大戦の前に起きたイギリスとドイツの建艦競争は、この典型例としてよく挙げられる。
一方で、非武装であることがかえって侵略を招くという主張にも、同じくらいの根拠がある。
軍事的に弱い状態は、相手にとって侵略の代償を低く見せてしまう。
冷戦の間、米国とソ連が互いに核兵器を持ち続けたことで、両国の直接戦争は避けられたと考えられている。
これは、備えがあることで相手に手を出させない、抑止という考え方の根拠になっている。
つまり、備えることも備えないことも、それぞれ戦争を招く理屈を持っているのだ。
実際、武器輸出の解禁について、G7の他の国々と比べてみるという方法もある。
ドイツもフランスも英国もカナダも、武器を輸出しているが、そのこと自体が理由でこれらの国が戦争をしているわけではない。
この比較は、単純な因果関係、つまり輸出をすれば必ず戦争になるという主張を崩すには有効だ。
興味深いことに、ドイツも長年にわたって非常に厳しい武器輸出の規制を自らに課してきた国だった。
それが2022年のロシアによるウクライナ侵攻をきっかけに、大きく方向を転換している。
つまりドイツもまた、周囲の安全保障環境の変化に応じて、長年の抑制的な立場を見直したという意味で、日本と似た道をたどっているとも言える。
しかし、批判の中には、単純な国どうしの比較では片づかない、もう少し込み入った論点も混ざっている。
一つは、いくつもの防衛政策の変更が積み重なることで、少しずつタブーが解かれていくという、なし崩しへの懸念だ。
もう一つは、武器輸出協定を結んだ国との連携が深まることで、将来の紛争に巻き込まれる度合いが強まるという懸念だ。
さらにもう一つ、輸出した武器が紛争地に渡ることで、日本自身は戦わなくても、他国の戦争を助長してしまうという懸念もある。
これらは、輸出国どうしを並べただけの単純な比較では検証しきれない、もう一段深い問いだと思う。
こうした対立を前にして、一つの答え方は、原理原則を明確にすることだと考える人もいるだろう。
力による現状変更は認めないという原則を、日本は長年掲げ続けてきた。
この原則自体は、尖閣諸島でも、ウクライナへの対応でも、一貫して繰り返されてきたものだ。
ただ、この原則をどこまで具体的な行動に結びつけるかについては、あえて曖昧にされてきた部分がある。
これが、いわゆる戦略的曖昧性と呼ばれる立場だ。
2025年11月、高市早苗首相は国会で、台湾有事が日本の存立危機事態になり得ると述べ、この曖昧さに一歩踏み込んだ。
中国は強く反発し、日中関係は大きく悪化した。
この発言をめぐっては、原則を明確にする姿勢を評価する声と、曖昧さを壊した軽率さを批判する声の両方がある。
ここで考えたいのは、原則を守るという姿勢と、相手に信頼されるということの関係だ。
言葉だけの原則は、それを実際に守るコストを払う姿勢が伴わなければ、ただの安い言葉になってしまう。
逆に言えば、信頼というのは一回の発言ではなく、積み重ねられた行動の記録によって築かれるものだ。
2021年、米国がアフガニスタンから軍を撤退させた際、正式な同盟国ではなかったにもかかわらず、台湾や東欧の国々の間で、米国は本当にいざという時に助けに来るのかという疑念が広がった。
一つの関係での行動が、まったく別の関係にある国々の信頼の見積もりにまで影響を与える、という実例だと思う。
過去にクリミアやウクライナへの対応で、日本がどれだけ一貫した態度を取ってきたかということが、今の言葉の重みを支えているのだと思う。
同盟や友好国との関係についても、同じ緊張がある。
危機にある同盟国を見捨てれば、他のすべての関係国からの信頼を失いかねない。
一方で、同盟国の都合にすべて付き合えば、望まない戦争に巻き込まれる危険もある。
この二つの不安は、同盟論では見捨てと巻き込まれのジレンマと呼ばれている。
そもそも同盟とは、一方が守られるだけの関係では長く続かないものでもある。
米国は長年、日本に対して防衛費の増額や役割の分担を求め続けてきたが、これは支える側と支えられる側の釣り合いが崩れれば、関係そのものが揺らぐという現実を映している。
巻き込まれを防ぐために、あらかじめ自国の立場や参加条件を明示しておくという考え方もある。
たとえば、同盟国の国益のためだけの戦争には参加しないと、前もって表明しておくという方法だ。
しかし実際には、同盟関係にある国同士の利害は、最初から重なり合うように設計されているため、どこまでが相手だけの国益で、どこからが自国の安全保障の問題なのかを、事前にきれいに線引きすることは難しい。
台湾有事は、米国にとっては地域における戦略的な立場の問題であると同時に、日本にとっても地理的な近さや海上輸送路にかかわる、まぎれもない自国の問題でもある。
日本はすでに、相手の国益ではなく自国の存立が脅かされるかどうかという基準を、法律として持ってはいる。
しかし、その基準を具体的などの場面にあてはめるかという判断は、結局そのつど下すしかなく、あらかじめ全てを決めておくことはできない。
そのうえ、参加条件を明確にすることは、事前に「助けないかもしれない」という可能性を相手に示すことにもなり、見捨てられる不安を与えてしまう。
ど ちらの対策を取っても、別の側面での不信を招いてしまうのだ。
ここまで考えてきて気づくのは、これらの対立がどれも同じ一点に行き着くということだ。
それは、相手の内心を、私たちは直接のぞき見ることができないという、単純だが動かしがたい事実である。
国家が観察できるのは、相手の持つ武器や軍備という能力だけであり、その裏にある意図は言葉でしか示されない。
そして言葉は、真実を語ることもできれば、嘘をつくこともできる。
曖昧にしても、明確にしても、原則を掲げても、参加条件を示しても、相手の本当の意図を確定させることは、原理的にできないのだ。
これは国家だけの問題ではなく、人と人との関係にもそのままあてはまる。
私たちは、他人の心の中を直接見ることはできず、言葉や行動から推し量ることしかできない。
国家という、多くの人や機関からなる集合体の意図となれば、なおさら一つに定めることは難しい。
実際、高市首相の発言は、内閣官房が用意していた慎重な答弁案を、首相自身が退けて生まれたものだった。
一つの政府の中でさえ、意図は一枚岩ではなかったのだ。
この解決できない不確実性を前にして、国際政治の理論がたどり着いた答えは、意図を完全に確かめることではなく、それでも少しずつ信頼の精度を上げていく方法を積み重ねることだった。
言葉だけでは信用されないからこそ、実際に犠牲を払う行動によって意図を示す、費用のかかる合図という考え方がある。
制裁を実行して自国の経済にも負担を負う、軍を実際に展開する、条約を批准して後戻りしにくくするといった行動は、口先だけでは真似のできないものだ。
そしてもう一つの方法が、単発の言葉ではなく、長期にわたる行動の積み重ねによって、相手の意図についての見積もりを少しずつ更新していくことである。
どちらの方法も、不確実性をゼロにすることはできない。
ただ、確率的な精度を、わずかでも上げることができるだけだ。
結局のところ、外交も、抑止も、同盟も、原則の表明も、相手の内心という見えないものに対する、終わりのない対応の試みにすぎない。
どれだけ言葉を尽くしても、どれだけ行動を積み重ねても、確実な答えにたどり着くことは、決してできない。
けれど、それは何をしても無駄だということではないと思う。
見えないものを見えないと認めたうえで、それでも一貫した行動を地道に積み重ねていくことでしか、信頼という不確かなものは、そもそも築きようがないのだ。
私たちにできるのは、内心を見抜くことではなく、見えない前提のうえで、誠実であり続けることだけなのだと思う。




