15.アクアファーナ
皇太子の視察は、たいてい退屈だ。
数字の帳面。
飼葉の量。
病気の記録。
来年の配合案。
どれも必要なことだと分かっている。
分かっているからこそ、余計に退屈だった。
――ただし、馬を見る時間だけは別だ。
馬は嘘をつかない。
人間のように飾らない。
欲で喋らない。
良い馬は、姿を見れば分かる。
ほんの一歩、蹄を置く音で分かる。
息の整い方で分かる。
それが、皇太子として生まれついた自分の唯一の慰めだった。
「殿下、こちらへ」
育成牧場の長――陽気な顔の中年が腰を折って先導する。
牧場の者たちは彼を「牧場長」と呼ぶが皇太子である自分の前では一応、名で名乗った。
けれど皇太子は、名など覚えない。
覚えるのは馬だけだ。
「今年の若馬です。評判の良い者から順に」
並べられた馬たちの前を歩く。
華やかな鹿毛。
筋肉の発達が早い栗毛。
気性が強く、耳を伏せてこちらを睨む黒鹿毛。
どれも悪くない。
だが、決定打がない。
――血が良いだけの馬は、いくらでもいる。
皇太子――ジュラは、長の説明を半分ほど聞き流しながら視線だけで一頭ずつ切っていった。
そして、最後。
柵の隅に地味な牝馬がいた。
青毛。
年齢のわりに線が細い。
周りが騒いでもひとり落ち着いている。
派手さがない。
値札が跳ねるような馬ではない。
だが――
ジュラは、そこで足を止めた。
「……あれは」
牝馬がこちらを見た。
ふっと、目だけが動く。
柵越しに人間を量るような静かな視線。
そして、光が射した拍子に――
見えた。
青い。
両目とも、深い青。
帝室の星空の瞳とは違う、海底のような青。
皇太子は、笑いそうになるのを堪えた。
「目が……」
「はい、殿下」
牧場長が嬉しそうに頷く。
「毛色も瞳も珍しい色です。両方とも、親譲りでしょう」
「父親は?」
問い返すと周囲の者が一瞬だけ気配を変えた。
牧場長は咳払いをしてから少し声を落とす。
「インペラトーレです。殿下の――いえ、殿下がかつて落札された、あの」
皇太子は、頷いた。
あの馬。
血統は良くなかった。
だが、走りは嘘をつかなかった。
帝国が誇る駿馬たちをねじ伏せ、
“青の皇帝”と呼ばれた栗毛。
種牡馬に上がってからは――受胎率の低さで笑われた。
それでも自分は、処分させなかった。
走った馬は、最後まで生かす。
それが帝室の掟ではなく皇太子たる自分の決め事だ。
「……母は」
「ステラドルチェです」
牧場長が胸を張る。
「春の花を含め、重賞を三つ。牝系は星の名を持つ一族の」
ジュラは、ふぅ、と息を吐いた。
インペラトーレとステラドルチェ。
帝国の栄光と帝国の牝系。
その娘がなぜ隅で地味に立っている?
「評価は?」
「……悪くありません」
牧場長は言葉を選ぶ。
「手がかからず怪我もしません。気性が穏やかで。ただ――目立ちません」
「目立たない」
皇太子は、その牝馬をもう一度見た。
牝馬は、こちらを見返す。
逃げない。
だが寄っても来ない。
――自分が“何者か”を理解している顔。
皇太子は、柵の前にしゃがんだ。
従者が慌てて止めようとする。
「殿下、危のうございます」
「よい」
皇太子は手を伸ばした。
牝馬は一歩も退かない。
鼻先だけほんの少し動かす。
触れられる距離まで来て――止まる。
まるでこちらの手が清いかどうかを嗅ぎ分けているように。
ジュラの指先が柔らかく額に触れた。
冷たい。
若馬の体温にしては、落ち着きすぎた冷たさだ。
「……おとなしいな」
言うと牝馬の耳が一瞬だけ動いた。
聞いている。
理解はしていなくても“言葉”として受け取っている。
牧場長が後ろで気を利かせたように言った。
「幼名は、シアと呼ばれております。黒、という意味で」
「黒」
ジュラは、眉をひそめた。
黒はただの色だ。
家畜につけるには便利だろうが――
この牝馬の目は、黒ではない。
――――青だ。
皇太子は、立ち上がった。
「名は……まだか」
「はい。育成牧場では正式名はつけません。いずれ、殿下の厩舎へ入るならその時に」
ジュラは少しだけ考え、口を開いた。
「――なら、今ここで決める」
牧場長が目を丸くした。
「殿下、ここで……?」
「この子には良い名が必要だ」
従者たちが顔を見合わせる。
牧場長は一瞬、困ったように笑ってから膝を折った。
「……畏まりました」
ジュラは、牝馬を見る。
青い目。
海の青。
それでいて毛色は夜のように深い。
星の一族の牝系。
“青の皇帝”の娘。
――帝国の色。
ジュラは、口角をわずかに上げた。
「アクアファーナ」
牧場の空気が、止まる。
「アクアファーナ……いい名前ですね」
牧場長が小さく呟いた。
ジュラは頷かない。
ただ、牝馬に向き直る。
「アクアファーナ」
もう一度、呼ぶ。
牝馬は、瞬きもしない。
だが耳がぴくりと動く。
“呼ばれた”と分かっている。
ジュラは、少しだけ声を落とした。
「……トーレとドルチェの娘、か」
誰に向けた言葉でもない。
牧場長に問うたのでもない。
皇太子自身の胸の中へ落とす確認だった。
牧場長がやや遅れて答える。
「……はい。血だけなら帝国でも指折りです。走るかどうかは……これからですが」
「走る」
ジュラは短く言った。
根拠はない。
だが、勘でもない。
あの目は、走る目だ。
生き残る目だ。
負けることを前提にしていない目だ。
ジュラは柵に手を置き、馬に向けて告げた。
「アクアファーナ、お前はいい馬だ」
牝馬が鼻を鳴らした。
それが返事に見えたのは――
ジュラの思い込みかもしれない。
だが、思い込みで馬は買わない。
思い込みで帝国は動かない。
ジュラは踵を返した。
「今回の視察は終わりだ。この馬は、記録を回せ」
「畏まりました。殿下」
牧場長の声が弾む。
去り際、ジュラはふと、振り返った。
牝馬――アクアファーナは、まだこちらを見ていた。
青い目が、暗い厩舎の中で、星のように冷たく光っていた。
◇
アクアファーナ……私の名前。
――これで私は、“ただの黒”じゃない。
※完結まで毎日投稿です。




