1.歴史に伝わる恋
作者はオグリキャップ、ソダシ、シーザリオ、コントレイル、最近だとフォーエバーヤング(年度代表馬おめでとうございます!)が好きです。
お馬さんはみんな可愛い。
よろしくお願いします。
競馬はブラッド・スポーツである。
一定の血統以上の馬が勝つことがほとんどだからだ。
もちろん例外はある。名もない牧場から生まれ、血統表の片隅にしか名が残らないような馬が一瞬だけ時代を照らすこともある。
けれどそれは、奇跡だ。
血は、残酷だ。
才能の有無を決め、売値を決め、期待を決め、そして――生き残れるかどうかまで決める。
種牡馬になったときに産駒が思うように走らず、一度は逃れたはずの“肉”への運命を、誰にも知られることなく辿った名馬も多々いる。
かといって名馬と名馬の子供でも平凡だということもまたよくあること。
血統だけで勝てるほど簡単なら、誰も“夢”なんて見ない。
人との絆、最高の調教、気性、環境――様々なものが嚙み合ったとき、ようやく一頭の名馬が誕生するのである。
そしてまた一頭、競馬の歴史に名を刻み込む馬が生まれた。
夜明け前の牧場は冷える。
吐く息が白く、馬房の外では乾いた風が草を撫で、柵を鳴らす。
それでも厩舎の一角だけは、妙に熱を帯びていた。
出産が無事に終わったことで母馬に付き添っていた人々もようやく安堵の息を吐いた。
血と羊水の匂い、藁に染みた温かさ、母馬の荒い呼吸。
そして――小さな命の濡れた体が藁の上でかすかに動く。
「はぁ……母子無事ですね。ドルチェ、よく頑張った!」
声を上げたのは、若い厩務員だった。
額に汗をにじませ、緊張から解けたように肩を落とす。
母馬の名前はステラドルチェ。
この牧場では略してドルチェと呼ばれることが多い。
青毛の牝馬で額にははっきりとした白い模様がある。
かつてこの国の大舞台で勝ち、名誉ある称号を得た馬――今は繁殖牝馬として次の夢を産む役目を担っていた。
「ほんとだよ。三年ぶりの出産で、しかも初産の時は大変だったからな。あの時ばかりは、ドルチェが死んじまうかと思った」
そう言って豪快に笑うのは、牧場長――通称“オレンジのおじさん”だ。
陽気な口調とは裏腹に目は真剣で出産後の母馬の様子を一瞬も見逃さない。
この男にとって牧場の馬たちは、利益である前に“人生”そのものだった。
「元気な女馬だ。ほら、この仔は……父親に似てるかもしれない」
別の男が濡れた子馬の体をガシガシと拭きながら言う。
布を滑らせるたびに黒い毛が藁の色に浮かび上がっていく。
まだ立てもしない命のくせに妙に目がしっかりしている――そんな気配があった。
「へぇ、父親に似てるなら女馬なのは残念だ。母親が良血だし、後継種牡馬になれたかもしれないのに」
口の悪い冗談に誰かが小さく咳払いをした。
出産直後の馬房で軽々しく“残念”だの“種牡馬”だのと言うのは、縁起が悪い。
何より、目の前の母馬がその言葉を理解していなくても――怒っているのがわかる。
ステラドルチェは、生まれたばかりの子しか目に入らないというように、子馬を舐めていた。
濡れた毛を何度も何度もまるで世界から汚れを消し去るように。
母馬の舌が触れるたび子馬の体が小さく震える。
「にしても色は、母馬に似て真っ黒だ。青鹿毛かと思ったが……こりゃ青毛かもな」
「確か父親は、あのインペラトーレ……栗毛でしたか。青毛なら珍しいですね」
“インペラトーレ”という名が出た瞬間、空気がほんの少しだけ変わった。
誰もが一度、その名を飲み込むように黙る。
「まさか殿下の言う通りに種付けしたら受胎するなんて、誰も思わねぇよな」
「それはそうだ。インペラトーレは、この子でやっと六頭目の子供ですからね」
種牡馬の産駒は、人気のあるものだと数百頭、数千頭におよぶ。
そんな中でこの子馬の父であるインペラトーレは――手で数えられるほどしか産駒がいない。
“失敗種牡馬”そう陰で呼ぶ者さえいる。
だが、誰もそれを声にしない。
なぜならインペラトーレは、ただの種牡馬ではない。
皇太子の所有馬であり、かつて“青の皇帝”とまで呼ばれた名馬だったからだ。
「理由も聞いたが、ドルチェが恋をしているって一点張りだから、よくわからんし」
「馬が恋するなんて、あり得るんですか?」
若い厩務員の素朴な疑問に牧場長は「さぁな」と笑って肩をすくめた。
言葉にしないだけでここにいる全員が同じことを思っている。
――けれど、あり得ないと言い切れないのが馬という生き物なのだ。
気性、相性、癖、執着。
人間が勝手に名付けるものの中に確かに“意思”のようなものが混じる瞬間がある。
会話が途切れた。
馬房に残るのは、母馬の荒い呼吸と子馬のかすかな鼻息だけ。
子馬が立ち上がって、ちゃんと初乳を含んだのを確認する。
それは「この子は生きる」と宣言する、何より確かな儀式だ。
母馬の乳に吸い付く小さな口が必死に動く。
「よし……大丈夫だな」
「後は熱が出ないことを祈るだけだ」
人々は必要なことだけを済ませ、余計な音を立てないようにそっと馬房を出て行った。
扉が閉まると世界が急に静かになった。
出産を終えたばかりの母馬とどこかきょとりとしている子馬だけが残された。
藁の匂いの中で母馬はまた子を舐める。
守るように、誇るように、そして――何かを願うように。
※ストックがある間は予約投稿で更新していきます。
しばらくは週に1話から2話の更新頻度の予定です。
書き終わり次第、完結まで毎日更新に移行します。




