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硝子の靴を脱ぎ捨てて、インクの染みた手をとった。~実の母に踵を斬られ、全てを失ったシンデレラの転生義姉の私が、本屋の青年と出会って真実の愛と自由を綴るまで~

作者: 恋綴みるる
掲載日:2026/01/25


「あんたのせいだ!!あんたのせいでフラれたんだから!!その気持ち悪いくらい綺麗な顔で人の男誑かしてんでしょ!」


目の前には真っ赤な目で叫ぶ親友。今までの人生の殆どを隣で笑ってきた友人の激白に頭が真っ白になった。



「あんたなんか誰にも愛されずに死んじゃえばいいんだよ!!」



春の柔らかな陽気の中蝶のように私の身体はエメラルドグリーンの歩道橋から宙に舞った。


***

すすの匂いと、冷え切った朝の空気。それがこの屋敷の目覚めだった。


アナスタシア・トレメイン――それが、今の私の名前だ。鏡に映るのは、艶のある流れるような赤髪と、大きな緑色の目。


奇麗であれど綺麗ではない。それが私にはちょうど良い。


(……また、この最悪な朝が来た)


私は心の中で溜息をつき、きつく締め付けられたコルセットの苦しさに耐えた。


私が「前世」の記憶を取り戻したのは、三年前のことだ。かつての私は、日本のどこにでもいる平凡な学生だった。


誰にでも愛想良く振る舞い、嫌な委員会も押し付けられれば笑って引き受け、「いい人」という便利なレッテルを貼られた。


中身は伴っていなくても顔だけは人一倍優れた物がついてきた。それが嫌で嫌でたまらなかった。


生まれたときからの親友に歩道橋から突き落とされ、目覚めると、私は世界で最も有名な童話『シンデレラ』の中にいた。それも、主人公を苛め抜く、あの「意地悪な義姉」の一人として。


「アナスタシア! 何をしているの、この怠け者! エラに朝食の準備を急がせなさい!」


 階下から、鼓膜を突き刺すような鋭い声が響く。


母親――トレメイン夫人の声だ。私は反射的に背筋を伸ばし、喉の奥に広がる不快な味を飲み込んだ。


この世界での私の役割は、この絶対的な「女帝」の命令に従い、義妹のエラを虐げること。そうしなければ、この屋敷に私の居場所はない。


「はい、お母様! すぐに!」


 私はわざと耳障りな声を出し、エラが住む屋根裏部屋へと続く階段を駆け上がった。


 屋根裏部屋の扉を開けると、そこには朝日を浴びて床を磨くエラの姿があった。ボロボロの服を着ていても、彼女の美しさは隠しようがない。


内側から発光するような気品。それこそが、母が最も憎んでいるものだった。


「まだこんなところを掃除しているの? こののろま! お母様がお怒りよ!」


 私はエラの手から雑巾をひったくり、わざと床に投げつけた。心の中で「ごめんね」と一万回唱えながら。エラは悲しげに目を伏せ、「申し訳ありません、お姉様」と静かに頭を下げた。


 母が見ている。扉の隙間から、あの冷酷な緑色の瞳が監視しているのを私は知っていた。私はさらに声を荒らげた。


「いい? 貴女はただの召使いなの。自分の立場を弁えなさい!」


 エラを突き飛ばすようにして部屋を出る。その際、私は彼女の耳元で、母には聞こえないほどの微かな声で囁いた。


「……パン、棚の奥の裏に隠してあるわ。今のうちに食べて」


 エラが驚いたように顔を上げたが、私は振り返らずに部屋を飛び出した。心臓が早鐘を打っている。


 前世での私は、自分の意見を言えずに損ばかりしていた。この世界でも、私は「悪役」という台本通りに動くことでしか生きられない、臆病な役者のままだ。


その夜、私は自室で裁縫をしていた。ふと、鏡が気になり覗き込む。


緑色の目は翡翠のように煌めいているがどこか生気がない。


元の世界に戻れたら………どうしよう。


夜になるとその事ばかり考えてしまう。


もしかしたら、これは夢なのかもしれない。目覚めたらお母さんが美味しいご飯を作ってくれていてお父さんが慌ただしくネクタイを結んでいるかもしれない。


星を見上げて描く絵空事。



刹那、鈴蘭の掘り模様の鏡が光り出す。


「何………?」


 私は鏡に向かって問いかけた。声は柔らかく、鈴を転がすように笑って答える。



『私はフェアリーゴッドマザー、願いを叶える妖精よ』



『アナスタシア、あなたはこの世界の住人じゃないのね』


「………はい。」


『ごめんなさいね。多分手違いがあって……。こちらも元の世界に返してあげたいのだけど私の力じゃどうすることもできないのよ……。元の世界に帰る方法は一つしかないわ。』


手をほっぺたに当てて首を傾げる妖精。


「一つしかないって……?それはなんなんですか?」


きらり、と妖精が笑った。妖精はとても気持ちの良い太り方をしていて見ていて幸せな気分になれた。




『この世界で真実の愛に出会うこと。』



「………はい?」


『この偽りの物語の中で、“真実の愛”を見つけて頂戴。そうしたらあなたを元の平穏な場所へ戻せるわ』


「真実の愛……。王子様と結婚しろってことですか?」


『それはあなたが自分で見つけることよ。ただし、時間はあまりないわ。』


「えっ、それってどういう……?」


光は消え、鏡はただの古いガラスに戻った。



───真実の愛。そんなものが、この憎しみと虚飾に満ちたトレメイン家で見つかるはずがない。


でも見つけなければいけない。元の世界に帰るために。親友に謝るために。


私は窓の外を見上げた。遠くに見える王宮は、冷たく白く輝いている。あそこに行けば、王子に気に入られれば、私はこの泥沼のような生活から、そして自分を偽る日々から解放されるのだろうか。


だが、その時の私はまだ知らなかった。


母が隠し持っている過去の呪いが、そして私自身がこれから支払うことになる「血の代償」が、どれほど残酷なものかを。


私はただ、痛む胸を押さえながら、明日もまた「嫌な女」を演じるための仮面を、枕元に置いた。


***

トレメイン夫人の朝は、一分の狂いもなく始まる。


彼女が食堂に現れるとき、空気は凍りつき、埃一つ立てることさえ許されない静寂が支配する。漆黒のドレスに身を包んだ母は、彫刻のような無表情で食卓の端に座り、優雅に、しかし冷徹な所作で紅茶を口にする。


「アナスタシア。背筋が曲がっているわよ」


銀のスプーンがカップに当たる、かすかな音。それだけで私の心臓は跳ね上がった。私は慌てて椅子に深く座り直し、胸を張った。


コルセットのボーンが脇腹に食い込み、呼吸が浅くなる。


「申し訳ありません、お母様」


「口答えは不要。貴女たちに許されているのは、完璧であることだけ。……ドリゼラも、その下品な咀嚼音をやめなさい。貴族の令嬢として、恥を知ることね」


隣で震えていた姉のドリゼラが、顔を真っ赤にしてフォークを置いた。


この屋敷において、母の言葉は絶対的な「掟」だった。彼女は娘たちを愛しているのではない。自分という高貴な城壁を維持するための、装飾品として管理しているのだ。


食事が終わると、過酷な「教育」が始まる。


ダンス、礼儀作法、そして他者を屈服させるための冷徹な視線の作り方。母の指導は、教育というよりは調教に近かった。


「いい、アナスタシア。この世には二種類の人間しかいない。支配する者と、支配される者よ。エラを見てご覧なさい。彼女は『支配される側』の典型。希望という名の毒を飲み、救いがあると信じて泥にまみれている」


母は、階段の掃除をするエラを窓越しに指差した。その瞳には、侮蔑よりも深い「嫌悪」が宿っていた。


「……あの子のようになりたくなければ、心を鉄で覆いなさい。愛だの情だのという不確かなものに縋った者から、順番に破滅していくのよ。私のようにね」


最後の一言は、聞き逃してしまいそうなほど小さな呟きだった。私は思わず母の顔を盗み見た。いつも完璧なその横顔に、一瞬だけ、深い深い闇の底から響くような「後悔」の色が差した気がしたからだ。


その日の午後、私は母に命じられて、古い納戸の整理をさせられていた。埃を被った調度品の中に、一つだけ異質なものがあった。頑丈な鍵がかかった、黒い木箱だ。


(これは……?)


前世の好奇心が、慎重さを上回った。私は隙を見て、掃除用の針金で鍵を弄った。カチリ、と小さな音がして蓋が開く。中に入っていたのは、宝石でも金貨でもなかった。


それは、一足の「未完成の靴」だった。


ガラスの破片が埋め込まれたような、鋭く、それでいて悲しいほど美しい細工。その横には、古びた手紙が添えられていた。


『――愛するレオノーラへ。この靴が、君を誰も届かない高みへ連れて行ってくれる。僕の命をかけて……』


手紙を読み終える前に、背後に冷たい気配を感じた。


「……何を見ているのかしら」


心臓が止まるかと思った。振り向くと、そこには影のように立つ母がいた。その表情は、これまで見たこともないほど白く、激しい怒りに震えていた。


「お母様、これは……」


「捨てなさい。そんなゴミは」


母は私の手から靴を奪い取ると、床に叩きつけた。美しい硝子の細工が、虚しく砕け散る。


「愛なんて、人を狂わせるだけの呪いよ。アナスタシア、二度と忘れないことね。……明日からは、もっと厳しく指導します。舞踏会までに、貴女のその『甘い瞳』を完全に殺してあげるわ」


母の足音が遠ざかる。


私は砕け散った硝子の破片を見つめながら、恐怖に震えていた。母の鉄の掟。それは、彼女自身がかつて愛に裏切られ、引き裂かれた心の傷跡そのものだったのだ。



コンコンコン!!!



舞踏会の招待状を携えた王宮の使者が、屋敷の門を叩いた。



ここからだ。ここからが、勝負。



***

舞踏会までの一週間、屋敷は戦場のようだった。


母の指導は激しさを増し、少しでもステップが乱れれば、厳しい叱責が飛んだ。私の心は擦り切れ、空っぽのはずの心が痛んだ。


そんなある夜、私は空腹と足の痛みに耐えかね、台所へ忍び込んだ。カビの生えかけたパンの端切れでもいい、何かが欲しかった。だが、暗い台所の隅に、先客がいた。


「……お姉様?」


エラだった。彼女は暖炉の残り火の前に座り、破れたドレスをつくろっていた。それは亡き実母の形見のドレスだった。


「な、何よ。こんな時間に……」


私は反射的に冷たい声を出し、すぐさま後悔した。ここでは誰も見ていない。母の監視もない。私はふう、と深く息を吐き、前世の「自分」を少しだけ表に出した。


「……そのドレス、お母様に見つかったら捨てられるわよ」


エラは肩を震わせ、ドレスを抱きしめた。「分かっています。でも、どうしてもこれで行きたくて」


私は彼女の隣に腰を下ろした。エラが怯えたように身を引く。


「貸して。貴女のその下手な縫い方じゃ、一回踊っただけでバラバラになるわ」


私はエラの手から針を奪い取った。前世で手芸が趣味だった私の指は、この世界の「アナスタシア」としての器用さと相まって、魔法のように動いた。エラは目を丸くして、私の手元を見つめていた。


「お姉様……どうして?」


「勘違いしないで。貴女があまりに惨めな格好で舞踏会に来たら、私の恥になるからよ」


嘘だ。本当は、彼女に幸せになってほしかった。彼女が王子に見初められることこそが、この物語の「正解」。だけど、私が元の世界に帰るための唯一のルートは違うんだ。


「ねえ、エラ。……真実の愛って、本当にあると思う?」


私の問いに、エラは少し考えてから、汚れのない瞳で私を見た。


「ええ。それは、相手を自分より大切に思う心のことだと思います」


その言葉は、私の胸を鋭く刺した。私は、自分の帰還のためにエラを利用しようとしているのではないか。自分を愛することさえできていない私が、愛を語る資格があるのか。


「お姉様、あの……。いつも、隠してくれている食べ物。気づいています」


エラの小さな声が、静まり返った台所に響いた。


「お母様の前では怖いけれど、お姉様の手はいつも温かいから」


私は鼻の奥がツンとするのを堪え、乱暴にドレスを彼女に突き出した。


「……さっさと寝なさい。明日も掃除が山積みよ」


エラが屋根裏へ戻った後、私は一人で暗闇の中、自分の手を見つめた。


この手は、エラを傷つけるための手ではない。誰かのために何かを縫い合わせるための手だ。


この手で何ができるのか。何を救って何を創れるのか。未来か、過去か。真実の愛か激情の虚言か。


(この世界の夜って暗いな………)


現代は街頭の光で夜でもどこでも明るい。この暗さに包まれているとあの明るさが恋しくなる。


でも、星はこっちの方が断然綺麗。


あの星みたいになりたい。星座になりたい。


誰かと集まりたい。繋いだ線をほどかないで欲しい。


この願いが……星の光になって。いつの日か君に届くまで。


***

王宮の舞踏会場は、数千の蝋燭の光と、目が眩むようなシャンデリアの輝きに満ちていた。溢れかえる貴族たちの宝石が、まるで呼吸する光の海のようだ。


しかし、その華やかさの裏で、私の心は凍りついていた。


「背筋を伸ばしなさい、アナスタシア。今夜、貴女は我が家の再興を担う『商品』なのよ」


隣に立つ母の、冷たく研ぎ澄まされた声が耳に刺さる。母は、私とドリゼラの装いに一切の妥協を許さなかった。キツく締められたコルセットは肋骨を圧迫し、一息吸うごとに鋭い痛みが走る。


しかし、母の瞳にあるのは、娘への愛情ではなく、獲物を狙う狩人の執念だった。


皆が私を見て色めき立つ。この世界でも良い見た目を持って生まれてきた私は時々このような視線を向けられていた。


たが、母はその視線を許さない。ただ一人を除いて。


「お会いできて光栄です。こちらは私の娘です」


「アナスタシアと申します」


「ドリゼラでぇす」


姉の甘ったるい声に吐き気がした。王子はこちらを見ていない。


会場に、一際大きなざわめきが広がった。


大階段の上に、一人の美しい女性が現れたのだ。白銀のドレスを纏い、魔法の輝きを放つその姿に、誰もが息を呑んだ。……エラだ。


私が夜なべして修復を手伝ったあのドレスが、魔法の力で奇跡のような衣へと変わっていた。


「……信じられない」


ドリゼラが呆然と呟く中、母の瞳だけが鋭く細められた。母はエラの正体に気づいている。


その証拠に、彼女の手首には青白い筋が浮き出るほど、扇子が強く握りしめられていた。



真実の愛、あるいは絶望の序曲。王子はエラへと近づき手を取った。



王子とエラが踊る旋律の中で、私はわざと人混みを離れ、テラスへと逃げ出した。


前世の記憶が囁く。この後、時計が十二時を告げ、エラが靴を脱ぎ捨てて走り去る。


そして、この物語で最も残酷な「靴の試着」が始まるのだと。



「……あなたは、この美しい夜を楽しんではいないようですね」


暗がりに、一人の青年が立っていた。王子の近衛兵だろうか。派手な装飾はないが、その瞳には深い知性が宿っている。


「……美しいものは、いつか壊れるから恐ろしいだけです」


私は咄嗟に、前世の冷めた視点で答えてしまった。青年は意外そうに眉を上げ、少しだけ笑った。


「壊れるからこそ、今、この瞬間だけを慈しむ。それこそが愛だとは思いませんか?」


「そうだったら……どれほど良かったでしょうか。」


大きな心臓に響く音が鳴る。


十二時の鐘だ。


「すみません、もう行かないと。」


そう言って私は走りだす。




「街で!!アルビレオという本屋を営んでいます!もしよければ来てください!!」



エラが階段を駆け下り、硝子の靴が階段に残される。王宮中が騒然とする中、私は母の隣へと戻った。母の顔は、月の光を浴びて青白く、そして狂気じみた決意に満ちていた。


「帰りましょう、アナスタシア。明日、王宮の使いが靴を持って現れるわ」


母の手が私の腕を強く掴んだ。その指先は、まるで氷のように冷たかった。


「……もし靴に足が合わなければ、どうするのですか?」


私の問いに、母は鏡のような無表情で答えた。


「合うようにすればいいだけのこと。邪魔なものは、切り捨てればいい。そうでなければ、女がこの残酷な世界で生き残ることなど不可能なのだから」


母の言葉の裏にある「血の代償」を予感し、私は震えた。


物語の歯車は、もはや止めることができない。翌朝、あの一足の硝子の靴が、私の運命と踵を無慈悲に切り裂くために、屋敷の門を叩くことになるのだ。


***

翌朝、トレメイン家の屋敷には死のような静寂が満ちていた。


王宮の使いが携えてきたのは、昨日、階段に落ちていたという片方の硝子の靴。太陽の光を浴びて虹色に輝くその靴は、美しくも、鋭利な刃物のようにも見えた。


「アナスタシア、お入りなさい」


母の部屋に呼ばれたとき、鼻を突いたのは重苦しい鉄の匂いだった。


母は暖炉の前に立ち、手には銀色に光る執刀用のナイフを握っていた。その瞳には、もはや一抹の躊躇ためらいもない。


「お母様、それは……」


「黙りなさい。王妃の座はすぐそこにあるのよ。この靴に足が入れば、お前は一生、誰にも虐げられない高みへ行ける。……たとえ、何かを失ったとしても」


母の細く白い指が、私の足首を掴んだ。


私は逃げ出そうとした。前世の私が叫んでいた。「そんなの、愛じゃない。狂気だ」と。けれど、この物語の『悪役』としての運命が、私の身体を金縛りにした。


「……痛いのは、一瞬よ」


母の冷たい声と共に、激痛が走った。



 

視界が───白く弾ける。


何よりも紅い血が吹き出す様を……滑稽なほどに綺麗だと思った。


自分の血が、冷たい石の床に広がっていく音。母は、私の踵を切り落としたのだ。


激痛の中で、私は母の顔を見た。彼女は泣いていなかった。だが、その瞳に映る私は、かつて愛に裏切られてすべてを捨てた、若き日の母自身だったのかもしれない。


「さあ、履きなさい。これで、お前は完璧になる」


血に濡れた足が、硝子の靴に無理やり押し込まれる。


透明な靴の中に、くれないが混じり、不気味な美しさを放った。私は一歩、歩き出そうとして——その場に崩れ落ちた。


「……無理です、お母様」


私は硝子の靴を脱ぎ捨てた。この世の物とは思えないほど低い声。それは私がこの世界で初めての母に対する反抗だった。


床に転がった靴は、血を浴びてなお、冷笑するように輝いている。


従者はこの世の終わりのような顔をしていた。


「私は……お母様の道具にはならない!!この足は、もう、あなたのために歩くことはできないわ!!」


母の顔から血の気が引いていく。


自分のすべてを捧げて、娘を『勝者』に仕立て上げようとした彼女の歪んだ計画が、今、崩れ去ったのだ。



「役立たず!!我が家の恥、呪われた娘!!その足で何ができるというの!!もうあなたは幸せになれないわ!!」



「………それはどうかしら?」



痛みでくらくらするなか、私は不敵に笑った。


「あなたっ!!まさか……っ!!」



私は首にかけていた鍵をいつの間にか表れていた王子に向けて投げた。



「あなたのお姫様はそこにいるわ!!私の妹を絶対に幸せにして頂戴!!!」



「幸せになれなくっても誰かを幸せにすることはできるのよ!!!」


母は力なく椅子に座り込み、視線を逸らした。


私は這うようにして部屋を出た。廊下には、魔法が解けたあとのような、虚しい風が吹き抜けていた。


私は屋敷を追放される。踵を失い、血の滲む足跡を地面に残しながら走った。


母の支配からも、王宮の華やかさからも遠く離れた、名もなき街の片隅へと。


王子様と結ばれなかった。私は恐らく元の世界へ帰ることはできない。


それでもエラに幸せになってほしかった。


薄れる意識。出血が止まらない。死ぬ。


最期に………会いたかった。


あの青年に。


古書の香り。柔らかい声。


忘れてた………私………


前世では作家になりたかったんだったっけ……………



***

目を覚ましたとき、鼻をくすぐったのは煤けた紙と古いインクの匂いだった。


そこは、天井まで届く本棚に囲まれた、小さな部屋だった。窓から差し込む柔らかな午後の光が、埃を金色の粒に変えて踊らせている。


「気がつきましたか」


落ち着いた声に顔を向けると、一人の青年が傍らに座っていた。舞踏会のテラスで見かけた、あの知的な瞳をした青年だった。


「ここは……。私は、どうして……」


「道端で倒れているあなたを見つけました。ひどい怪我でしたから」


彼の視線が、包帯で厚く巻かれた私の足に向けられた。


踵の痛みは、鈍い疼きへと変わっていた。あの日、母の手によって切り落とされたのは、私の体の一部だけではない。


トレメイン家の一員としての地位も、前世から抱えていた「誰かに望まれる自分でありたい」という呪縛も、すべてあの血と共に流れ去ったのだ。


「……もう、元通りには歩けないわね」


自嘲気味に呟いた私に、静かに首を振った。




「元通りである必要はありません。これからは、あなたの歩きたい速さで、歩きたい場所へ行けばいいんです」




その言葉で心は溢れた。まるで輪郭を描いたみたいだわ。そして誰もが知らぬふりをした私の心に………彼は寄り添ってくれたんだ。



それからの数ヶ月、私は『アルビレオ』の二階で療養しながら、店の手伝いをするようになった。


踵の傷は塞がったが、歩くときは松葉杖が必要だった。かつてドレスの裾を翻して華麗に踊った足は、今は不器用な足音を立てる。けれど、不思議と心は軽かった。


彼の名前はリアムと言った。私にはフランチェスカという新しい名前をつけてくれた。


私が「悪役」であったことも、母から受けた仕打ちも、深くは問い詰めることはなかった。


ただ、毎日一冊、私の枕元に本を置いてくれた。


英雄の物語、遠い国の歴史、そして――自分を愛せなかった誰かが、光を見つけるまでの軌跡。


目の前の瞳は今までの誰とも違う。その優しさに触れていると堪えていた涙が溢れてくる。


ある夜、私達は店で本の整理をしていた。リアムのあたたかくて一回り大きな手が重なる。


小さな心臓の鼓動が二つ。


冷たい雨に打たれ陽だまりを避けてたのに。あなたの手のひらはあたたかった。いつまでも続いて欲しい。


「フランチェスカ………君のことが、好きだ」


リアムの指先が、本の整理で汚れた私の手に触れた。かつて母が「汚らわしい」と忌み嫌った、労働とインクで汚れた手。


けれど、リアムはそれを愛おしそうに見つめていた。


「あなたのその手は、エラのドレスを直した優しい手だ。そして、自分の足でこの店まで辿り着いた、強い人の手なんだ。」


私は彼を見つめ返した。


前世の私は、誰かに愛されるために「いい人」を演じていた。この世界のアナスタシアは、母に認められるために「悪役」を演じていた。


でも、リアムの前にいる私は、松葉杖をつき、踵を失い、何の色もつけていない、ただの「私」だ。


「私もっ……あなたのことが………好きだよ」


好きだ。どうしようもないくらい、君を想っている。ばらばらになって花になって風に溶けていきそうな気持ち。



「私、この世界の、人間じゃないの……」



私は、初めて彼に「転生者」としての秘密、そして「真実の愛に出会えば帰れる」という魔法の条件を打ち明けた。彼は驚いたように目を見開いたが、やがて悲しげに、けれど優しく微笑んだ。


「……そう。なら、僕が君を愛することは、あなたをここから連れ去ってしまうことになるんだね。」


彼の声が震えていた。その時、私の胸の中に、これまで感じたことのない熱い感情が込み上げた。


もし、彼を愛することが「帰還」を意味するのなら。


もし、元の世界に戻ることが、この静かな本屋の時間を失うことなら――。


「……帰りたくない」


私は自分でも驚くほどはっきりとした声で言った。


「真実の愛」の正体が、ようやく分かった気がした。それは、どこか遠い場所へ連れて行ってくれる魔法の王子様のことではない。



 「欠けた自分をそのまま愛してくれる人と、その人のいる場所で生きたいと願う心」


のことなのだ。


その瞬間、店内の姿見がボウと青白く光り始めた。帰還の扉が開こうとしている。


しかし、その光を遮るように、店の扉が激しく叩かれた。


「アナスタシア! 出てきなさい、この恩知らず娘!」


凍てつくような、あの母の声だった。


店の扉が蹴破られるような音とともに、凍てつく冬の夜気が流れ込んできた。


そこに立っていたのは、かつての威厳を失い、復讐心という名の熱病に浮かされた母、トレメイン夫人だった。


没落の影が差したその顔は、月の光の下で一層凄惨に白く浮き上がっている。


「やはりここにいたのね、アナスタシア。私のすべてを台無しにして、自分だけ、こんな掃き溜めで安らぎを得ようなんて許さないわ」


母の手には、あの舞踏会の夜、私が脱ぎ捨てた血に汚れた硝子の靴が握られていた。


彼女はそれを呪物のように掲げ、私に詰め寄る。


「さあ、戻るのよ。お前の踵は私が直してあげる。もう一度、完璧な人形にしてあげるから!」


その狂気を遮るように、リアムが私の前に立った。



「彼女はもう、あなたの所有物ではありません!!彼女は自分の足で、自分の居場所を見つけたんです!!」




「っ……!!ふざっけるなあっ!!!!!」




切っ先の尖った割れたガラスの靴が………リアムの身体へ………


走れ。走れ走れ走れ走れ走れ走れ!!!!!!



ドンッ!!!!!!



鈍い衝撃音。溢れ出る………紅。



「フランチェスカッ!!!」



私の下腹部には……尖ったガラスの靴。



「愛は………呪いじゃない。人を弱くする毒じゃない。……私を……愛してくれたリアムが教えてくれた………。傷ついた自分を許し、何度でも新しく………生き直せるという自由だから………」



光は溢れる。リアムの目から涙がこぼれた。


「泣かないで………あの日みたいに、私を見つけてくれたときみたいに………笑ってよ」


「フランチェスカ」


「僕は、何度生まれ変わっても君を幸せにする。何度だって君を………見つけてみせるから。」


「ありがとうっ………」



「大好き」


「私も……」


「もっと一緒にいたかった」


「そうだ……ね」


「ありがとう」



「「またね」」




光は溢れる。元の世界へ。生きる確かな時間へ。


幸せを見つけた。


そこに君がいて私がいる。それだけで良かったんだ。


ありがとう、またね。大好きだよ。


***

本屋『アルカディア』の奥、リアムが「開かずの書箱」として保管していた箱の中に、その日記はあった。


表紙に刻まれているのは、母の旧姓。そこには、今の冷徹な「トレメイン夫人」からは想像もつかない、一人の情熱的な少女の独白が綴られていた。


職人の恋と硝子の誓い。


若き日の母・レオノーラは、没落しかけた名家の娘だった。彼女が愛したのは、王宮に仕える若き靴職人。彼は貧しかったが、世界で最も美しい靴を作る才能があった。


二人は、身分を捨てて駆け落ちする約束をしていた。


「レオノーラ、君に世界で一番美しい靴を贈ろう。それを履けば、君はどんな泥濘ぬかるみも歩かなくて済む。君の足は、僕が一生守る」


しかし、運命は残酷だった。


舞踏会の前夜、彼は王宮の儀式に使う硝子の靴を完成させる直前、事故で命を落とした。


レオノーラが駆けつけたとき、役人たちは彼の死を悼むどころか、未完成の靴を指してこう吐き捨てたという。


「無能な職人め。貴重な硝子を無駄にしおって。この女も、卑しい男と通じた汚れた女だ」


愛した人の亡骸のそばで、彼女は「愛」が自分を守るどころか、自分を社会の底辺へ突き落とす最大の弱点であることを思い知らされた。


それからの彼女の人生は、愛という感情への復讐だった。


『愛は呪いだ。心を縛り、人を破滅させる毒だ。私はもう二度と、愛に縋って泣きはしない。……娘たちよ、許しておくれ。お前たちが「心」を持ってしまえば、いつか私と同じ絶望を味わうことになる。ならば、私がその心を壊してあげる。完璧な「鎧」を身に纏わせ、誰にも踏みにじられない高貴な人形にしてあげることが、私の唯一の慈悲なのだ』


***

日記を読み終えたフランチェスカは、震える指で自分の踵の傷をなぞった。


母が靴を履かせるために踵を切り落としたあの狂気は、母にとっては「愛という弱さ」を物理的に切り捨て、娘を無敵の存在に仕立て上げようとした、歪みきった「救済」だったのだ。


「お母様……あなたは、私を憎んでいたんじゃない。私の中に残っていた『愛を信じる心』を、殺してあげようとしていたのね……」


母は、かつて自分が救われなかった絶望を、娘という鏡に映し出し、それを破壊することで自分を保とうとしていた。


それでも………。


母の不幸は母の不幸。私の幸せは私の幸せ。


いくら他人が不幸だからといって私まで不幸でいなければいけない理由はない。


躊躇いさえも、自分らしさと。


受け入れて歩き出す。


***

目が覚めると、そこは無機質な白い天井だった。


鼻を突くのは古いインクの匂いではなく、消毒液の香り。耳に届くのは暖炉のはぜる音ではなく、精密機器の規則正しい電子音。


「……ここ、は……」


私は、日本の病院のベッドの上にいた。


カレンダーは、私が転生したあの日から数日しか経っていないことを示している。医師の話によれば、私は意識を失い、数日間眠り続けていたのだという。


「夢、だったのかな……」


私はゆっくりと体を起こし、右足の感覚を確かめた。そこには、あの凄惨な「踵の傷」はない。なめらかで、健康な、普通の女の子の足だ。


けれど、胸の奥には、あの一冊一冊の本の重みと、リアムの温かな手の感触が、消えない火のように残っていた。


私は、元の「誰にでもいい顔をする自分」には戻れなかった。嫌なことは断り、自分の意思を持ち、歩き始めた。


あ、一つだけ変えたところがある。


長かった髪の毛をばっさりと切った。とある漫画の主人公に憧れて、ショートヘアに。


えへへ。麗しい気がする。


「あーもう!一人暮らしなんてするものじゃないわよ!ずっとあなたは家にいたらいいの!!」


「ママ私のこと好きすぎでしょ。大丈夫だって。そんくらい。」


大学生になり、一人暮らしを始める。好きな物を自分で選んで自分の家に住む。


英蘭えら莉蘭りら。姉ちゃん、行ってくるから。」


二人の妹に新幹線に乗る直前、手を振る。ママは涙ながらに手を振っている。


冬蘭ふらん!!!頑張ってね!」


「風邪引かないでよー!!」


「危ない男には気をつけるのよ。あと友達も選ぶこと。わざわざ一人暮らしするんだから勉強も妥協しないで。まあ冬蘭なら大丈夫だと思うけど。夜の十二時には絶対に一人暮らしの家に帰るのよ。お盆と正月は────。」


「ママストーップ。」


「お姉ちゃんしっかりしてるから大丈夫だって!!」


笑いながら、手を振る。


新しい世界に、一歩踏み出したんだ。


***

雪がちらつき始めた、ある日の午後。


私は街の喧騒から離れた裏通りで、一軒の小さな古本屋を見つけた。看板には、見覚えのある文字でこう刻まれていた。


『アルビレオ』


心臓が、耳元で鐘を打つように激しく鳴った。


震える手で扉を開けると、カランと、あの懐かしいベルの音が響く。店内の香りは、あの世界と全く同じ――煤けた紙と、優しい安らぎの匂い。


「いらっしゃいませ」


奥のカウンターから顔を上げたのは、眼鏡をかけ、現代の服を纏った一人の青年だった。


顔立ちも、声も、そして何よりも私を射抜くような深い知性を湛えた瞳。それは間違いなく、あの世界で私の欠けた心を繋ぎ合わせてくれたリアムだった。


彼は私を見て、息を呑んだ。


私たちは言葉を交わすことも忘れ、数秒間、止まった時間の中で見つめ合った。


「……その足、もう痛くない?」


リアムが、震える声でそう問いかけた。


その瞬間、視界が涙で滲んだ。彼は、覚えていてくれたのだ。異世界の記憶を、私が支払った血の代償を、そして二人で誓った約束を。


「ええ。もうどこへだって行けるわ。……あなたのいる場所へ、自分の足で歩いて来られたもの」


リアムはカウンターを飛び出し、私の手を取った。その手は、あの冬の夜と同じように、私の凍えた心を溶かすほど温かかった。


「フランチェスカ……いいえ、この世界でのあなたの名前で、もう一度自己紹介をさせてほしい」


彼は優しく微笑み、私の前に跪いた。それは王子の求婚よりもずっと誠実で、尊い誓いの儀式。


「僕は、あなたと物語の続きを綴るために、この世界へあなたを追いかけてきました。……僕と一緒に、新しい靴を履いて歩いてくれませんか?」


私は彼の手を強く握りしめ、力強く頷いた。


外は冷たい雪が降っているけれど、私たちの物語はここから始まる。


もう、意地悪な姉も、冷酷な母も、魔法の靴もいらない。


私は私のままで、彼と一緒に、自分たちの足跡を世界に刻んでいく。




初めて、あなたに会いました。



ずっと前から、好きでした。







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