忘却と虚飾の物語【無常堂夜話3】
学部の先輩に誘われ、峠の廃集落の調査に赴いた戻子と鏡子。
しかし、そこは奇妙な風習と凄惨な過去に彩られた『幻の集落』だった。
怪異が襲い来る中、彼女たちは無事に戻れるのか?
起・峠の謎
「戻子、廃集落の調査に興味あらへん?」
担当教官からの課題も提出し、学食で一息ついていた私は、親友の鏡子からいきなりそう言われた。
「廃集落の調査?」
私は、目をキラキラさせている鏡子に、何やら学術的好奇心以外の何かを感じ取り、即答を避けて訊き返す。だいたい鏡子……貴家鏡子は、文献史料の収集や解読、考察よりもフィールドワークの方が得意で、身体を動かすことだったら何にでも首を突っ込む性癖があるが、その代わり後先を考えず動くところがある。
だから今回のお誘いも、調査そのものよりも『廃集落に行く』ことが、彼女の動機になっているのではないかと危惧し、またその心配は半分当たっていた。
「せや! 2年の油川先輩は知っとる?」
油川先輩と聞いて、私は『人文学部の天使』と言われている先輩のことを思い出す。
豊かで艶やかな黒髪と、きめの細かい白い肌を持つ美人さんで、そこはかとなく高貴な雰囲気を漂わせている先輩のことは、学内の噂でよく耳にしている。
「噂程度のことしか知らないけれど、油川先輩がどうしたの?」
私は油川先輩と『廃集落』が、どうしても結びつかなかったので、鏡子に訊いてみる。すると鏡子は、思いもよらないことを言った。
「油川先輩、実はめっちゃオカルトファンなんやて。あの高貴な美人さんがキャーキャー言うなんて、ごっつええ感じや思わへんか?」
確かに、油川先輩は沈着冷静、学問においても数字とデータを大事にする、という噂だ。そんな先輩が心霊現象に興味を持っているなんて、ちょっと信じられない話だった。
「で? 廃集落の調査とオカルトがどうつながるの? まさか廃集落にまつわる怖い話なんて都市伝説めいたものを検証するなんてこと言わないわよね?」
私が言うと、鏡子はにぱぁ~って笑って、
「さすが戻子やな、順を追って説明するわ」
そう言うと、何故彼女が私を廃集落の調査に誘ったか、そもそも何を調査するのかを説明しだした。
次の日、私はわざと鏡子のことを避けていた。理由は、まだ油川先輩の調査に参加するかを決めていなかったためである。
鏡子の話では、調査対象はU峠の近くにある廃集落で、江戸時代の書物で村のあらましは確認でき、昭和中期まで存在していたそうである。
そしてその村……集落には『山姥伝説』が残されていたそうで、集落を歩けばその痕跡が確認できるかもしれない、ということだった。
話を聞く限り、ちゃんとしたフィールドワークであり、恐らく指導教官のOKは取れているのだろう。というか、油川先輩が噂どおりの人なら、文献史料も現地の地図・古地図も、先行研究もきちんと下調べをして、テーマと方向性をはっきりさせているはずだ。
その意味では、安心して参加できそうだし、参加して得るものも多そうだ。
けれど私が引っ掛かったのは、11月も間近なこの時期に、標高の高いU峠に行って大丈夫かなってことと、伝説の検証が主目的だという部分である。
先月、私は鏡子と共に『雨竜島伝説』を調査したが、目的は伝説の存在を確認し、伝説が意味する当時の社会的状況を推論することだった。『検証』とは違うのだ。
そもそも、何を検証するのだろうか? 廃集落に山姥が存在したこと? 伝承どおりすれば山姥から逃げられること?……どちらもナンセンスだ。
講義棟から出て、そう考えながら歩いている私に、鏡子が声をかけて来た。
「あ、いたいた。戻子!」
マズい時に見つかっちゃった……そう思った私が振り返った時、鏡子は一組の男女を連れて駆け寄って来た。
「はあ、はあ、やっと会えたで」
息を弾ませる鏡子に、私はいつもどおりの声で
「午前中は違う講義を取っているから、仕方ないじゃない」
そう答える。鏡子は恨めしそうな顔で私を見て、
「せやかて、お昼もシカトせんでええやん。こないだ喫茶店の代金踏み倒したんを怒ってるんか?」
そう、私の中では終結している話を持ち出す。これは言い訳で長くなりそうだ……そう思った私は、わざと大きな声で鏡子の後ろにいる二人に挨拶をした。
「こんにちは、人文学科1回生の一条戻子です」
すると鏡子は、慌てて二人を紹介してくれた。
「ああ、せやった。油川先輩、山ちゃん先輩、うちの親友の戻子やねん。戻子、油川先輩と山本先輩や。今度の廃集落の調査には山本先輩も行きはるんやで?」
そう言われたが、人を圧倒するような存在感を放つこの男性と、私は面識がない。
私の表情を読んだのか、その男性は日焼けした厳つい顔をほころばせて自己紹介した。
「初めまして。おれは法学部2回生の山本春行です。鏡子ちゃんの道場でお世話になってましてね?
お嬢から『廃集落の調査について来てほしい』って頼まれて、二人っきりってのもお嬢が気を遣うだろうから鏡子ちゃんを誘ったら、君が来てくれるなら調査に参加するって言ってくれたんでね。
いやぁ~助かったよ。お嬢、これで調査ができるな。いつ行く?」
油川先輩は白い顔にうっすらと笑みを浮かべ、そよ風のような声で言った。
「初めまして、油川春弓です。一条さん、急なお話で済みませんが、ご参加いただいて非常に助かります。本当にありがとうございます。
明後日10月31日の18時に出発しますので、校門の前に来てください。調査期間は11月3日の正午までを予定しています。
夜はビバークの可能性がありますので、着替えや防寒具は準備してきてください。テントや食料は春行に任せていますので、心配は無用です。よろしくお願いしますね?」
鏡子は上機嫌で鼻歌を歌いながら歩いているが、私は釈然としなかった。
さっきの話でも、私が参加することは決定事項となっているみたいで、二人の先輩からお礼を言われるとお断りもできず、『考えさせてくれ』とも言いかねる雰囲気だった。
「なんや戻子。さっきの先輩たちの顔見たやろ? もううちと調査に参加するしかないねん。腹括ってや」
「そんなこと言って、私に相談する前に、私も参加することになっていたんでしょ?」
私がむくれながら言うと、鏡子はペロッと舌を出して、
「あ、やっぱバレとん? うちかて、たった一人で先輩二人に見せつけられるんはなぁ。
戻子がおれば、ダブルデートになるからええって思ったんや」
鏡子はお気楽にそう言うが、私はやっぱり違和感がぬぐえなかった。何か良くないことが起こりそうな予感がしていたのだ。
「冬の峠近くの廃集落……鏡子は何か嫌な感じがしないの? しかもU峠って、冬場は結構事故も多いって聞くし」
私がそんなこと言いながら渋っていると、
「しゃあないなぁ、夕飯はうちが奢るわ! そのあと、久しぶりに道場に来ぇへん? おとんが戻子に会いたい言うてんねん」
鏡子は気分を盛り上げるようにそう言った。
次の日、出発を明日に控え(結局私は断ることができなかった)、それぞれに必要なものをそろえるため、鏡子と私は買い物に出ていた。
鏡子はこれでもかっていうくらいお菓子を買い込んでいたが、私はスマホの予備バッテリーをしこたま買い込んだ。3泊4日の日程のうち、まるまる3日は充電ができない環境にあるはずで、もしもの時に連絡が取れなかったら命に関わる事態になりかねない。
それに、いくら食料は山本先輩が準備するって言っても、単独行動や別行動をしたとき道に迷ったら大変だ。だから私はお菓子じゃなく、携帯食料やバランス栄養食、缶詰なんかを買い込んだ。
一通り買い物が済んだ私たちは、本格的な準備は明日にすることにして、早々に家に帰ることにした。鏡子はもっと遊びたかったようだが、
「調査の手伝いで参加するのなら、現地の地図や『山姥伝説』などを事前に調べておかないとね。主担者の油川先輩だけに頼ってたらダメだよ?」
という私の意見に渋々従ってくれたのだ。自分が納得したら、耳の痛い言葉にも従うところは、鏡子のいいところだった。
私が、現地の地図を見ながら歩いていると、不意に周囲の雰囲気が変わった。冬場の黄昏時は、人通りがあっても寒々しい感じがするものだが、急に春の日差しの中に踏み込んだように、温かい風が頬を撫でた。
ハッとして私が顔を上げると、ノスタルジックな建物が並んだ広場に立っていた。『猫の恩返し』に出てくる『猫の事務所』がある広場を日本風にした感じ……と言ったら伝わるだろうか?
私の目の前にあるのは、木彫りの『無常堂』という看板が立てられた、木造2階建ての古いお店だった。歪んだガラスがはまった木製の引き戸や、年代を経て黒ずんだ板壁、昔のアーケードでよく見かけた帆布製の庇と、すごく郷愁を誘う佇まいだ。
ここには、縁がないと来られないらしい。私はここの店主とひょんなことで縁が結ばれてしまったため、私が望めばいつでもここに来られるのだけれど。
しかし不思議なのは、さっきまで私は『無常堂』のことは考えていなかったはずだ。明日からの調査に対する不安や、違和感を抱えてはいたが、ここに来たいと望んだわけではない。なのに私はここにいる……それが不思議だった。
だが、不思議は不思議として、せっかく来たんだから店の中を覗いてもみたいし、店主の顔も見て行きたい。ということで、私は迷わず空いている入口から、お店の中に足を踏み入れた。
お店の中は、『骨董品屋』のイメージから少し外れていて、思ったよりも明るい。だから、入って左側に置かれたアンティークの類も、よくよく見なければ不気味な感じはしない。
そして、私のお気に入りのスペースはお店の右側だ。ここには古今東西の古書がずらりと並んでいる。羊皮紙でできた祈祷書や、魔術のコデックス、パピルスみたいな巻物から中国の木簡、竹簡、日本の縦帳、横帳の古文書、果てはどうやって手に入れたか判らないが、楔形文字が刻まれた粘土板の類まであった。
「あれ、これって……」
私は、ちょうど興味があった分野の古書が並べられているのを見て、思わず手に取ってみる。端正な文字で『魔女に与える鉄槌/ハインリヒ・クラーマー』と書かれた紙片が挟んであった。
「あれ、戻子さんは魔女狩りに興味があるんですか?」
「ふぇっ!?」
ドサッ。
私は、不意に後ろから声をかけられて飛び上がる。そして思わず本を落としてしまった。
「す、すみませんっ!」
マズい、古書だから余計に大切に扱わないといけないのに、びっくりしたからって床に落とすなんて。ページが破れたり、装丁が崩れたりしたら弁償ものだ。
私は慌てて本を拾い上げる。そして何気なく挟んであった紙片の裏を見て仰天した。表は本のタイトルと作者が書かれている紙片、裏には売値が書いてあって、なんと70万円もする! 手が震えてもう一度床に落っことしそうになった。
「ああ、気にしないで。結構頑丈に修復されているみたいだから」
店主のお兄さん……白髪だらけの天然パーマ、丸顔で人の好さそうな笑顔を絶やさないこの人物は化野空という……が、本を書架に戻しながらそう言う。
ソラさん(私は彼をそう呼んでいる)の年齢は不詳だが、うちの助教であるノブさんが25歳、クラス担任で指導教官を兼ねる梅ちゃん准教授が29歳で、二人ともタメ口を利いていたから、多分そのくらいの歳なんだろうなぁと思う。
私が(古書の値段が想定外に高かったせいでもあるが)ぼーっとしていると、ソラさんが顔を覗き込んできて、
「何か悩みがあるみたいですね? 話していきませんか?」
そう言いながら、紅茶を準備し始めた。私はその時、今度の調査についてのことを、ずっとソラさんに相談したかったのだと気が付いた。
「……なるほど、U峠の廃集落を調査しに行くと?」
ソラさんは私の話を聞き終わると、そう言いながら立ち上がり、何か古いノートを調べ始めた。
「ふむ、去年は11月半ばまで雪は降っていないみたいだ。ただ、標高が千メートルに近いから、かなり寒いだろうね。防寒具や携帯カイロを用意しておいた方がいい」
あれ? ソラさんがそう言うなら、U峠には私が気にしているような危険はない?
私が質問したそうにしている顔を見て、ソラさんは笑って答えを先に言った。
「U峠の北には昔、神という集落があった。かなり山奥だが、昭和の中頃まで人が住んでいた。『山姥』の話が広まったのは江戸時代後期で、本草学者の中村仁庵が『中仙道本草記』で余禄として紹介したのが始まりだ。
ぼくも少し興味はある。特に峠にまつわる都市伝説との関わりにおいてね?」
「峠に何か怖い伝説があるんですか?」
私が訊くと、ソラさんは肩をすくめて言った。
「最近聞き込んだんだが、あくまで都市伝説だよ? 峠に餓鬼が出るらしい。ぼくはまだ、見たことはないけどね」
★ ★ ★ ★ ★
承・廃集落にて
そしてやってきた10月31日。17時40分に校門に着くと、すでに油川先輩と鏡子が待っていた。
「参加していただき、ありがとうございます。春行は頼りにはなるんですが、フィールドワークの経験がないので、わたし一人じゃ正直、心許なかったんです」
そう言う先輩は、調査用のグッズが入ったザックだけを肩から下げている。着替えもなしに3泊4日を過ごすつもりだろうか? 鏡子なんてお菓子が入ったナップザックとは別に、着替えが入ったザックを背負っているっていうのに。
私の疑問は、山本先輩が四輪駆動車で乗り付けたときに氷解した。山本先輩の自動車は6人乗りだが、3列シートの最後列と荷物載せに、ぎっしりと荷物を積んでいた。
そしてシートの荷物が油川先輩の私物だった。ちなみに、テントやターフなんかのアウトドアグッズは、屋根の荷物置き場に括り付けてあった。
「やあ、ちょっと早いかなって思ったが、みんな揃っているんならもう出発しようか?」
山本先輩がそう言うと、油川先輩はうなずいて助手席に乗り込む。私たちも急いで2列目に座った。
ドライブは快調だった。3時間ほどで峠の麓の町までやってきた。山本先輩は、休憩のためコンビニに立ち寄ることにした。
私たちは思い思いに夜食を買い、山本先輩はタバコを買いながら店のお姉さんに訊く。
「U峠の積雪はどうだろう? チェーンを巻いた方がいいかな?」
お姉さんはタバコを渡しながら教えてくれる。
「今年はまだ雪が降っていないです。ただ、11月2日には雪が降る予報ですよ」
買い物を終えると、先輩たちは喫煙コーナーに向かう。私たちも(タバコは喫わないが)それについて行く。
山本先輩はタバコに火を点け、深々と吸い込んで上を向いて煙を吐く。冷たい風が紫煙を夜空へと拡散させていった。
「お嬢、今度の調査、いつものお嬢に比べて唐突感があるんだ。10月半ばまで『廃集落』や『山姥伝説』なんておくびにも出していなかったじゃないか。
それなのに急に調査のことを言い出して、まるで憑りつかれたかのように『廃集落、廃集落』って言ってた。
いつものお嬢なら、数か月かけてテーマを選び、下準備をしたうえで調査に臨むはずだ。何をそんなに急ぐ必要があるんだ?」
「……『山姥伝説』の裏には、『姨捨山』や『山神信仰』、それに地域独自の風習などがあるわ。だいたいの山姥は、山に捨てられた老人たちの思念が凝り固まったものだったり、それが山神と混交したりしたものとして理解可能なの。
でも、U峠や周辺に伝わる伝承は、ちょっと違うの。
小僧さんを連れ去ったり、若い猟師をだまして殺そうとしたり、たいていの山姥は『里と山』の対立構造も踏まえて、集落にとって害を与える存在なの。
でもU峠の山姥は、子どもに優しい。子どもに山菜の在処を教えたり、山で迷った子どもを救ったり。その反面、大人には厳しいの。どうも今まで考えて来た山姥とは違うんじゃないかなって。背景も、伝承の成立した過程も。だから一度、調査してみたかったのよ」
油川先輩は、そう説明した。しかし、説明している間の先輩の眼は、明らかにおかしかった。焦点の定まらない、死んだ魚のような眼……私はそれを見てゾクリとした。
しかし、山本先輩はそれで納得したのか、うなずいて言った。
「分かった。お嬢がそうまで言うんなら、さっさと現地に行こうじゃないか」
「えっ!? 今から? もう8時半やで?」
鏡子が驚いて言うが、油川先輩は笑ってうなずいた。
「峠までは1時間ほど。廃集落の途中までは車で行けます。それから徒歩で30分程度。
遅くとも10時には集落に着けます。そしたら明日は、朝一から現地調査ができるじゃないですか」
集落までの道のりは、思っていたよりも過酷だった。
確かに、峠の駐車場の奥から、さらに山頂への道が続いており、幅員1・8メートルの制限があるものの、3百メートルほど行けば4・5台は停められる広場になっていた。
しかし、それから先が大変だった。古地図や地図で見ると、集落はほんの2・3百メートル先にあるように表記されているが、実際はつづら折りの急な登りになっていて、道のりで言ったら優に1キロはあった。
しかも、アウトドアのセットや食料、油川先輩の荷物などは総計50キロに近く、全員で荷物を運んでも2往復せねばならなかったため、午後10時の到着予定が翌日の0時半にまでずれ込んだ。
今思うと、月が出ていたとはいえ、山の中の細い道を、重い荷物を抱えてよく無事で歩けたものだ。明かりといったら、山本先輩と油川先輩、そして私が持つ懐中電灯しかなかったのだから。
その集落は、山の斜面を削り、石垣を組んだ上に広がっていた。集落の中だけは植林がされておらず、建っている家々は月の光を浴びて幻想的な雰囲気を醸し出している。
ほとんどが板壁、藁ぶきで、中には檜皮葺の屋根もあるようだが、それらの建物はすっかり傾いており、まさに『廃集落』って感じで不気味だった。
ただ、集落の入口付近にあった数軒だけは、土壁にトタンを張り詰めた造りをしており、恐らく昭和中期まで人が住んでいたのはこれらの家だろうと思った。
「教授から使っていいって言われていたのは、この家みたいね」
油川先輩は、その数軒のうち特に新しく思える山小屋風の家に近付くと、ドアを引いた。
「お邪魔いたします」
油川先輩がそう言って中に入ろうとするのを、
「お嬢、ちょっと待ってくれ」
家の外観などを観察していた山本先輩が止める。そして荷物を地面におろすと、つかつかと玄関に向かい、玄関脇のスイッチを押す。すると電気が点いた!
「うそ、なんで電気がまだ通っているの?」
油川先輩が驚いて訊くと、山本先輩も意外そうに答える。
「いや、電線がこの家にまだ引いてあったんで試してみたんだ。まさか点くとは思っていなかったが」
「とにかく、電気が使えるなら勿怪の幸いよ。早く荷物を入れて明日に備えて寝ましょう」
しきりに首をひねっている山本先輩の傍らで、油川先輩は屈託なく笑うと私たちにそう言った。
次の日、私たちは早朝から起きて準備をし、午前8時には調査を開始していた。まずは集落の見取り図を引く。それに残骸も含めて家が建っている場所を記し、集落内の目ぼしい目標物や遺構を地図に落とし込む。
集落は南北に長く、中央に幅1・5メートルから1メートルくらいの道を挟み、東側は谷で段々畑のように石垣が積まれていた。こちらには家の遺構を見つけられなかったので、油川先輩によれば、恐らく粟か稗の畑ではなかったろうかということだった。
そして道より西、すなわち尾根側に、家の遺構が並んでいた。10間(18メートル)ごとに石を敷き詰めた階段があり、その横には溝が切ってある。溝には水が流れており、その水は集落の西端にある湧き水から続いているので、用水路かもしれない。
さらに、道を真っ直ぐ北に突き当たると、倒れた鳥居と崩れかけた社があった。この集落の鎮守社だったのかもしれない。
初日は、午後3時くらいまでかかってここまで調査が進んだ。
「やっぱり一条さんや貴家さんに来てもらって助かったわ。わたし一人じゃ一日でここまで調査するなんて、とてもじゃないけどできなかったわ」
調査も一段落し、そんなことを話しながら遅いお昼を食べていると、山本先輩が首をかしげてやって来た。
「山ちゃんパイセン、何か問題でも起こったんか? 難しい顔してんけど」
すると山本先輩は、気になることを言った。
「いや、食料の減りが想定より激しくてな? 1週間分の食料が、もうあと2日分しかないんだ。
家の中に置いているから、野生動物が食べたとは思えんし、ネズミやイタチが漁ったにしては量が多すぎてな? 鏡子ちゃん、まさかつまみ食いしていないだろうな?」
冗談めかして言う山本先輩に、鏡子はむくれて答える。
「うちはそんなに大食いじゃあらへんわい! 失礼なパイセンやな」
「うははは、冗談冗談。だが、食料が少なくなっているのは本当だ。明日から雪が降るんだったら、今日のうちに買い出しをしておく必要がある。お嬢、いっちょ町まで付き合ってくれないか?」
山本先輩がそう言うと、油川先輩はにべもなく答えた。
「鏡子さんと行ってくればいいわ。わたしは次の調査項目を整理しないといけないし」
「いや、行くなら全員で行くべきだろ? 荷物も多いし、ここら辺はクマが出るかもしれないし」
山本先輩がそう言って誘うが、油川先輩は頑として「明日の準備が忙しい」と言って聞かない。
結局、食料は必要だからということで、私が山本先輩と町まで買い出しに出ることになった。鏡子を残したのは、彼女が武道家で、私が残るより心強いだろうと考えたからだ。
町で5日分ほどの食料を買い込んだ私たちは、再び廃集落に向かって車を走らせた。その途中、山本先輩はずっと青い顔をしていたが、峠の駐車場が見えた時、急に車を停めた。
「先輩、廃集落への小道はあっちですけれど?」
不思議に思った私が先輩に訊くと、先輩は黙って車を降り、震える手でタバコに火を点ける。その顔がとても切羽詰まっているように思えた私は、車を降りて先輩に訊いた。
「先輩、何か心配事でもあるんですか?」
すると先輩は、困ったように笑って首を振ったが、なおも私が見つめていると、ゆっくりと話し出した。
「……これは俺の見間違いだと思いたいんだが……」
そう前置きして先輩が話した内容は、とても信じられないようなものだった。
食料が想定より減っていたのは、油川先輩が夜中に貪り食っていたからだというのだ。
「まさか……」
私が否定すると、先輩はうなずいて、
「ああ、おれも正直、自分が寝ぼけていた可能性を否定しない。でも、あれは確かにお嬢だった……」
昨日の夜、冬にもかかわらず寝苦しさを覚えた先輩は、ダイニングのソファの上で汚れた窓越しに空を見ていた時、廊下に何か物音を聞いた。
(野生動物か? クマだったらどうすべきかな)
先輩は、『侵入者』に気取られないよう、枕元に置いていたザックからクマ除けスプレーを取り出し、様子を窺った。ギシッ、ギシッと聞こえる廊下が軋む音から、どうやら野生動物ではなく人間らしいと思った先輩は、
(お嬢や一条さんたちに危害を加えられたら大変だ)
そう考え、ゆっくりと起き上がり、音の主へと近付いて行く。先輩も鏡子の道場に通い、免許皆伝の塾頭格らしいから、気配を消すのは得意だったみたいだ。
どうやら侵入者は、台所に置いてある食料に用があるらしいと気付いた時、とっさに頭に浮かんだのは鏡子の顔だったらしい。だが、鏡子が盗み食いをするような女性ではないことを知っていた先輩は、とりあえず様子を見ることにした。
音の主は先輩に気付かないのか、まったく辺りに注意を払う様子もなく台所に入ると、周囲を見回す。食料が詰まったザックを見つけると、飛びつくようにして口を開く。
ガサガサ、ゴソゴソとザックを漁り、やがてシャクシャク、クチャクチャと何かを咀嚼する音が聞こえて来た。
気味が悪くなった先輩が、
「誰だ? 何をしている?」
と言いながら台所に入ると、油川先輩が寝巻のまま、ダイコンやキャベツ、牛肉などを生のまま一心不乱に口に入れていたのだ。
油川先輩は山本先輩から声をかけられたことに気付かない様子で、次々と食料を物凄い速さで口に放り込んでいる。先輩の言葉によれば、
「後ろから見ていて、鬼気迫る様子だった。人じゃない何かの気配を確かに感じたよ」
という、私や鏡子が見たら卒倒必至の光景だったようだ。
余りのことに山本先輩は立ち尽くしていたが、やがて油川先輩は満足したのか、立ち上がって自分たちの部屋に戻って行ったのだという。この間、油川先輩が山本先輩と目を合わせることは一度もなかったらしい。
「……だから、お嬢が買い出しについてきたら、そのまま家に連れ帰るつもりだったんだ。
けれど失敗した。おれは霊やオカルトなんか信じない質だが、昨夜のお嬢は異常だった。何かに憑かれているのかもしれない」
先輩はそう言うと、短くなったタバコを灰皿に投げ捨て、私に真剣な目で訊いてきた。
「笑われるかもしれないが、一条さん、誰かお祓いができる人は知らないか?」
私はそう訊かれて、すぐにソラさんの顔を思い浮かべる。でも、私は彼の連絡先を知らなかった。その代わり……
「……先輩は、来島先輩とはご面識はありますか?」
そう言った時、先輩の顔にサッと光が差したように見えた。
「そうだった、来島さんがいた。迂闊だった!」
先輩はそう叫ぶように言うと、私の目の前で来島さんに電話をかけ始めた。
★ ★ ★ ★ ★
転・呼ばれた四人
私と山本先輩が、重い荷物を抱えて、えっちらおっちらと廃集落にたどり着いた時、鏡子の物凄い声が聞こえて来た。
「あかん、先輩! そないなことしたらあかんで!」
私と先輩は一瞬顔を見合わせたが、すぐに荷物をそこに放り出して、調査の拠点にしている家屋にダッシュした。
「鏡子ちゃん、一体何があった!?」
ドアを蹴破るような勢いで山本先輩が家の中に飛び込む。私も続いて飛び込んだが、そこには信じられない光景が広がっていた。
「あかん、先輩。目ぇ覚ましてぇな!」
鏡子が必死に呼びかけながら、油川先輩から逃げ回っている。油川先輩の手には、錆びた包丁が握られている。
「お嬢、どうしたんだ!?」
さすがの山本先輩も、そう叫ぶだけで油川先輩には手が出せない。知り合いだからというだけではなく、持っている包丁が錆びているから、自分や油川先輩が少しでも怪我をすれば、破傷風になる恐れがあったためだ。
油川先輩は髪を振り乱し、白目を剝いて呻き声を上げる。あの、清楚で可憐で高貴な先輩の面影は微塵もなかった。
私はおろおろしながらも、食料のザックが空になっていることを知った。
その時、私はソラさんが言っていたことを思い出した。
『ただの都市伝説さ。峠に餓鬼が出るって言うんだ……』
ひょっとしたら、油川先輩にとりついた何かって『餓鬼』かもしれない。だったら、食料が目に入れば……。
私は荷物まで走って取って返すと、キャベツやニンジンが入った袋を取り出して家まで駆け戻る。そして暴れている油川先輩の足元に、
「たっ、食べ物ですっ!」
大声で言って放り投げた。
油川先輩は、袋から転げ出たキャベツを見ると、包丁を投げ捨てて飛びつき、バリバリとむさぼり始めた。浅ましい姿だったが、とりあえず私はホッとして座り込む。鏡子もびくびくしながら私のもとに駆けて来て、
「おおきに! 助かったで!」
そう言うと、私を助け起こし、山本先輩と共に家を出た。
「……お嬢はどうしちまったんだ?」
茫然とする山本先輩に、
「……餓鬼かもしれません」
私が言うと、
「餓鬼!? 山姥やのうて?」
鏡子が驚いて訊く。私がうなずいて、ソラさんから聞いた話をしようとしたとき、突然ドアが乱暴に開け放たれ、包丁を持った油川先輩が襲い掛かって来た。ヤバい、食べ物が無くなったんだ!
「逃げろっ!」
山本先輩の言葉で、三人はバラバラに逃げ出す。私はとりあえず北の方向に逃げた。
(こっちには社があった)
私は無意識に土地の神様や山神様を頼っていたのかもしれない。
しかし私は忘れていた、山神なら女性を嫌う神様が多いし、土地のものでもない私が土地神の加護を得られるはずもないことを。いや、そもそもあの社には、もう神様を祀っていないのだ。
「え、嘘!?」
私は後ろを振り向いて顔をひきつらせた。油川先輩は迷うことなく私を追いかけて来た。
先輩に憑りついた餓鬼は、さっき私が食料を投げ与えたことで、私に追いすがれば食べ物にありつけると思ったのだろうか。
私は社にたどり着いて、絶望的な気持ちになった。傾きかけた社には、やはりもう御祭神は居られず、そして油川先輩はすぐそこまで迫っていた。
ぼさぼさの髪、白目をむいた眼、泡を吹いた口……すべてが禍々しく、これが白昼本当に起こっているのかと、一瞬自分の正気を疑う。そして私はあまりの恐怖に気を失ってしまった。自分の死を心のどこかで覚悟しながら……。
私は、誰かの話し声で意識を取り戻した。目を開けると緑色の低い天井(?)が見える。
しばらくして、風の音や木の枝がこすれる音を認識し、自分がテントの中に寝かされていることを知った。
外では、山本先輩ともう一人、男の人が話をしている。来島先輩が到着したのかなと思ったが、声が違うし、先輩もどこか戸惑ったような話し方をしている。
私はゆっくりと起き上がると、テントの入口を開けて外を見てみる。まだ太陽は昇ったばかりのようで、5メートルほど先ではチロチロと焚火が力なく燃えていた。
「鏡子……」
焚火の側には、寝袋にくるまって顔と腕だけ出した鏡子が、座ったまま眠っている。
私の声を聞きつけて、山本先輩がこちらを向き、張り付いたような笑顔をしながら歩いて来た。
「目が覚めたかい? 無事でよかった」
私は靴を履きながら訊く。
「油川先輩は?」
その時、山本先輩と話をしていた男性が近付いて来て、にこやかに私に言った。
「仔細はぼくから説明しましょう」
「え? ソラさん?」
そこに居たのは、白髪だらけの天然パーマ、丸顔に人の好さそうな笑顔をした青年……ソラさんがいた。
ソラさんは肩をすくめて、
「ぼくは自分の用事でこの先の城跡を調べていたんだけど、昨日了順くんから電話があってね? 彼の後輩から憑き物にやられたって相談があったが、寺の用事で外せないから代わりに行ってほしいってことだった。
戻子も知ってのとおり、ぼくは基本的にお祓いはしない。だから断ろうと思ったが、現場がU峠近くの廃集落って聞いたんで、とりあえずやって来たんだ」
なぜ自分がここに居るかを説明し、続けて、
「油川さん……だったかな? 彼女は今、廃屋に封じている。彼女、マズいモノに憑りつかれているね。これからどうしたものか、山本君と話をしているところだよ」
油川先輩の現状についても説明してくれた。
「……うにゃ……もう食えへん……んがっ! あ、戻子、目が覚めたんやな」
鏡子が目を覚まして、持っていた枯れ枝を焚火に放り込む。それはボッと火の粉を散らして燃え上がった。
「鏡子ちゃんは一晩中、火の番をしてくれていたんだ。お疲れ様、もう日が昇ってきたし、安心してテントで休むといい」
山本先輩は鏡子にそう言うと、鏡子もにっこりして、
「うん、戻子の無事な姿見たら、途端に眠うなって来たわ。少し休ませてもらおうっと」
そう言いながら寝袋から出て、私が寝ていたテントにごそごそと入って行った。
「化野さん。あなたの言葉を信じれば、餓鬼は何も食べ物がなければ、憑りついている人間を食べるって仰いましたよね?
餓鬼は昨日の昼過ぎ、あなたに封じられて以降、何も口にしていません。このままじゃお嬢が食われてしまいます」
燃える焚火を真剣な目で見ていたソラさんは、山本先輩の言葉でハッとしたように顔を上げた。そして難しい顔をして言う。
「……危うく相手を見誤るところだった」
ソラさんはそうつぶやくと、廃屋まで歩いていき、適当な窓を見つけると窓ガラスにお札を何枚も張り付けた。
そして一枚だけお札を張っていないガラスを石で叩き割ると、ガラスがはまっていた部分にもお札を張り付ける。
「状況が変わりました。油川さんに憑りついているモノを確認するため、ぼくはいったんここを離れます。それまで、この穴から餓鬼に食物を与えてください。
一度に大量にではなく、少量を断続的に……30分間隔くらいでいいでしょう」
そう言うとソラさんは、さっさと家の向こう側に歩き出す。
「あ、待ってください化野さん!」「ソラさん!」
家の角を曲がったソラさんを、山本先輩と私は追いかけたが、角を曲がった時にはソラさんの姿は消えていた。
ソラさんが戻って来たのは、午後3時を過ぎた頃だった。彼は何も説明なしに、家の周りに竹と杭と荒縄、そして紙垂で結界を創り、私たちがテントを張った場所も同じような結界で囲った。
「……すみませんでした。時間がないので先に準備をさせてもらいました。疑問にお答えすることは、ぼくの説明とこれから行う神事の後にしていただけますか?」
そう言いながら、彼は私たちに梵字のような文字が書かれた人形を1枚ずつ手渡す。
「神事の最中は、その人形を肌身離さず持っていてください。そして黙って結界の中にいてください。結界から出たら、ぼくも助けられません。神事の間は、テントの中に入っていることをお勧めします」
ソラさんの顔は酷く真面目で、いつもの人の好さそうな笑顔は消えている。私たちは血の気が引いた顔でソラさんの言葉にうなずいた。
そこでソラさんはふっと表情を緩め、一言言った。
「皆さんはここに呼ばれたんです」
「餓鬼からですか?」
私が訊くと、ソラさんは首を振って答えた。
「もっと質の悪いモノです。そいつは油川さんと縁を結び、油川さんをここに呼んだ。彼女に餓鬼を憑りつかせ、最後は餓鬼もろとも自分の中に取り込むために。
もちろん、君たちも取り込むつもりなのは間違いない。あいつらは取り込むモノが多ければ多いほど強大に、そして質が悪くなっていくモノですから。
ぼくは最初、単に餓鬼が憑いただけだと思っていました。そのままだったら、ぼくも取り込まれていたでしょう」
そう言うと、火を絶やさず燃え続けている焚火を見て、
「火の神が教えてくださらなければ、危ないところでした」
ただ一言言うと、今度は祭壇を家の前に造り始めた。
「何か手伝えることはありませんか?」
私たちがソラさんに訊くと、ソラさんは少し考えて、山本先輩に訊いた。
「油川さんが、ソイツとどこで、どういうふうに縁を結んだかがよく視えないんです。
時期的には恐らく先月の中頃なんですが、大きな木と祠が関係すると思います。何か心当たりはありませんか?」
「先月の中頃……大きな木と祠……。そうだ、あの時かもしれない!」
山本先輩は、少し考えてそう叫ぶと、
「油川家は10月15日に先祖参りをする習わしがあります。今年もお嬢は参加したんですが、墓所参りの帰路、ある辻で祠を見かけたんです」
その祠は、毎年彼女を法事に送迎している山本も見たことがないものだったという。
「おれはお嬢の幼馴染で、物心ついて以来、あの辺は隅から隅まで遊び回りました。だからどこにどんな木が生えていて、どこに何の祠があるかは知っています。
あの祠は見たことがないもので、少し気味が悪かったんですが、信心深いお嬢はおれが止めるのも聞かず、その祠にお参りをしてしまったんです」
ソラさんはそれを聞いてニコリとして言った。
「その祠には、剣を持った石像がありませんでしたか? あるいは祠の扉が閉じていたのなら、扉にこんな文字がありませんでしたか?」
ソラさんが不思議な文字を書いて示すと、先輩は目を見開いてうなずいた。
「……その祠は、あとでぼくも見てみましょう。まだそこにあるならばの話ですが。
まずは、油川さんとソイツの縁を断ち切ることが先決です」
そう言って廃屋を見つめた。
★ ★ ★ ★ ★
結・理不尽、それが人間
これは、廃集落の廃屋の前で行った儀式の後、ソラさんが話してくれたことである。
「この話は、あの廃屋から数軒先にあった屋敷で見つけた古文書に書いてあった、『神の上』と言う集落の記録だ。小字として残っているが、本来、『山姥伝説』に関係するのは、この『神の上』集落なんだ。
ちなみに僕たちが今いるこの集落は、正式には『神の前』集落と言う」
ソラさんはそう前置きして話し始めた。
………………
昔、U峠の北に、集落があった。山神が土地を拓いたと伝わるため、『神』集落と言われていた。
人口が百人程度のその集落は、炭焼きで生計を立てている世帯が多く、女は石垣を積んだ猫の額程度の貧しい土地に、粟や稗を育てていた。
集落には、『鬼婆』と呼ばれる老婆がいて、山神を祀る祠の世話をしていた。『鬼婆』とは、一般に想像される『怖い婆さん』という意味ではなく、この集落に限って言えば『鬼神=山神に仕える婆さん』という意味で、決して悪口ではなく、一種の畏怖を込めた言葉であったのだ。
その『鬼婆』には、山神に仕える中で、一つの大きな権限と責任があった。それは、『山帰り』するべき人の選任と、7歳に達しないうちに亡くなった子どもの葬儀である。
この集落では、『7歳までは神のうち』と言われるように、7歳未満の子どもは『山神からの預かり物』として考え、個人としてではなく集落みんなで育てていた。
また、70歳は『人生七十古来稀なり』と言われるように、70歳を超えた者は山神の許にいつでも帰れるものと考えられていた。
そのため、年老いて働けなくなった者、病気やけがで家族に面倒をかけたくないと思う者は、『鬼婆』に願い出て『山帰り』という儀式を行った。
これは、『鬼婆』に山神との間を取り持ってもらい、無事に山に帰れるよう祈願するもので、儀式が終わったら『山に帰る者』たちは『鬼婆』や『鬼役』と言われる若者たちと共に山に入り、頂上の祠の前で『鬼役』が『山に帰る者』の頭に岩をぶつけて命を奪う……というものだった。
………………
「今のぼくたちの感覚では、惨いとか薄情だとか思うが、文献を読む限り『山に帰る者』は強制ではなく、自ら望んでそうしていたようだ。ここが『姨捨山』との大きな違いだろうね。
この風習と姨捨の風習のどちらが先に生まれたのかは定かではないけれど、土地の面積が限られていて、食料増産にも大きな期待が出来ない場合、人口調整のために自然発生的に生まれたのかもしれないな。
『鬼役』の心の裡は書かれていないが、『山に帰る者』の子どもや孫が『鬼役』を務めるのが原則だったらしいから、複雑な心境だったことは想像に難くない」
ソラさんが悲しそうに言う。私たちには言葉もない。
「それでも、天寿来りて山に帰ることを望んだ場合はまだ救われる。問題は飢饉の時だ。
次の話は天保の大飢饉のときのことだと伝わっている」
ソラさんは、そう言って再び語り始めた。
………………
天保の大飢饉は、江戸時代の大きな飢饉の一つだ。一説によれば全国で20万から30万人の死者が出たと言われている。
神集落(現在の『神の上』集落のことだ。)でも例に漏れず、餓死者が出始めた。気候の変化は粟や稗の収穫を減らし、ドングリなどの山の幸も例年にない不作だったため、集落の長は『山帰り』の人選を『鬼婆』に依頼した。
「こんだ、何人お山に帰すんだ?」
『鬼婆』は深いしわが刻まれた顔に、沈鬱な表情を浮かべて訊く。長はため息混じりに答えた。
「……『山さ帰る者』全員を送っても、食い扶持が足んねぇだ。『鬼婆』にゃ全部で40人、選んでもらわにゃなんね」
「うちには還暦迎えた大人が15人おるが、しょっでも足んねか……若ぇ連衆と『神のうち』は選びとうないが……山神さんに聞いてみよっがね」
『鬼婆』は首を振りながらつぶやく。山神さまに聞くといっても、それを伝えるのは『鬼婆』の役目だ。彼女は苦悩で押し潰されそうな表情をしていた。
神集落には江戸初期、200人が暮らしていたと言われる。それが天明の飢饉で120人ほどになり、ここ30年でやっと140人ほどまで人口が復活してきたところだった。
「先々代の『鬼婆』が、『山さ帰る者』を選んだ後、自ら山さ帰った気持ちが分かる。おれも同じ気持ちだし」
『鬼婆』の言葉に、長も同感のうなずきを見せ、
「……『山さ帰る者』にゃ、わしも入れておきぃ。『鬼役』棟梁は倅に任すんで、『鬼役』選びは吉次に任せるちええ」
長はそう言って、『鬼婆』の家を後にした。
70を超えた老人たち5人は、集落の有様を見て自ら『山さ帰る者』に志願した。還暦を迎えた者10人も同様だった。
問題は、残りの25人だった。
長と『鬼婆』も、最後の『山さ帰る者』として山神の許に行くつもりだったが、23人の人選は難しかった。
長としては、素行の悪い者、身体が弱い者をまず選びたかったし、働き者、特別な技能を持った者は生き残らせたかった。
しかし、素行の悪い者たちが、たとえ必ず山神様の処へ行けると言われても、集落のためと言われても、うんと言うはずがない。むしろ彼らは徒党を組み、長や『鬼婆』を殺害した後、村人を無差別に襲って食料を根こそぎ奪い、どこかへ逃げてしまった。
この時、殺害されたのは子どもも含めて40人ほど。逐電した不良たちが10人いたため、集落には70人ほどが残ったことになる。さらに食糧を奪われたことで餓死した者は30人を数え、神集落には40人ほどしかなくなってしまった。
そして盗人猛々しいことに、神集落の殺戮者たちは、自分たちの犯行を『鬼婆』、つまり『山姥』のせいにして言いふらしたため、神集落は『旅人を襲い、山神の生贄とする風習がある集落』『鬼がいる集落』の烙印を押されることになった。
『山姥伝説』は、多くの伝説と同じように、基になった事実に尾ひれがついて伝えられたものだったのだ。
………………
「そしていつしか事実は忘れ去られ、中傷だけが江戸末期まで受け継がれ、中村仁庵が『中仙道本草記』で紹介することになるんだ。
天保の飢饉を生き残った神集落の人たちは、神の上集落を捨てた。古い集落の下に新たな神の前集落を作り、『鬼がいる集落』とは別の集落として生きて行くことにしたんだ。
だから、昭和の中頃まで人がいたという集落はこっちの方で、君たちが調べていた集落こそ、捨てられた集落だ。古地図は嘉永2年に調製されたものだが、これに載っている集落は今いるここ、神の前集落のことで、怪異が起きたあの集落のことじゃない」
ソラさんは、薄い壁で瓦葺の建物が何棟も残っている廃集落を眺めて言う。私たちがあれほど苦労して調査した集落跡とは、土地の形状も建物の配置もまったく異なっている。
私は尾根の方に目をやる。あの集落は針葉樹の中に埋もれ込んで、まったく見えなくなっていた。いや、そこまでの道筋すら、生い茂るシダや下草に覆われて判別不能になってしまっている。まるであの集落は夢や幻であったかのように……。
夢や幻だったなら、その方が良かった。でも、あれは確かに起こった出来事なんだ……私は無意識に身体を震わせる。昨夜の出来事、ソラさんの神事が頭の中に蘇ってきた。
ソラさんの神事は、日没と共に開始された。
「神事を始めます。みんなはそちらの結界から、決して出ないように。周囲にどんなものが現れても、どんな物音が聞こえても、それは幻覚・幻聴、まやかしに過ぎません。そう思って、声を出さないようにしていてください」
浄衣を着て烏帽子をかぶったソラさんが私たちに真剣な顔で言う。
山本先輩はソラさんに、
「化野さん、お嬢をよろしくお願いします」
そう言って一礼すると、私たちに
「鏡子ちゃん、一条さん、おれたちはテントの中に入っておこう」
そう言った。
「せやな。わざわざ怖い思いせんかてええし、幽霊は怖いから見てもうたら失神してしまうに違いないわ。山ちゃんや戻子の前で、そないな醜態は晒せへんしな」
そう言ってさっさとテントの中に入ってしまう。
「一条さん、君もテントに入ったら?」
山本先輩が誘ってくれたが、私は前回の記憶が残っていて、
(何か私に手伝えることがあるかもしれない……)
そんな予感がしたため、
「怖いかもしれませんが、めったにない機会です。ソラさんのお守りもあることですし、神事を見学します」
そう、お誘いを丁重に断った。
ソラさんは私を見て困ったように笑うと、真剣な顔になって祭壇の方を向いた。
夕焼けに輝く西の尾根に宵闇が忍び寄ってくる時刻、ソラさんが周囲の松明に火を点し、祝詞を奏上し始める。いよいよ神事が始まったのだ。
途端に、油川先輩を閉じ込めている廃屋が激しく揺れ出した。崩壊してしまったら、中にいる先輩もタダじゃすまない……私が心配していると、ソラさんは一段と声を張り上げ、懐から麻縄を取り出して祭壇に置く。
すると、バアン! と言う音と共に、廃屋の玄関が破られる。ソラさんが事前に張っていたしめ縄やお札も、力を増した怪異を閉じ込めるには弱かったのだ。
「!」
私は、そこに現れた油川先輩……いや、怪異の姿を見て声にならない声を上げる。口を両手で押さえて、何とか悲鳴は飲み込んだが、今考えるとそんなことしなくても声すら出せないくらいに衝撃を受けていたと思う。
『ガアアッ!』
老婆のように深く刻まれたしわ、ボサボサでふり乱した白髪、筋張った手は爪を長く伸ばし、目は真っ赤で瞳が見えなかった。
その怪異は、荒い息をしながら周囲を見回していた。どうやらソラさんの祝詞が邪魔らしく、自分を苦しめる者を探しているようだ。忙しなく上下する胸、開けた口からは上下4本の牙がのぞき、白い泡を吹いている。
ソラさんは怪異の目の前に組まれた祭壇で、厳かに祝詞を上げ続けている。ほんの数メートル先にはこの世のものではないモノが自分を探しているというのに、ソラさんは怖くないのだろうか?
と、怪異がのっしのっしと歩いて私たちのテントへと歩いて来るが、突然、
『ゴアアアッ!?』
苦しそうな叫びを上げて身体をのけ反らせる。きっと結界に触れたに違いない。
その時、ソラさんが祭壇に置いた麻縄がひとりでに動き、怪異の身体を呪縛する。
『グウウッ!』
怪異は暴れて麻縄から逃げようとするが、ぐるぐると幾重にも縛り上げられると、怪異は眼をカッと見開き、口から牙をのぞかせてソラさんを睨みつけた。
凄い、祝詞ってあんなことができるんだなぁって変なところで感心したが、よくよく見ると、ひとりで動いていると思った麻縄を、いつの間にか巫女服を着た女性がつかんで怪異を固くきつく縛り上げている。
私はその巫女さんを見て、どこかで見た覚えがあると記憶をまさぐる。すると私の脳裏に、『雨竜島』の誓約と呼ばれていた神職、佐代里さんの顔が浮かんできた。
「……佐代里さん? どうしてここに?」
今思うとおかしなことだが、最初に出てきた言葉がこれだった。
佐代里さんはずっと昔の人間で、ソラさんの手伝いなんかできないはずなのに、なぜかそのことは頭からすっぽり抜け落ちていた。
麻縄で完全に自由を奪われた怪異に、ソラさんは新しい祝詞を上げ始める。それとともに、怪異は苦しげに身をよじらせ始めた。
そしてそこでまた、不思議なことが起こった。神々しい光と共に、今度は衣冠束帯に身を包んで弓矢を携えた白髪の青年と、どう見ても15・6歳の少女が現れたのだ。
少女の髪の毛は黒檀のようで、肩までの長さのセミロング。白い着物に青い帯を締め、華やかな竜田川ともみじの刺繍がされた豪華な打掛を羽織っている。
彼女は翠の瞳をひたと怪異に向けていたが、鈴の音のような声で、
『社は朽ちても、祠がありましょう? 『神の前』の祠はまだ人間の崇敬を集めておりまする。なぜそこに遷らぬのですか?』
そう怪異に呼び掛けた。衣冠束帯の青年はじっと怪異を見つめている。冷たい瞳だった。
怪異はその声を聞き、一瞬油川先輩の顔に戻ったが、
『忘れられ、口惜しい』
醜悪な顔に戻り、そうしわがれた声で言う。木枯らしのように寒々しい、そして哀しい声だった。
『たわけ! 神の端くれたるモノが、心を乱して荒御霊をケモノの気に唆されるとは言語道断です!
月宮の皇子の名の許に川津媛が命じます。速やかに依代たる人間から離れ、『神の前』の祠に遷りなさい!』
「急々如律令!」
打掛の女性は神様なのだろう、その言葉が終わるや否や、ソラさんが呪文(?)を叫ぶと、『がっ!』と言う声と共に何かが油川先輩から離れ、先輩はぐったりと地面に頽れた。
『空様、あとは餓鬼のみです。私はこの山の神を祠に連れて行きます。あとは任せましたよ?』
打掛の女性が黒い何者かを抑え込みながらそう言って姿を消すと、ソラさんは衣冠束帯の青年を礼拝する。青年が薄く笑ってうなずくと、ソラさんは気を失っている油川先輩に、
「吐普加美依身多女……」
そんな呪文(?)を唱える。気を失っているはずの油川先輩の身体がビクンと反応し、いやいやをするように身悶えし始めた。
「布瑠部由良由良止布瑠部……波羅伊玉意喜慶目出玉布、急々如律令!」
ソラさんの言葉に反応するように、衣冠束帯の人物の身体が月光のような青白い光を放ち始める。その光が油川先輩の身体を包み込むと、先輩の身体から黒い煙が立ち昇り、黒煙は大勢の苦しげな声とともに消えて行った。
ほっと溜息をつくソラさんに、衣冠束帯の青年は満足そうな笑みを浮かべ、
『月宮の坊、此度は見事でおじゃりまするな。そなたには麿の加護がおじゃるゆえ、何ものも恐るる必要なし。ただ精進でおじゃりまするぞ?』
冬の夜の月光のような声でそう言うと、すっと夜空に消えた。
悪い夢を見ているような不思議な一夜が明けると、私たちは目の前の風景が一変しているのに気付いた。藁ぶきや桧皮葺の家々は消え、代わりに瓦葺の廃屋が並んでいたのだ。
同じ廃集落には違いないが、山本先輩と探索した結果、私たちが先に調製していた測量図とは、何もかもが違っている。ここには電気はもちろん水道まで引かれ、見た目も昭和の中頃って言う感じがした。
その謎は、この章の冒頭でソラさんが説明してくれたとおりだ。私たちは行けるはずのない廃集落、さまざまな怨念が渦巻く、江戸の後期には放棄された集落へと迷い込んでいたらしい。
その後、油川先輩は山本先輩によって病院へ搬送された。幸いにも命に別状はなかったらしいが、不思議なことにかなりの栄養失調状態にあったらしい。
それ以来、私は油川先輩に気に入られたみたいで、先輩とは『戻ちゃん』『ハルさん』と呼び合っている。
だが、私はあの夜にソラさんを助けてくれた衣冠束帯の青年や打掛の女性、そして佐代里さんに酷似した巫女さんを忘れることができない。いつかソラさんに訊いたら、教えてもらえるだろうか?
(……きっと、あの人の好い微笑みを浮かべるだけで、何も教えちゃくれないんだろうなぁ……)
「……ま、『知らぬが佛』って言うしね」
私はそうつぶやいて、白く雪をかぶった遠くの山々を眺めた。
あの集落も、今は雪に覆われ、過去の哀しい出来事の記憶も埋もれているのだろうか……だとしたら、春の雪解けとともに、清冽な水で浄化されることを願っている。
(終わり)
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
『幻の集落』に迷い込んだ部分は、筆者の実話です。友人宅に遊びに行ったとき散歩のつもりで山に入ったら道に迷い、山の中をさまよっていたら誰もいない集落跡に迷い込んだというものです。
麓にお住まいの方はその集落のことをご存じなくて、『?』って感じでした。ちなみに数年後に再び現地を訪れた時、お約束のようにその道は無くなっていました。と言うより、最初からなかったみたいです。
次回も、実体験を基にした不思議な話をご紹介します。お楽しみに。
では、またいつか!