8.清算
カーテンの隙間から差し込む朝の陽光が、壁に映っていた。
よく馴染んだ寝具の感触。
そして、自分の匂い。
夢は、桁違いに密度の濃い現実に触れると、日に当たった氷細工のように輪郭から溶けていく。
わたしは、何とかして夢を忘れまいと記憶の断片を掻き集めてみるのだが、やつらは尻尾にさえ触れさせず、するりするりと姿を消してしまった。
かろうじて残ったのは、杉下と出張に行ったということだけ。
え?
出張……。
そんなはずはない。
こうして東京に単身赴任しているのに、東京出張なんてあるわけながない。杉下だってずっと本社勤務だ。
あまりの荒唐無稽さに、ひとり笑った。どうしておかしいと思わなかったのだろう。
いや、夢というのはそういうものか。
細部はすっかり消え、杉下といたことも曖昧になり、大食堂にいた感覚だけが残った。
よくわからないが、楽しかった……。
余韻に浸っていると、目覚まし時計が起床の時刻を告げた。
夢はますます忘却の彼方に去っていく。
さて、今日の予定は……。
そうだ。
今日は杉下の頼みで、重要顧客の挨拶回りだ。
むかし担当していた会社もあるが、もうすっかり代替わりしたと聞いてる。知った顔に会うことは、たぶんないだろう。
わたしは歯磨きと洗顔を終え、いつもと同じようにバナナと牛乳の朝食を採った。
タブレット端末で主要五紙の朝刊をざっくりとチェックし、点けっぱなしのテレビから天気予報が流れると出勤の時間だ。
今日は夕方から雨か。
わたしは大きめの折りたたみ傘を準備しながら、まいったな、と思った。
今日、巡回するコースだと、最後は中本商店になる。あそこの社長は酒好きだから、夜は接待になるだろう。晴れだったらビアガーデンで安く上がったのに。
そうだ。
たまには奮発しよう。
まだ稚鮎が食べられるかもしれない。昼前に江戸膳に電話しておけば何とかなる。杉下もそろそろああいう店を知っておかなくてはいけない。
わたしは、頭のなかで一日の段取りを整えてマンションを出た。
いつも通りエレベーターは使わず、三階から一階まで階段を使って降りる。
駐輪場で、河本さんのところの息子さんに会ったので「おはよう」と声を掛けたが返事がなかった。
高校三年ともなれば受験の準備もたいへんだし、そもそも多感な年頃だ。好きな女の子のことでも考えているのだろう。
浜京線を澄川で乗り換えて、東花町線を岸田駅に向かった。
今日は三連休の明けだから、繋げて有給を取っている人が多いのかもしれない。普段よりいくらか空いていた。
目の前に座っている女性が会議資料のようなものを広げていた。
社外秘だろうに、不用心な……。
そんなことを思いながら、自分も、営業部会の資料を、まだ仕上げていないことを思い出したら胃がきゅっと縮まった。目標を高く設定しすぎたせいで今期は達成率が悪い。
会社に着いてオフィスに入ると、雰囲気がいつもと違うことに気が付いた。
朝の活気がない。
そのくせ妙にざわついている。
杉下は、今日の営業訪問に備えて、新入社員のようなビジネススーツを着ていた。
そして机上のノートパソコンに向かったまま固まっている。
両手でディスプレイの部分を挟むように持って、目は、じっと画面に見入ったままだ。
わたしは、杉下の後ろからディスプレイを覗き込んだ。
見慣れたポータルサイトが映っていた。
[訃報]
営業第二部 次長 望月孝司殿(本人 四十三歳)は、七月二十日、逝去されました。
なお、通夜・葬儀は下記の通りに行われます。冥福を祈り、謹んで通知いたします。
名前を何度も確認した。
間違いない。
所属も、年齢も。
自分だ。
自分の訃報だ……。
そう認めた瞬間、記憶を覆っていた霞が一気に晴れた。
全身がわなないた。
わたしに紅葉館を紹介してくれた古川さんも、仕事で世話になった小谷田社長や米島社長、それに気さくに声を掛けてくださった月島さんも、みんなもう、とっくに亡くなっている。
そして、夢の最後にわたしに挨拶にきた人物、あれは、あの顔は、自分だ。
いや待て! 自分が自分に挨拶にくるわけがない。
あれは……。
あれは、双子の弟だ!
たしか死産だったと聞いている。
混乱で気が遠くなるのをなんとか堪えていると、同僚たちの会話が聞こえてきた。
「事故らしいよ」
「事故?」
「ああ、藤岡ジャンクションの下にさぁ、汚ねえ水路があるだろ。あそこに浮いてたんだってよ。たぶん小山田の壮行会の帰りだな」
杉下のすすり泣く声が聞こえた。
「なんで……」
そう言ったきり、杉下は机に突っ伏した。
「夕べ発見されたらしいんだけど、死んでから何日か経ってたんじゃないかって」
「それじゃ警察の捜査が入るんじゃないのか」
「警察?」
「いや、一応事故って話なんだけど」
覚えていない。
どうして水路に浮くようなことになったのか。
まるで記憶がない。
いや。
そこじゃない。
もしかするとこれは……。
ふいに、記憶の奥に押し込めてあった場面が甦り、証拠映像のように眼前に迫ってきた。
競合相手の営業カバンから見積書を抜き取った、得意先のロビー。
二期先輩の副島孝さんの企画書をデスクから盗み出し、そっくり同じ内容で、先に社長プレゼンを行った、あのときの得意げな自分の顔。
大胆な営業戦略で役員の注目を集めていた、後輩の宮下浩二の営業車には、公営競馬のハズレ馬券を潜ませた。服務規律違反に問われた彼は潔白の申し開きも聞き入れられず左遷された。あのまま辞めたと聞いている。その宮下が、恨めしい顔でわたしを見ていた。
それだけじゃない……。
社業発展のために清濁併せ呑む、などという勝手な解釈で働いた昇進のための悪事が、次々と、証拠映像のように現れた。
気が付くと視点が高くなっていた。
いつの間にか、上から、かつての仲間たちを見下ろしている。
突然、溺れそうな感覚に襲われてもがいた。
しかし身体の周囲には、あの紅葉館で見た黒い水が重く纏わりついてきて身体が自由にならない。水の動きは、まるで意志があるように執拗で、意地悪い。
禍々しい水は、ついに首を超えてせり上がり、鼻と口に迫った。
おい! 何をする!
息が、
息が苦しい。
「やめろぉ! 下ろせ!」
やっと声が出た。
しかし誰も気付かなかった。
誰にも聞こえていないのだ。
「俺は死んでない」
泣き声混じりにそう叫んだ言葉の意味に、わたしは底知れぬ恐怖を感じた。
死んでない?
そうじゃない! 死なせてくれないんだ。裁きのために生かされ、生きたまま刑が執行される。
そういうことだ。
そして、
この責め苦から逃れる術はない……。
身体は震え始め、口を閉じようとすると歯がカチカチと鳴った。
《了》
注)
煉獄:〔カトリック教で〕生きているうちに犯した罪のつぐないをしないで死んだ人の霊魂が贖罪を果たすまで、火によって苦しみを受ける場所。
※新明解国語辞典 第五版より