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煉獄の入り口 ーようこそ紅葉館へー  作者: 伊藤宏


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6.稚鮎の香り

 わたしと杉下は別々に屋台を回ることにした。

 屋台はどこも気取りがなく、料理の魅力が剥き出しだった。


 穴子の店があった。

 好物だ。

 先客の肩越しに覗いてみると、ふっくらと煮上げたものと、蒸したものが用意されていた。蒸しの方は、注文すると軽く炙ってくれるようだ。

 穴子釜飯もあって食欲をそそられるが、他にも旨いものがありそうだ。


 田楽の屋台では、定番の蒟蒻や大根のほかに、豆腐と茄子、そのほか、様々な地物の素材が並んでいた。

 イカ墨を思わせる黒い味噌に山椒の葉の緑が映えていた。噛めばきっと、うっとりするような森の匂いに包まれるはずだ。


 列ができている屋台があった。奥の大鍋からもうもうと湯気が上がっている。品書きは檜の板に桜鍋、と墨書されていた。

 大将が、注文ごとに薄切りの馬肉を出汁に潜らせ、煮えすぎない頃合いでよそってくれる。なるほど、列ができるわけだ。


 隣の屋台には山賊焼きという看板が出ていた。

 山賊焼きといえば、普通は鶏肉だが、ここで焼いているのは馬肉のようだ。串刺しされた一粒一粒は、焼き鳥と比べるとふた周りほど大きい。

 味は、焼き塩と、溜まり醤油が選べるようになっていた。まずは塩、と心に決めた。



 わたしは、最初の屋台から順番に、煮穴子と、豆腐と里芋の田楽、そして馬肉の串焼きをいただいて席に戻った。

 串焼きの皿には下ろしが添えられていた。馬肉といえば生姜が定番だが、色からすると山葵(わさび)だろう。山葵もまた、江戸の風物だ。


 まずは淡泊な穴子、と理性は命じる。しかしここまでお預けを食った胃袋が肉の誘惑に勝てず、わたしは馬肉の串焼きにかぶりついた。

 焼き加減は絶妙なレアで、肉の味が濃厚だ。おそらく馬刺し用の肉を使っているのだろう。ただ柔らかいだけのと違って、噛むごとに味が染み出してくる。この赤身肉のおいしさはローストビーフとはまったく別種のものだ。合わせるなら赤ワインより麦焼酎がいい。


 ふいに、同じテーブルのひとりが声をかけてきた。

 「望月さん、ですよね」

 はい、と答える。

 席に予約カードが置いてあったのでそれを読んだのだろう。


 「それ、お好きなんですね。実に、旨そうに召し上がる」


 「いえ、そもそも今日が初めてですから。これも初めて食べました。失礼ですが、ご常連ですか」


 「そうすねえ。もう、住み着いちゃっている感じかな」

 手には土ものの器。焼酎だろう。


 「あ、丸中っていいます。よろしくどうぞ」


 「はあ、こちらこそ」

 挨拶はしたものの、初対面では話題も思いつかない。わたしは料理の話を続けることにした。


 「それはあの、桜鍋ですか」


 「ああこれ。違うんです。桜鍋も人気があるんですがこれはね、牛鍋。開化軒さんのは、刺しの入ったのじゃなくって、ちょっと筋みたいなところをじっくりと煮込んであるの。あたしはこっちの方が好きですね。旨味がぜんぜん違う」


 「ほお、桜鍋と牛鍋の両方があるんですか」


 「ええ、どっちも食べた方がいいですよ。どうせ食べ放題なんですから」

 そうだった。

 これで五千円だ。いったい経営はどうなっているのだろうか。


 「天ぷらは召し上がりましたか」


 「いえまだ」


 「今日は、鮎が入ったみたいですよ」


 「稚鮎(ちあゆ)ですか!」

 思わず身を乗り出してしまった。


 「はっは、望月さん、いま目が輝いた」

 これは杉下に教えてやろう……、と辺りを見回してみたが、杉下は、テーブルに割り箸を残したまま、どこかに消えていた。


 「あ、お連れさんなら、さっき深川飯をね、召し上がってたんすが……、あのお嬢さん、色気もあるが食べっぷりがまたいい。見てて気持ちがいいですよ。お代わりにいったんじゃないかな」

 そうでしたか、と思わず苦笑する。


 「あいつもけっこう飲む方なんですけどね。ただ、飲む前に飯を入れるってのが若いですよ。わたしなんかとても真似できない」


 「そりゃあたしだってそうだ。最近じゃ締めの蕎麦だってぜんぶ食えるどうかっていう具合いですから」

 そう言って丸中さんは明るく笑った。


 「そういえば、望月さんはどちらのご紹介で」


 「ああ、以前、古川というのが世話になっていたと思うんですが」


 「ああ! 古川さんの紹介」


 「ご存じでしたか。大先輩なんです、入社以来の」


 「そうだったんすか。そりゃどうも。こっちこそ世話になってんだ。でも、また来られるんでしょう?」


 「どうでしょう、じきに引退されますんで」


 「そうでしたか。まあ望月さんもね、人生いろいろあったでしょうから」

 話の脈絡が見えないな、と思っていると杉下が戻ってきた。

 天ぷらを盛った漆器を手にしている。


 「並んでたんで、釣られて貰ってきちゃいました。ワカサギですかね、これ」

 確かめるまでもない。ここまで香りが漂っている。


 「鮎だよ、稚鮎(ちあゆ)。今日、どっかで食べさしてやろうと思ってたんだ」


 「へえ、わたし稚鮎って初めてかも」

 そう言って、杉下は稚鮎の天ぷらをさっとつゆに潜らせると、頭からかぶりついた。

 ひと噛みごとにこっちまで香りが漂ってくるようだ。


 杉下の感想を、丸中さんとふたりでじっと待った……。

 杉下は、わたしたちの視線に動じることもなく、ときどき目を瞑ってゆっくりと鮎を味わい、あと味まで楽しんでから口を開いた。

 「おいしい」

 それだけかよ。


 「おいしくって、それになんかいい匂い。鮎って聞いたからですかね、目の前に川の風景が浮かんできます」

 うっとりとそう言った杉下に、丸中さんが「ほんとかよおい」と手を叩いて笑った。


 「ほんとですって」


 「そりゃ魚の匂いだろ」


 「だって川ってこういう匂いしません?」などと盛り上がっていたら、ふいに後ろから声をかけられた。

 「よお望月、久しぶりだな」 

 振り返ると、小谷田(こやた)社長の姿があった。焼酎らしき飲みものの入った(やきもの)の器を手にしている。

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