4.歴史
女将は、宿泊費が格安である理由について、昔語りを始めた。
「このビルは、太平洋戦争の空襲であらかた崩れ落ちたんですが、オーナーはそれを、私財をなげうって再建されたんです。日本の復興に励む会社を助けるんだって、ずっと格安の家賃で貸してこられたんですの。それはもう、続けられたのが不思議なくらい……」
女将は愛おしそうに書斎机をひと撫でして、話を続けた。
「でも、ここまで古くなりますとねえ、どうにも借り手が付かなくなりまして。十年前に、これからは新しい日本を作るビジネスマンに安らぎの時間を提供するんだってビジネスホテルに改装して営業を始めたんです。それも格安のお値段で。でも、驚くのは金額だけではございませんのよ。朝食はもちろんですが、お夕食も、宿泊費に含まれておりますの」
「ええ?」
またしてもふたりの声が揃った。
「夕食って」
「もちろん、お夕食ですからディナーのことですわ。ですが、さすがにお部屋で銘々に、というわけには参りません。大食堂にお越しいただいて、ブッフェ形式でお召し上がりいただいておりますの」
「それも込みで五千円ですか?」
「はい、どんなに召し上がっていただいても、追加料金はいただきません」
杉下が隣で「はぁ」と感嘆の声をあげた。
「失礼ですが、それで、やっていけるんですか」
おそらくオーナーには莫大な資産があるに違いない。そう思ったのだが、女将は笑みを返しただけでそのことには触れず、説明を先に進めた。
「お風呂は、お部屋のシャワーを使っていただいてもけっこうですが、二階に上がっていただきますと、別料金で銭湯をご利用いただけます。お代は百円頂戴しております」
そこまで言うと、女将は少しだけ声を潜め、
「やっぱりお湯代のやりとりをいたしませんと、銭湯の雰囲気が出ませんでしょう」
そう言って笑った。
「いや、これは驚いたな。安いとは聞いてたんですが……。なあ、杉下」
「はい。しばらくは出張が続くと思いますので、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ、どうぞよろしくお願い申し上げます」
システムの説明が終わったところで、館内にトロイメライのオルゴールが流れた。
「あらいけない、もうこんなお時間。お客様方、もうじきお夕食の時間になりますので、銭湯はあとになさって、とりあえずシャワーを浴びてこられたらいかがでしょう。大食堂へは、お部屋の浴衣をお召しになっていらしてください。他の皆さまも、そうされています」
腕時計を見ると、七時五分前だった。
先ほど新聞を広げていた男性は、いつの間にかいなくなっている。
部屋のキーと一緒に渡してくれたカードによると、夕食は七時スタートだった。オーダーストップは九時なので、今からシャワーを浴びても充分に時間はありそうだ。
「じゃ杉下、そうさせてもらうか。いいか、それで」
「はいもちろん。浴衣で夕食なんて、なんか楽しそう」
怖いもの知らずの顔に、浴衣を躊躇するようすは微塵も感じられない。
「あ、そうそう、もうひとつご案内し忘れておりました。お夕食、お酒も飲み放題になっておりまして、焼酎は、麦、芋、米と取りそろえております。オーナー自慢の銘柄ですので、どうぞお楽しみくださいませ」
女将はわたしたちに深々と頭を下げると、楚々とした動作で中央の螺旋階段を降りていった。
そのようすを見送ってから、時間のことを考えた。
「どうするか。三十分後の待ち合わせじゃ、いくらなんでも、早すぎるよな」と気を遣って提案したのだが、
「時間もったいないじゃないですか次長。二十分後、その階段のところで、いいですか」
と逆に杉下から指示される形になった。
若い女性にして、二十分の間にシャワーを浴びて身支度まで済ませようとは、たくましいというか根っからの営業というか……、恐れ入る。
わたしたちは、エレベーターで四階に上がり、それぞれの部屋で荷を解いた。
五分遅れて待ち合わせの螺旋階段に来てみると、杉下は先にきて待っていた。そして笑いながら、ブレスレット型の腕時計をとんとんと指で叩くと、こう言い放った。
「遅刻ですよ次長。五分を無駄にする人間の人生は死ぬまで五分遅れ、でしたよね」
新入社員研修でわたしが言ったことばだ。
「わるいわるい、どうしても返さなきゃいけないメールがあったんだよ」
「急ぎましょ。なんかいい匂いしてます」
いい匂いがしているのは杉下の方だった。
白紺の浴衣を通して肌から立ち上る石鹸の香りが、しっとりと艶めかしい。
それに、薄化粧の頬は熱いシャワーのせいか薄らと朱を帯び、そこから、生身の女が透けて見えた。