表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/8

3.紅葉館

 目を(すが)めて辺りを見回していた杉下が何かに気付いて、

 「あ!」

 と短い声を上げた。


 「どうした」


 「あそこ」

 杉下が指さした先は工事現場のようだ。日が暮れて工事を終えたらしい現場は、赤く光るパイロンで囲われていた。


 その向こうに新しい雑居ビル。

 ……いや、違う。

 新しくない。

 手入れはされているがかなり古い建物だ。


 目を凝らして見ていると、入り口の大きなガラス戸に金色の文字が浮かび上がり、さらに目が慣れてくると、毛書体でホテル紅葉館と書いてあるのが分かった。


 「あれじゃ見つかんないわけですよぉ」

 杉下は、言うが早いか、ビルに向かって歩き始めていた。



 このビル……、以前はなんだったろうか。

 老舗の証券会社があったような気がする……、いや、自信はない。あの、威厳たっぷりの金文字が記憶を誘導してしまうのかもしれない。

 わたしは考えるのを止め、小走りに杉下のあとを追った。


 先に着いた杉下が、ホテルには似つかわしくない重厚なガラス戸を、身体を預けて押し、わたしも続いて身を滑り込ませた。

 ふたりでなかに入ると、背後で、ガラス戸がゆっくりと閉まった。すると通りの騒音は(とつ)として消え、ふたりは完璧な静寂に包まれた。


 フロントはなく、無人の受付デスクに古めかしい内線電話がぽつんと置かれている。そこに向かって、吹き抜けの高い天井にあるダウンライトから、細い光がまっすぐに降りていた。


 受話器を取り上げようとする杉下を「俺が話す」と制して、わたしは受話器を取った。

 「あの、予約の望月です。杉下と、二名でまいっております」

 思わず営業訪問の口調になったのは、この場所の雰囲気がホテルとかけ離れているからだ。


 〈お待ちしておりました。右手に階段がございます。その階段を降りていただいて、突き当たりを右に折れましたら、そのままお進みください。そちらがフロントになっております〉

 要件だけ言うと、電話は切れた。

 電話の声は細く、まるで地球の裏側と話しているように遠かった。


 「地下だってよ」


 「はあ、でもこっから地下に潜ったら川にぶつかっちゃいそうですね」


 「だなぁ」

 立面図がイメージできなかった。

 杉下の言う通りだ。指示された階段を降りたら、あの、澱んだ水の底に潜ってしまう。


 案内に従って十段ほどの短い階段を降りると、そこはエアコンの冷たさとは明らかに異なる、天然の冷気に満たされていた。

 土のような匂いがした。

 が、不快ではない。むしろ香ばしい。


 突き当たりを右に折れると、十メートルほど先にロビーがあった。ぼおっとした暖かい色の光に包まれたそこは、蜃気楼のように浮かんで見えた。


 近付いてみると、ロビーは、廊下より十五センチほど高くなっていた。奥は一面、唐草と花の模様の入った朱色の絨毯が敷き詰められている。その手前二メートルほどはきれいに磨かれた板敷きだ。


 ロビーのなかほどには、さらに、下に降りる螺旋階段の入り口があり、傍らの丸い金魚鉢では、みごとなリュウキンが一匹、ゆらゆらと水草を揺らしていた。

 螺旋階段の向こうには革張りの柔らかそうなソファーがあって、浴衣に着替えた初老の男性がひとり、両手いっぱいに新聞を広げていた。




 「靴は、ここで脱ぐみたいですね」

 言われて横を見ると、壁際に、木札の鍵が付いた靴箱が設えてあった。

 国内で使ったビジネスホテルは百は下らないはずだが、こんなシステムは初めてだ。


 「なんか、個室居酒屋みたいだな、これ」 

 わたしがそう言うと、杉下は楽しそうに笑った。


 銘々、靴箱に履物を仕舞ってスリッパに履き替え、さてどうしたものかと思案していると、どこからか、和服姿の中年の女性が表れた。


 「いらっしゃいませ。望月様と、杉下様でいらっしゃいますね。お待ちしておりました。わたくし、お世話をさせていただきます鶴野と申します」

 彼女はそう挨拶してゆっくりと頭を下げ、再び顔を上げると、言葉を続けた。


 「ご逗留は、今回が初めてでいらっしゃいましたね」

 この声は、さっき電話に出た女性だ。

 女将、ということか。ビジネスホテルに女将とは、なんとも珍しい取り合わせだ。


 「そうです。今日が初めてです。お世話になります」

 わたしが頭を下げると、杉下も横でちょこんと頭を下げた。


 「それにしても、探しましたよ」


 「申しわけありません。わざとああしてるんですの。フリーのお客さんが(はい)れないように」

 女将は、その話題に触れられたくないのだろうか。すぐに、

 「すみません、先に宿帳の記入の方、お願いしてよろしいでしょうか」

 と傍らの書斎机を示した。


 年月に燻された猫足の書斎机には、新しいページが開かれた大学ノートと筆立て、そしてダイヤル式の黒電話が乗っていた。電話は、おそらく装飾品だろう。

 わたしに続いて杉下が宿帳の記入を終えると、女将は恭しく大学ノートを受け取り、スタンプカードのようなものと一緒にキーを手渡してくれた。


 「それでは、当ホテルのシステムをご説明させていただきます。宿泊料金は、おひとりさま五千円の後払いでございます」


 「五千円」

 期せずして声が揃った。

 

 「はい、そのため、宣伝もなしで、紹介のあったお客様にだけにご奉仕させていただいております」


 「すっごい、こんなすてきな雰囲気のホテルなのに」

 受け答えの声の明るさだけでなく、顔全体を輝かせる杉下の表情には、相手が進んで話したくなる不思議な力が備わっている。

 この女将も杉下のマジックにかかったらしい。

 懐かしそうに語り始めた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ