3.紅葉館
目を眇めて辺りを見回していた杉下が何かに気付いて、
「あ!」
と短い声を上げた。
「どうした」
「あそこ」
杉下が指さした先は工事現場のようだ。日が暮れて工事を終えたらしい現場は、赤く光るパイロンで囲われていた。
その向こうに新しい雑居ビル。
……いや、違う。
新しくない。
手入れはされているがかなり古い建物だ。
目を凝らして見ていると、入り口の大きなガラス戸に金色の文字が浮かび上がり、さらに目が慣れてくると、毛書体でホテル紅葉館と書いてあるのが分かった。
「あれじゃ見つかんないわけですよぉ」
杉下は、言うが早いか、ビルに向かって歩き始めていた。
このビル……、以前はなんだったろうか。
老舗の証券会社があったような気がする……、いや、自信はない。あの、威厳たっぷりの金文字が記憶を誘導してしまうのかもしれない。
わたしは考えるのを止め、小走りに杉下のあとを追った。
先に着いた杉下が、ホテルには似つかわしくない重厚なガラス戸を、身体を預けて押し、わたしも続いて身を滑り込ませた。
ふたりでなかに入ると、背後で、ガラス戸がゆっくりと閉まった。すると通りの騒音は突として消え、ふたりは完璧な静寂に包まれた。
フロントはなく、無人の受付デスクに古めかしい内線電話がぽつんと置かれている。そこに向かって、吹き抜けの高い天井にあるダウンライトから、細い光がまっすぐに降りていた。
受話器を取り上げようとする杉下を「俺が話す」と制して、わたしは受話器を取った。
「あの、予約の望月です。杉下と、二名でまいっております」
思わず営業訪問の口調になったのは、この場所の雰囲気がホテルとかけ離れているからだ。
〈お待ちしておりました。右手に階段がございます。その階段を降りていただいて、突き当たりを右に折れましたら、そのままお進みください。そちらがフロントになっております〉
要件だけ言うと、電話は切れた。
電話の声は細く、まるで地球の裏側と話しているように遠かった。
「地下だってよ」
「はあ、でもこっから地下に潜ったら川にぶつかっちゃいそうですね」
「だなぁ」
立面図がイメージできなかった。
杉下の言う通りだ。指示された階段を降りたら、あの、澱んだ水の底に潜ってしまう。
案内に従って十段ほどの短い階段を降りると、そこはエアコンの冷たさとは明らかに異なる、天然の冷気に満たされていた。
土のような匂いがした。
が、不快ではない。むしろ香ばしい。
突き当たりを右に折れると、十メートルほど先にロビーがあった。ぼおっとした暖かい色の光に包まれたそこは、蜃気楼のように浮かんで見えた。
近付いてみると、ロビーは、廊下より十五センチほど高くなっていた。奥は一面、唐草と花の模様の入った朱色の絨毯が敷き詰められている。その手前二メートルほどはきれいに磨かれた板敷きだ。
ロビーのなかほどには、さらに、下に降りる螺旋階段の入り口があり、傍らの丸い金魚鉢では、みごとなリュウキンが一匹、ゆらゆらと水草を揺らしていた。
螺旋階段の向こうには革張りの柔らかそうなソファーがあって、浴衣に着替えた初老の男性がひとり、両手いっぱいに新聞を広げていた。
「靴は、ここで脱ぐみたいですね」
言われて横を見ると、壁際に、木札の鍵が付いた靴箱が設えてあった。
国内で使ったビジネスホテルは百は下らないはずだが、こんなシステムは初めてだ。
「なんか、個室居酒屋みたいだな、これ」
わたしがそう言うと、杉下は楽しそうに笑った。
銘々、靴箱に履物を仕舞ってスリッパに履き替え、さてどうしたものかと思案していると、どこからか、和服姿の中年の女性が表れた。
「いらっしゃいませ。望月様と、杉下様でいらっしゃいますね。お待ちしておりました。わたくし、お世話をさせていただきます鶴野と申します」
彼女はそう挨拶してゆっくりと頭を下げ、再び顔を上げると、言葉を続けた。
「ご逗留は、今回が初めてでいらっしゃいましたね」
この声は、さっき電話に出た女性だ。
女将、ということか。ビジネスホテルに女将とは、なんとも珍しい取り合わせだ。
「そうです。今日が初めてです。お世話になります」
わたしが頭を下げると、杉下も横でちょこんと頭を下げた。
「それにしても、探しましたよ」
「申しわけありません。わざとああしてるんですの。フリーのお客さんが入れないように」
女将は、その話題に触れられたくないのだろうか。すぐに、
「すみません、先に宿帳の記入の方、お願いしてよろしいでしょうか」
と傍らの書斎机を示した。
年月に燻された猫足の書斎机には、新しいページが開かれた大学ノートと筆立て、そしてダイヤル式の黒電話が乗っていた。電話は、おそらく装飾品だろう。
わたしに続いて杉下が宿帳の記入を終えると、女将は恭しく大学ノートを受け取り、スタンプカードのようなものと一緒にキーを手渡してくれた。
「それでは、当ホテルのシステムをご説明させていただきます。宿泊料金は、おひとりさま五千円の後払いでございます」
「五千円」
期せずして声が揃った。
「はい、そのため、宣伝もなしで、紹介のあったお客様にだけにご奉仕させていただいております」
「すっごい、こんなすてきな雰囲気のホテルなのに」
受け答えの声の明るさだけでなく、顔全体を輝かせる杉下の表情には、相手が進んで話したくなる不思議な力が備わっている。
この女将も杉下のマジックにかかったらしい。
懐かしそうに語り始めた。