1.古巣
この作品は8エピソードで完結します。
(今まで、1万6千文字の短編で公開していた作品を、大幅に改稿して8話に再編したものです)
わたしと杉下美香は、得意先へのあいさつ回りを終え、予約したビジネスホテルを探していた。
今日は一日、本当に蒸し暑かった。
特に湿気がひどくて、あり得ないとはわかっていても、肌に張り付いた汗のせいで息が苦しいような気さえする。足も重い。
「次長」
体内に蓄積されていた熱で集中力を切らしていた脳が、一瞬、反応を遅らせた。
杉下はすぐに被せてきた。
「望月次長! ほんっとにこの場所で合ってます?」
その質問にはさっき答えた。同じ質問を二度繰り返すのは目上に対してして失礼だ。それに、わたしだって早くシャワーを浴びてエアコンの冷気に当たりたい。
「合ってなきゃ、同じところを二度も回んないだろう!」
わたしの声に怒気を感じたのか、杉下は黙り、沈黙は一秒ごとに重さを増した。
いけない、こういうときこそ感情をコントロールしなくては。
ホテルが見つからなくて苛ついているのはこいつだって一緒だ。
わたしは努めて優しい声を作り、返事をし直した。
「だいじょうぶだって。さっきの交差点が神栖四丁目だろ。で、まひるの公園の前を通ってここだから、……間違いないんだけどなぁ」
正直、わたしは傷ついていた。
なぜって。
この東京二区は、ようやくひとりで接待ができるようになったころのわたしが初めて営業を任された地区、いわば、思い出の古巣だからだ。
そこで迷うなど、あってはならない。
まだ若手と呼ばれていたころ、わたしはこの東京二区で鍛えられた。
三年で目標数値を達成して京阪支店に転勤となり、その後ドバイ勤務も経験した。京阪支店に戻り、次長への昇格と共に東京本社への凱旋復帰が決まったのが二週間前のことだ。
急な人事で、支店業務の引継ぎと挨拶回りに奔走しているうちに発令の日を迎えてしまった。
これは『国内の異動なら内辞を出さない』という、うちの悪い慣行のせいだ。おかげで、本社での新しい仕事は、当分のあいだ出張ベースになる。
名古屋支店のエースだった杉下の事情も似たようなもので、やはり、東京の住まいはまだ決まっていなかった。
「次長、さっきの橋のとこに交番ありましたけど」
沈黙に耐えかねておずおずと声を発した杉下に、思わず
「だから!」
と声を荒げてしまった。
すぐに失態に気付き、
「だいじょぶだから」
と優しい声で言い直したのだが、遅かった。
杉下は軽くため息を吐き、再び黙ってしまった。
☆
杉下は、ひと回り以上年の離れた若いセールスレディだ。五日前の発令と同時に直属の部下となった。
杉下は、来週からひとりで、この東京二区を担当しなくてはならない。
東京二区の担当は、わたしのあと、営業トップの最年少記録成績を作った茂木雄太、中国支店から戻った澤井健介、ライバル社からヘッドハンティングされた小山田豪と替わった。
茂木は今、マーケティング部で副部長となり、澤井は国際事業部の課長で東南アジア事業の調整役だ。今まで東京二区担当だった小山田は、来月から、ムンバイ支社に社長として栄転することが決まっている。
つまり、自分で言うのも烏滸がましいのだが、この地区は特別なのだ。
本社採用でもない杉下を管理職への登竜門である東京二区の担当に抜擢する。それはつまり、会社が、杉下のことを、将来の上級管理職候補としてみている、ということだ。
そして万が一、彼女が東京二区担当の任に耐えられなかった場合は、元担当のわたしがリカバリーに入る。
今回の人事は、そこまで想定しているのだろう。
もちろん、わたしの本来業務は杉下のバックアップではない。エリア統括だ。国内戦略の統制が主な業務となる。
なので肩書きこそ営業部次長だが、いわゆる営業職ではない。
この、営業部次長というポストは、部長への試金石でもある。ここを無事通過して部長になれれば、次に見えてくるのは、執行役員の椅子だ。
ただ、そのことを意識してからのわたしは、日常の些細な決断でさえ自問を繰り返して迷ってしまうし、部下には、常に完全な自分を見せようと無理をしてしまう。
その結果、気が抜けず、些細なことで感情を乱してしまう。
この杉下にさえ……。
わたしは、自分の器の小ささに愛想が尽きかけていた。