うちのムギ
これは、我が家で飼っていた犬の話です。
おバカで生意気でビビりだったあの子は、だいぶ前に天寿を全うして、今は実家の庭で眠っています。
こんな話を書くって事は、きっと犬が大好きなのね? と思われるかもしれませんが、私は特に犬好きってわけではありません。
小さい頃は、姉と一緒に「飼いたい!飼いたい!」とねだった事もありましたけど、両親が許してくれなかったので、熱が冷めちゃったんです。
だから、たまに他所の家のワンちゃんを撫でるくらいがちょうど良いなって感じでした。
でもある日、急に父が子犬を家に連れてきたのです。
柴犬とコーギーが混じったような茶色の子犬を。
「知り合いの家で子犬が生まれたって聞いたから、もらってきたんだ。うちで飼うぞ!」ってね。
もうね、家族一同びっくりですよ。
大慌てで犬小屋とか首輪とかリードとかドッグフードとか買いに行きました。
そして、小さなわんぱくこぞうは、父から『ムギ』と名付けられ、我が家の一員になったのです。
大きくてパッチリとした目と、ピンと立った三角の耳、硬めの薄茶色の毛と、くるんと巻いた丸い尻尾。
ムギは、可愛いと言うよりも、顔のバランスが整ったイケメンって感じでした。
犬なのにハンサムな顔をしてるよねって、よく家族で話していたんですけど……なんと言うか、ムギはとっても残念な犬だったんです。
私、犬を飼ったらやりたい事があったんですよ。
友人宅のワンちゃんを見て、いいな〜って憧れていた事があったんです。
でもムギはね、私の夢を全て打ち砕いてくれました。
まず一つ目は、ボールキャッチです。
飼い主が投げたボールをワンちゃんが空中でキャッチするやつ!
あれ、めっちゃ憧れていたんですよ!
でもムギは一度も成功しないまま一生を終えました。
なんかね、めちゃくちゃ鈍臭い犬だったんですよ。
「いくよ?」と合図してゆっくり投げても、ただボーっと見ているだけ。
大きさを変えたり形を変えたりしてもダメでした。
食べ物だったら出来るんじゃないかと思って、キャッチしやすいサイズの犬用のお菓子をゆっくり口元に投げたら、そのまま顔にぶつかって、迷惑そうな顔をしていました。
そして、顔にぶつかって落ちたのを食べるっていうのを繰り返していましたね。
別のある日、庭で大きな唸り声が聞こえたんですよ。
もしかしたら不審者が不法侵入しようとして、それをムギが威嚇しているのかもしれない!とか思って、父と一緒に慌てて庭に飛び出したんですけどね、ムギが威嚇していたのは小さなカマキリでした。
小さなカマキリがのんびりと歩いているだけなのに、ムギはへっぴり腰でずっと唸ってました。
そして、カマキリが草の中に入っていくのを唸りながら見届けた後、やり切った!みたいな顔をして父の元に走ってきたんですよ。
いやいや、お前何もしとらんやろ?って、私は心の中で盛大にツッコミを入れました。
父は笑いを堪えながらも「よくやったな! 悪者を追い払ったのか? 偉いぞムギ〜! 」って撫でてました。
悪漢から家族を守ろうとする勇敢なペット……そんな関係に憧れてましたけど現実はこんなものです。
そんなムギではありますが、立派な成犬へと成長し、やがて運命の出会いが訪れます。
お相手は、近所の喫茶店の看板犬のハナちゃん。
ハナちゃんはね……なんというか……えーと、私的には素直に応援したくないお相手でした。
こんな事を言うと小姑っぽくて嫌なんですけど、ハナちゃんって12歳のブルドッグなんですよ。
ブルドッグの12歳ってだいぶ高齢ですよね?
お顔も勇ましい感じで、凄く凄く強そうなんです。
しかも悲しい事に、うちのムギは全く相手にされていませんでした。
ハナちゃんは、喫茶店の斜めに向かいにある魚屋さんのワンちゃんに夢中らしく、結構な頻度で喫茶店を脱走して魚屋さんに会いに行っちゃうそうです。
ハナちゃんは高齢で足が悪いので、基本的には勝手にどこかへ行く事はないそうなんですけど、魚屋さんだけは例外なんだと喫茶店のマスターが言っていました。
ムギの散歩コースは、喫茶店の前を必ず通るようになっていて(別のルートで行こうとすると怒るので)喫茶店の前まで来ると動かなくなります。
そして「ク〜ン、ク〜ン」と甘えた声を出し、ハナちゃんをひたすら待つのです。
喫茶店のドアにはハナちゃん専用の出入り口が付いていて、自由に出入りできるようになってるんですけど、うちの子は全く相手にされてないので、ハナちゃんはなかなか出てきてくれません。
最終的にはマスターに抱っこされて、少し面倒くさそうな顔で挨拶に来てくれます。
その時のムギの喜び方が凄まじくて、もうこっちが恥ずかしくなるレベルなんですよ。
ハナちゃんは『早くしてくれない?』って雰囲気を醸し出しながらも、匂いはちゃんと嗅がせてくれます。
一応、人間目線だとムギはハンサムなんですよ。
中身は残念ですけど、顔だけは整っているんです。
お散歩してると「カッコイイ顔してるね〜」ってよく褒められますし。
だからどうしてもね、若いイケメンが猛々しい老女に迫っている構図に見えてしまって、何とも言えない気持ちになるんですよ。
ちなみに、ハナちゃんも魚屋さんのワンちゃんに熱烈片想い中らしいです。
犬にも三角関係とかあるんですね。
私は、魚屋さんのワンちゃんを見た事がありません。
魚屋さんの裏手にいるそうなんですけどね、他所様の敷地なので入った事がないんです。
たぶん、店主さんに声をかければ会わせてもらえたと思うんですけど、当時は別にそこまでしなくてもいいやって思ったんですよ。
私の中では、警察犬みたいな強そうなワンちゃんのイメージなんですけど、可愛い系の小型犬でも面白いかもしれないなとか考えたりします。
実際は、どんなワンちゃんだったんでしょうね?
会っておけば良かったって今は少し後悔しています。
ムギはとても臆病な性格でしたので、カミナリと花火が大嫌いでした。
でもこれって、ワンちゃんを飼っている方からよく聞く話なので、逆にカミナリと花火を怖がらない子っているのかな?って気になります。
ムギは庭の中で放し飼いをしていて、室内には入れないんですけれど、カミナリと花火の時だけは特別に家に入れてあげます。
そして毎回、父の膝の上でブルブル震えています。
たぶん謎の大きな音が怖いんでしょうね。
この世の終わりか?ってくらい怖がります。
ムギの中で父は最も敬愛する大切なご主人様で、自分よりも格上のリーダーだと認めていました。
父の言う事は絶対聞きますし、父が庭にいる時はぴったりと寄り添って片時も離れません。
父の帰宅時は、うれションしそうなくらい狂喜乱舞して出迎えます。
たった30分の外出でも、生き別れの家族に出会えたのかな?ってレベルで喜びます。
そして何故か、姉の事も自分より格上だと思っていたみたいです。
姉は家にいる時間が短いので、ムギと過ごす時間も少なかったんですけど、謎に懐いていましたね。
帰宅時は必ず出迎えに行きますし、恥ずかしそうに甘える姿もよく見かけました。
母はお世話する人って感じの位置付けでしたね。
散歩や餌やりは主に母がしていたので。
格付けはムギよりも下です。
俺の事が好きなんだろ? しょうがないからお世話させてやるぜ? みたいな態度でした。
年の離れた一人息子が、母親に甘えてワガママを言っているようにも見えましたね。
帰宅時は大喜びで出迎えたり、ちょっと拗ねたような態度だったりと様々でした。
そして問題は、私に対する態度ですよ。
格付けは明らかに格下だし、こいつは生意気で面倒くさい奴だって顔をされます。
もしかしたら、世話の焼ける妹? もしくは役に立たない下僕?くらいに思っていたのかも知れません。
出迎えは気が向いたらしてくれます。
基本的には、寝転がった状態で顔だけを向けて、軽く尻尾を振って終わりです。
旅行で二週間ぶりに帰宅した時は、私の存在をド忘れしていたみたいで、軽く唸られましたからね。
唸っている途中で思い出して、慌てて尻尾を振り始めましたけど、私は誤魔化されませんよ?
そのくせ、私が落ち込んでる時に限って擦り寄ってくるんですからタチが悪いんです。
いつもは生意気で小馬鹿にした態度なのに、そんな時だけ甘えてくるんですから。
お気に入りのおもちゃを咥えて『どうしたんだよ? しょぼくれた顔しやがって、しょうがないから俺のおもちゃ貸してやるぜ?』って感じでね。
でも、やっぱりお気に入りのおもちゃを貸すのは抵抗があるらしく、完全には貸してくれないんですよ。
近づけてくるけど咥えたまま離さないんです。
引っ張っても引っ張り返すし、手を離すと近づけてくるし、もう謎の綱引き状態ですよ。
ちなみに、父と姉には素直におもちゃを渡します。
そんなムギですが、少しずつ歳を重ねて17歳のおじいちゃんになりました。
薄茶色の毛は白くなり、寝ている時間が増えました。
食が細くてなって食べる量もずいぶん減りました。
大好きなササミのお肉も残すし、ドッグフードもふやかしてあげないと飲み込むのが大変そうです。
頻繁に下痢をして寝床を汚してしまうので、オムツをするようになりました。
時々、血便が出てお尻も真っ赤に爛れて痛そうです。
獣医さんに相談したら「これは病気ではなくて寿命ですから、なるべく側にいてあげるようにして下さいね」と言われました。
吠える事も唸る事もしなくなって、浅い呼吸で丸まって眠るムギ。
フワフワのクッションやマットや毛布をたくさん敷いたけれど、床擦れができてしまって痛そうです。
やがて痙攣を繰り返すようになって、食事も全く食べなくなりました。
カサカサに乾いた鼻と口を、濡らしたハンカチで何度も湿らせます。
水をスポイトで歯ぐきに垂らすと、少しだけ飲んでくれました。
何日もそんな状態で苦しそうに眠るムギ。
声をかけると、耳が少しだけピクリとしました。
高かった体温がどんどん下がっていって、撫でるとひんやりとしています。
何度も何度も痙攣を繰り返して、ヒューヒューと苦しそうに息をするムギ。
「もういいんだよ、ムギ。よく頑張ったな」
父は、小さくなったムギの体を膝の上に抱いて、そう言いました。
苦しそうに口をパクパクしながら父を見つめます。
ムギは震えながらゆっくりと体を起こし、私達の顔を見回しました。
そして音にならないような小さな掠れ声で「ワン」と鳴いたのです。
それは、ラストラリー現象と言うそうです。
神様がくれた最後の時間とも言われています。
医学的な根拠はないけれど、亡くなる前に起こる不思議な現象。
まるで、旅立つ前に挨拶をするみたいに一時的に回復した状態になる事があるのです。
ムギは首を傾げてお手をする仕草をしました。
私が何度教えても覚えてくれなかったくせに。
そして、得意げな顔で私を見るのです。
弟のようなムギは、いつの間にか私を追い越して、ずっとずっと年上のおじいちゃんになってしまいました。
ムギは弱々しく尻尾を数回振った後、最後は父の顔をじっと見つめて、安心したような顔をして、父の膝の上で眠るように息を引き取りました。
17年と4ヶ月。これが、ムギが生きた時間です。
ムギはペットの葬儀場に連れて行かれて、小さな小さな片手で持てるくらいの遺骨になって帰ってきました。
「俺はもう、二度と犬を飼わない」
大きな骨壷に入れられた小さな遺骨を見ながら、父はポツリと言いました。
私も同じ気持ちです。
ムギはとても甘えん坊なので、他の子を可愛がったりしたら拗ねてヤキモチを焼いてしまうから。
庭の梅の木の近くに、ムギの遺骨を埋めました。
そこはムギのお気に入りの場所で、いつもそこでお昼寝をしていたから。
すぐ近くには庭に出入りする扉があって、家族が帰って来たら一番にお出迎えできる場所なのです。
きっと今も、ムギはそこでお昼寝をしているのだと思います。
そして、帰って来た私に顔だけを向けて『何だ、お前かよ』って寝転がったまま尻尾を振るのです。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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