最終話 澄元失踪
御目見得の間の上座に座する義稙。太刀持ちの小姓が恐ろしがって震えるのに同調してかちゃかちゃと鳴る太刀の音が耳障りだ。
下座には具足に身を固め、泥に足を汚した武者多数。高国を筆頭に三条御所に参じたものであった。
上座に弱者、下座には強者。ために小姓は震えを止めることが出来ないのである。
「勝ってほしいときは負けるくせに、負けてほしいときには勝つんだな」
義稙がせいいっぱいの皮肉を飛ばしたが
「錦旗も牙旗もなくこのとおり勝ってご覧に入れました。戦勝の盃をたまわりとうございます」
構うことなくにじり寄って求める高国。
「順光は許してやってくれ。彼なりに忠節を尽くしてのことであるから……」
「戦勝の盃をたまわりとうございます」
「あのう……順光の赦免は……」
「まずは盃を。大樹としての御勤めを果たされよ。赦免云々はあとの話でございます」
震える手で盃を下す義稙。この際小姓が派手に震えているのは好都合だった。高国は義稙よりたまわった盃をぐいと飲み干した。
高国は残余の澄元勢を京都から駆逐すると、まるで何事もなかったかのように従前の立場に落ち着くこととなった。澄元の摂津上陸から半年後のことであった。
大内義興の帰国に端を発する一連の抗争において、細川澄元の動向は永正十六年(一五一九)十一月の越水城包囲戦以降ぱたりと途絶してしまう。歴史の表舞台に躍り出るはずだった主人公が、忽然と姿を消してしまったのである。
澄元失踪は敵味方問わず多くの周辺者の立場を不安定にした。冒頭掲げた民法の条文は、自然人が失踪することで不安定になった利害関係者の立場を法的に安定させるための規定であるが、生き馬の目を抜く戦国乱世にあっては、利害関係者に七年ないし一年待てるような時間的余裕は与えられておらず、各自即興のドタバタ劇を演じる羽目に陥った顛末は右に記したとおりである。
高国入京翌月の六月十日、細川澄元は阿波で死んだとされる。上洛できないほどの重病だったはずの澄元が、阿波に逃げ帰ることはできたというのである。どう考えても不自然であり、やはり澄元は、之長が上洛した時点で既に、この世の人ではなかったものと思われる。
(終)