第五話 逆襲の高国
義稙の最も恐れる事態の出来と相成った。
永正十七年(一五二〇)五月、近江に落ち延びた細川高国が、同国守護六角定頼と共に上洛の軍を起こしたのである。夥しい数の篝火が京都市中からも見渡すことができたという。
義稙が高国を見放したのはほんの三ヶ月前のことであった。その間たのみの澄元が入京してくることは終になく、捲土重来を期する高国は十年に及ぶ執政の実績を生かし定頼の助力を得て、四、五万とも呼号する大軍をととのえたうえで、いままさに洛中に迫っていた。
三条御所は大騒ぎになった。ことに高国を見放した義稙の慌てぶりがいと浅ましい。窮した義稙は、かつて高国が求めた治罰綸旨の発給を自分の判断で却下した過去の行いも忘れ
「朝廷に頼んで治罰綸旨を賜り、三好に錦旗を下すべし」
などと口にする始末であった。
このころの朝廷が治罰綸旨の発給に消極的になっていた事情は前述したとおりだ。洛中に迫る夥しい数の篝火を主上もご覧になったことだろう。圧倒的な武を前にしては綸旨も錦旗も役には立たないのである。皮肉なことにそれを証明してみせたのは義稙自身であった。
案の定というべきか、朝廷から
「京兆家の家督争いごときに綸旨も錦旗も下すわけには参らぬ」
と袖にされるあわれ義稙。
なお将軍牙旗を下賜する云々は議論の端にも上らなかった。これを与えてもし三好が敗れたならば、将軍家に累が及ぶことになるのは必定だったから当然の政治判断といえたが、義稙は高国に引き続いて三好すら突き放したかたちになった。いくら将軍でもここまでいけば無節操を難じられても文句は言えまい。
風雲急を告げるなか、具足姿の三好之長が三条御所に参じて義稙にかく言上した。
「怨敵が迫りつつあります。ご采配をたまわりとうございます」
義稙、狼狽して言う。
「采配? 誰が。余がか!」
「御意」
「澄元はなにをしておる。伊丹から呼び寄せよ」
「療養中です」
「興亡危急のときぞ。もう何ヶ月寝ておるのじゃ。多少の病なら押してでも・・・・・・」
「病のあるじを押し立てても詮なきこと。上様のご采配さえたまわれば敵に百倍」
「それは……いやしかし!」
「浮沈を共にするとの御諚を頂戴しております。いまがその時です」
「……」
にじり寄る之長に対して額にびっしりと冷や汗を浮かべるしかない義稙。
圧倒的に優勢な敵方に対し、四国勢の内実は一枚岩と呼ぶにはほど遠い四五分裂状態であった。東条や久米、河村などの阿波勢そして安富、香川などの讃岐勢はそれぞれ本国で之長との間にトラブルを抱えており、互いに反目するところがあった。ほんらいそれを一つにまとめるべき澄元をいまは欠いている。
しかし義稙の権威は澄元のそれをはるかに凌駕している。義稙であれば澄元以上に四国勢をまとめ上げることが出来よう。之長の思惑、わからなくはない。
しかし、しかしである。
(これで負けたらなんとする)
敵四、五万に対し当方合算しても一万そこそこ。権威という目に見えないものにすがって覆しうるか、はなはだ心許ない。
義稙は言った。
「いかにも申した。しかし細川の家督争いにかかずらってどちらか一方に肩入れするとまでは申していないはずじゃ。履きちがえてもらっては困る。余は武家の棟梁である。怨敵を打ち破ってこれへと帰って参ったならば遅滞なく褒美の盃をとらせるよってに、行ってこい之長」
三日、高国・定頼連合軍は京都東山は白川表に着陣し、これに対して四国勢が三条御所並びに等持院周辺に布陣した所以は、直接ご采配たまわるとまではいかなくても将軍の威光を背に戦うことで数的劣勢を覆そうとしたためにほかならない。
翌日、等持院周辺でついに戦いが始まった。三好勢四、五千は十倍の敵を向こうに回して大立ち回りを演じた。合戦を見物していた市中の人々で、三好勢の奮戦を讃えない者はなかったと伝わる。
他の四国勢はというと、死闘する三好勢を尻目に次々と陣を離れ、帰国の途に就いたという。高国による政権奪還を見越し、その命令によって本国に残してきた妻子を殺されることを恐れたためとされる。
奮闘虚しく之長は敗れ去った。之長が逃げ込んだ先は曇華院であった。曇華院は義稙の妹祝渓聖寿が入る尼寺だ。敗れたからといってもまさか御所に逃げ込むわけにもいかず、それでもなんとか将軍の権威にすがって逃げ延びようと選んだ先が曇華院だったのだろう。
兄将軍の意向を受けたものか、祝渓聖寿は之長の差し出しを求める高国に対し、自害すら厭わぬ強硬姿勢でこれを拒否したが、これ以上曇華院に隠れ続ければ将軍妹に累が及ぶと観念したものか、ついに之長は出頭するに至った。高国の兵に捕らえられた之長は刑場となる百万遍まで歩かされたが、肥満いちじるしく十歩も歩けなかったなどと伝わる。
ちなみに之長については助命も検討されたらしいが、之長に殺された細川尚春の子彦四郎が強硬に処刑を主張したので死罪となった。
三好之長は極めて合理的な考え方をする人物で、そんな合理主義者が将軍や主君澄元への忠節などにほだされてわざわざ不利な戦いに身を投じたはずがない。之長が最後まで京都を離れなかったのは、それがいちばん理に適っていたからだ。
三好、海部を除く他の四国勢が後難を恐れて帰国を選んだように、高国が勝利すれば本国にまで追及の手が伸びてくることは必至であった(事実そうなった)。
前述のとおり之長は阿波でもトラブルを抱えており、義稙を見棄てて阿波に逃げ帰ったところで稼ぐことができるのはほんのちょっとの時間だけで、真っ先に殺されてしまっていただろうことは想像に難くない。その運命を変えようと思えば戦って勝つしかなかった。そして当時の之長が手を結んでいた相手は将軍義稙であった。武家の棟梁を推戴していたわけだから、担いでいる神輿の権威でいえば高国も澄元も比較にならない。将軍を推戴している以上、勝つ可能性が十分にあると判断して之長は戦ったのである。之長は最後まで徹底したリアリストであった。
ともかくも、いちど追い出した相手が隣に座ることとなって首筋が冷たい義稙。市中のそこかしこに、高国の兵があふれ返っていた。