第二話 頼りない高国
永正十六年(一五一九)十月、摂津国人池田三郎五郎が細川澄元に通じ、有馬郡田中城に挙兵した。淡路襲撃に続き、またしても敵に先手を打たれた細川高国は有力被官瓦林政頼を派遣してこれを包囲、にわかに上がった火の手を消しにかかったが、むしろ夜雨にまぎれて打って出た池田三郎五郎に痛撃され、瓦林はほうほうの体で居城越水に逃げこむ有様であった。
敵領国内に橋頭堡を得た澄元方の動きは素早かった。
翌月、見渡すかぎり瀬戸の内海を埋め尽くしたのは大小軍船数百艘。これらが兵庫浦に殺到し、阿波、讃岐武士団合算して一万余が続々と上陸を果たす。先陣を務めるのは三好筑前守之長。豊富な在京経験を買われて先陣を任されたのである。
恐れていた澄元勢上陸の事態がいよいよ現実のものとなるや、高国は義稙御前に参じて次のごとく求めた。
「綸旨並びに錦旗を賜りとうございます」
「ふうむ。綸旨のう……」
分かったような分からないような生返事の義稙。澄元討伐に積極的だった以前と違って明らかに乗り気ではない様子である。
困惑を隠しながら高国が
「主上のおわす京都に刃を向けるは賊徒の所業。官軍の栄誉を賜らんか、必ずや賊を討ち果たしてご覧に入れましょう。どうか綸旨を……」
と続けると、義稙はさんざんもったいぶったあげく言ってのけた。
「綸旨によらず、己が武力で怨敵を退けてみてはどうか」
「……!」
「自力で敵を討ち果たし、満天下に武勇を示してはどうか」
駄目を押す義稙。
「そ、それは……」
高国、しどろもどろになる。
もとより高国だって自信があれば綸旨など端から求めていない。自らの武力が澄元に劣ると自覚するからこそ、足らずを補うためにこれを求めるのである。
一転、みるみる紅潮する高国の表情。口にこそ出さないが、――これが十年にもわたって支えてきた主のすることか。お前のために戦うと言っているのに――。
悔しげな声が聞こえてきそうな高国の表情に構わず、義稙は冷たく言い放った。
「余が義興と共に上洛の軍を起こした折、義澄の奏請により余は朝敵とされた。しかし余の前に官軍なるものは終に現れなんだ。思うに圧倒的な武を前にしては綸旨も錦旗も用をなさぬ。そのことは余が一番よく心得ておる。こたびの争いにそのようなものは無用である。だいいち主上がお許しにならぬであろう。敵はまだ京都を目指していると決まったわけではあるまい。摂津はそなたの分国ぞ」
細川政元の横死をうけて義稙及び大内義興が上洛軍を起こした永正五年、時の将軍足利義澄は朝廷に奏請して義稙並びに義興を朝敵となしたが、かえって大内の大軍であることに士気を阻喪し、碌に戦うことなく近江に逃れ去っている。
官軍が賊軍に敗れたのである。
京都以外に逃げ場がなかった朝廷は、入京してきた以上たとえ賊徒であっても共存する以外に道がなかったが、敵と名指しした相手が隣に座ったわけだから、しばらくは寒気が止まらなかったことだろう。
上洛の翌年、義稙は自ら禁裏小番(内裏における宿直勤務)を勤めて後柏原天皇をいたく喜ばせている。極度の緊張状態にあった公武関係を緩和するための、義稙一流の政治パフォーマンスと見るのはあながち的外れとも言えまい。
余談はさておき、こんなことがあったわけだから、朝廷が治罰綸旨や錦旗の発給に及び腰になるのも無理からぬ話であった。従前は乱発気味だった治罰綸旨発給が、この「官軍遁走事件」を契機としてぱたりと止んでしまうのである。
こういった事情に加え、義稙が指摘したように現在攻撃を受けているのは高国の分国摂津にとどまっている。そんな争いに錦旗が下されるわけがない。高国がいくら歯噛みしてみたところで、これでは義稙の理屈に分がある。
それでも諦めきれない高国は
「では将軍牙旗を」
と更に求めると、あまりにしつこいのに業を煮やしたものか義稙がついに大喝した。
「牙旗は将軍家怨敵討伐のために下される旗。私戦に用いる旗ではない。そなたと澄元の争いなどしょせん京兆家の家督争いに過ぎぬ。それを、錦旗が下されぬなら牙旗をなど、将軍家を軽んじたような申しよう癪に障る。累年の忠節なくんば切腹を命じておるところぞ。不愉快じゃ、下がれ!」
高国は己が失言を恥じて退出した。こうなってしまった以上高国は、澄元との自力決戦に向けて腹を括るしかなかった。
要衝越水城に立て籠もる瓦林政頼に対し、細川澄元は神呪寺南の鐘の尾山に着陣、その他三好、海部、東条、久米、河村など阿波勢、それに安富や香川などの讃岐勢がこれを取り囲んで攻城戦に及ぶこと二ヶ月、包囲軍に倍する二万の軍兵をととのえた高国は、尼崎一帯に展開した澄元勢に対し後詰の一戦を挑む。
丹波守護代内藤備前守や伊丹兵庫助、それに越水籠城兵雀部與一郎及びその弟次郎太郎など高国方の奮戦が伝わるが、数の上では澄元勢に対し優勢だったはずの高国はここでも勝てず敗退した。
救援の見込みを失った越水城はひとつき持ち堪えたのち、永正十七年(一五二〇)二月、城主瓦林政頼が城を逐電して落城する。
高国は残存兵力をかき集めて澄元方を食い止めようと試みたが、長洲(尼崎)における一戦でも敗れ去り、京都に逃げ込む仕儀と相成った。
敗残の高国は義稙の御前に参じた。近江同道を願い出るためであった。