第一話 澄元からの密書
在京十年、将軍足利義稙に近侍し政権を支え続けてきた西国の太守大内義興が、領国の政情不安定を理由として周防に帰国したのは永正十五年(一五一八)八月のことであった。武的柱石を失った政権の周辺はにわかにきな臭くなり、翌年五月、細川澄元の家老三好之長が阿波より打って出て細川尚春を淡路に攻め殺したことで、澄元の摂津上陸は避けられない情勢となる。
摂津――京都間にこれといった天嶮はなく、要害は数えるほどしかない。
「澄元上洛必至」
この観測が流れ、或いは家財を押して逃げ惑う地下の人々、或いは政権の意向に反して澄元に乱妨狼藉免除の禁制発給を求めんとする寺社商家ごった返して市中騒然とするなか、将軍に澄元討伐を願い出たのは細川高国であった。
「もとより六郎澄元は我が不倶戴天の敵。必ずや討ち果たしてご覧に入れましょう」
高国と澄元は、ともに細川京兆家当主政元の養子だった。京兆家といえば、名門三管領家のひとつにして細川一門を束ねる惣領家だ。政元が実子をもうけず、また後継者を明示しないまま横死したことで、当主の座をめぐり養子どうしで争うことになったのである。
「帝都静謐のため速やかに怨敵澄元を鎮定すべし」
義稙より下知をたまわった高国は御前を退出するや、勇躍合戦の準備に取りかかったのであった。
細川政元により将軍の座を逐われた義稙が、流浪を重ねた末に空前の将軍還任を果たしたのは、いまから十年前の永正五年(一五〇八)七月のことであった。以来大内義興らとともに政権を支え続けてきた高国に対する義稙の信頼は篤い。義稙は、忠臣高国と飽くまで命運を共にするつもりであった。
高国の去った御前に進み出る者がある。誰かと思えば奈良掃討より帰京したばかりの畠山順光である。順光は恐れながらと前置きしたうえでかく言上した。
「大樹(将軍)におかせられましては、飽くまで高国殿と浮沈を共になさる御存念と拝察します」
「せずにいられようか」
「それがし思いますに、こたび合戦はつまるところ細川の家督争い。大樹がどちらかに肩入れしなければならぬいくさではないと存じます」
「勝った方を顕彰すればよいと申すか」
「御意」
建前論としては順光の進言はまったくもって正しい意見である。力によらず権威を以て統治に臨む者が、乱世を生き残るための秘訣でもある。
しかし義稙はこれまでたびたび澄元と敵対してきた。特に永正八年には、阿波より出撃した澄元が各所で戦勝を重ね、洛中に乱入したことで、義稙自身が丹波下国を余儀なくされてもいる。高国だけではなく義稙にとっても、澄元は不倶戴天の敵だったのである。だいいち十年にもわたって政権を支え続けてきた高国をいまになって見棄てるのは忍びがたい。
「高国は永年余を支えてくれた忠臣である。そなたもよく存じておろう。それを敵に勢いがあるからといって……」
万が一こたび合戦で高国が敗北したからといって、義稙がこれまで激しく敵対してきた澄元と手を組む気にどうしてもなれないというのは、過去の経緯からしても当然の心境といえた。
そんな義稙の逡巡を見て取ったように続ける順光。
「武家の棟梁が勝った者を顕彰するのは当たり前のことでございます。そもそもこたび澄元殿が蜂起に及んだ所以は、大内殿が周防に帰国したため。要するに高国殿が舐められてしまっているためでございます。これは武家として恥ずべき瑕瑾。武勇に劣る者と浮沈を共にして洛中の静謐を乱せば主上(天皇)への不忠ともなりましょう」
「……」
痛いところを突かれて黙り込む義稙。
永正八年の戦乱では、高国は畿内各所で敗退を繰り返し、澄元を食い止めることができなかった。高国が最終的に京都船岡山で澄元を撃破しえたのは、裏でこれを操っていた前将軍足利義澄の死報が直前に伝えられたからにほかならぬ。武勇に劣る高国は、人の生死という偶然の要素に救われてようやっと勝利を拾うことができたのであった。
「それに、ご覧じろ」
順光は膝行しながら義稙ににじり寄り、懐から書状を取り出した。
「誰からじゃ」
義稙の問いかけに対して順光は、低いがはっきりした声で答えた。
「澄元殿御直筆」
「……!」
差し出された一書には次のような内容が記されていた。
――もとより自分は将軍家に対し二心なく、前将軍義澄公に従い争ってきたのも、将軍家に対してではなく高国に対してである。
いまはその義澄公もみまかられ、自分が忠節を尽くす御主は義稙公以外にない。上洛を果たしたあかつきには遅滞なく臣従し、将軍家に馳走する所存――と。
書状を手に身じろぎもしない義稙に、順光がとどめのようなひと言を発した。
「戦局に一喜一憂することなく、泰然として御所におわすべし。勝って武勇を示した側に褒美の盃を下されよ。洛中の安寧こそ大樹の御勤めでございますぞ」




