第8話 新歓公演②
ローブの下の顔立ちは、確かに久遠だ。服装はよく見れば、先ほどのロミオの服の上からローブを羽織っただけ。橘が一人で演技している最中、スポットライトの外で髪をほどいて、着替えたのだろう。
(いや、服装というよりも――)
綺羅が驚いたのは彼女の声音、表情、立ち振る舞い。声は柔らかく、歩き方も幼い少女のそれ。堂々たるロミオの演技とはかけ離れている。
(間近で見ている私だからこそ、辛うじて同一人物だと分かる……)
綺羅は、客席を見渡す。どよめきはない。違和感を抱いた様子もない。誰もがジュリエットを新キャストだと思って見ているようだ。誰もロミオとジュリエットが同一人物であると気づいていない。
(なんなのこれ? 一人二役をこんなに高いレベルで――)
「もう帰って帰って~!」
橘がジュリエットの背中を押して、二人一緒にスポットライトの外へとはずれる。ややすると、フードを深く被った橘が、肩で息をしながら戻ってきた。
「なんだったの今の不審な人。取り敢えず……ジュリエットもまた今度! 次の配役を考えよう。そう、ロミオの親友であるマーキューシオも外せないよね。あの自由で奔放なムードメーカーを……」
「よおよおよお!」
陽気な声と共に闇から青年が現れると、客席の女子から笑い声が上がる。
ロミオとは一転、乱暴で軽妙な口調の青年だ。ロミオの親友であるマーキューシオ――彼に扮するのは、やはり久遠だった。雑に羽織ったシャツとスカーフ程度の小道具。にもかかわらず佇まいは別人。
「だからどこから入ってくるの!? 今度は二重にロックかけたのに!」
「始めからベッドの下にいたよ、俺は」
「怖い都市伝説でよくあるやつじゃん!?」
綺羅は周りを見て、唇を噛む。
(やはり――)
客席は、マーキューシオがロミオたちのキャストと同一人物とは気づいていない。
(……見事ですわね、久遠さん)
素直に、綺羅は久遠の実力を認めた。
しかし、だからこそ、綺羅は嘲るように笑った。
(確かに久遠さん素晴らしい。その点は認めましょう。けれど橘さん、あなたは脚本でミスをしたのではなくて?)
ロミオとジュリエット、そしてマーキューシオ。久遠による一人三役は優れている。優れすぎているから、多役をこなしていることに綺羅しか気づけていない。
(観客からすれば、橘さんを含めて、これまで四人の役者が出てきただけ。演技が上手いだけの普通の舞台ですわ)
しかも、橘役の橘、その声音は弱弱しく、演技はおどおどしている。久遠と対比されて、それがよりはっきりとしている。
(この舞台ですごいのは久遠さんのみ。橘さん、あなたの演技も、そして脚本も、彼女の足を引っ張っていますわよ)
橘とマーキューシオのやり取りが続く。
そして天丼として、最後にはお決まりのパターン。
「もう、本当に帰って帰って帰って~!」
橘が叫びながら、マーキューシオの背中を押す。一度。二人がスポットライトから退場した。ややして光が照らす中央へ、同じパーカー姿の橘が、息を切らしながら戻ってくる。
彼女は俯きながら、ぽつりと呟く。
「本当に何なの、あの人たち。どこからか現れて急に……。はあ、もう。気を取り直して……。次の役、次の役……」
橘は『ロミオとジュリエット』の文庫本を捲くるが、手は急にぴたりと止まる。
「でも、あの人たちの演技……上手だったな。すごい生き生きとしてた……。それに比べて、私って……」
橘はフードの上から、両手でがしっと頭を抱えた。
「駄目だよ、私にはできない。何の役もできない。だって私、引っ込み思案だし。演技下手だし。こんな私にできる役なんて……」
綺羅はそれを笑いながら見ていた。
(なるほど、結局は橘さんが自己を顧みる物語ね……。予想の範囲内ですわ)
タイマーを見やれば時間は残りわずかだ。
綺羅はマイクを手に取り、いつでも自分が喋れるよう準備を始める。
と、そこで――。
「そんなことはないよ、君」
澄んだ声が響いた。あのロミオの堂々たる声色だ。
「え?」
橘が顔を上げて、舞台を見回す。だが先ほどとは違い、ロミオの足音は響かない。彼女の周囲には闇が広がるばかり。
「何だってできるだろう、君なら」
その瞬間、綺羅の目は、無意識に見開かれていた。
舞台の中央に立つ「橘」の姿が、ふっと変わる。背筋が伸び、視線が上を向く。先ほどまでの控えめな佇まいからは考えられないほど、凛とした立ち姿。
そして、彼女はフードを取る。
(……え?)
フードの下から現れた顔は、ロミオのものだった。服装も違い、髪もほどいているけれど、その表情と姿勢と振る舞いすべてが、そこに立つのはロミオであるとはっきりと告げている。
「そうです。無限の可能性を持つ私たちは、何にだってなれるのよ」
ロミオの声色と表情が変わる。ジュリエットの、あの気高く優美なものへ。
「恐れることなんてない。やりたいことをやる、でいいんじゃねえのか?」
数秒と経たず、ジュリエットの姿は、陽気に奔放に、ロミオの親友マーキューシオの姿を帯びる。
服装は何も変わらないのに、ころころと姿が移り変わる。
波濤のようなざわめきが、客席に広がっていく。
そして、彼女が再びフードをかぶり直す仕草のなかで、その姿は橘へと戻る。
「なんだ、そうだったんだ……」
あの慎ましく、内気な橘音葉へと。
(いや、違います。あれは――!)
綺羅は理解してしまった。
橘音葉ではない。舞台に立っているのは、橘音葉を演じる久遠透子だ。ロミオを、ジュリエットを、マーキューシオを、そして橘――四役を同時に、演じている。
「始めから躊躇する必要なんてなかったんだね。どうりで不法侵入できるわけだよ。ロミオ、ジュリエット、マーキューシオ――皆、私の中にいたんだね」
そう語る橘は、さらに表情を変えていく。ティボルトのような敵意、ときにロレンス神父のような静寂――説明も名乗りもないのに、彼女が別人へと変わっていく。
(……う、嘘でしょう?)
演劇に心を動かされた経験なんて、綺羅にはなかった。過去に観た舞台は退屈で、眠気が勝った。それなのに、今見ているものは、この心のざわつきは――。
つい昨日の、久遠とのやり取りが想起される。
――ごっこ遊びにしか見えませんもの。
――そのごっこで、私たちは人の心を動かすの。
橘もとい、久遠は舞台の上で続ける。
「そう――舞台の上ならば私たちは、何にでもなれるのです」
中央に立つ久遠が言うと、ライトの外である闇から一人の人物が歩いてきた。フードを被った、本物の橘だ。彼女は久遠の横に立ち、喋り始める。
「演劇部では、共に演劇をできる部員を募集しています。未経験でももちろん歓迎します。衣装係や道具係など、少しでも演劇に関わりたいという人でも大丈夫です」
堂々とした声音だった。
綺羅は悟る。おどおどしていた橘の口調も、ちゃんと演じていたものなのだと。
「少しでもあなたの中に衝動があるならば、ぜひ入部をお願いします!」
橘と久遠が頭を下げた。
そして、すべてを包み込むように、スポットライトが消える。
ぱち、と。躊躇するかのように、客席から拍手の音が聞こえた。その拍手が次第に広がり、やがて全体を包み込み、轟音となる。
だが綺羅の手だけは、動かなかった。
(私……何を見せられたの……?)
演劇なんてくだらない。そう思っていたのに。今、心の底から否応なく湧き上がるこの感情に、彼女は震えていた。
隣の席から生徒会長が「綺羅さん、司会進行……」と囁く。だがその声は、彼女の耳に全く届いていなかった。