第5話 あなたのための
翌日、放課後になり私は演劇部の部室へと足を運んだ。
「あ……」
部室扉の前に、久遠さんが立っていた。手には昨日と同じくシャボン玉の拭き具。ふうっと息を吹きかけると、廊下に小さな光の玉が浮かび上がる。
「く、久遠さん」
呼びかけると、彼女はゆっくりとこちらを振り向いた。
「……名前ばれてるんだね。私の生徒手帳、拾ってたりする?」
「うん。踊り場で拾って……」
「そ。ありがと」
手帳を受け取る久遠さんに、私は勢いのまま、鞄の中から原稿用紙を差し出した。私の想いは、全てこの中に詰め込まれていた。
「……これは?」
「台本。昨日の、あなたとのエチュードから思い付いて、一晩で書き上げたの。私版のロミオとジュリエット」
久遠さんは黙って、それを見下ろした。
「どうして私に?」
「あなたを、ロミオにしたくて書いたの。私と一緒に演じて欲しい」
一瞬、彼女の目が大きく見開かれた。でも、すぐにかぶりを振った。
「無理。言ったでしょう、私は演劇はできない」
「どうしても……なの?」
「どうしても。少しは調べたりしてくれたんじゃない? 虚構症候群のこと」
「うん。調べて、ニュース記事も読んだ」
「だったら分かるでしょ。私は発症してから7年経ってるステージⅡの感染者」
「ステージⅡ……って確か、虚構症候群の進行度合いだよね」
「そ」
久遠さんと私は、部室へと入る。彼女はホワイトボードの前でペンを手に取った。
「発症前から末期までステージが5段階ある。Ⅱ期は進行期に区分される」
調べた限り、綾瀬凛花は末期のステージⅣだったらしい。そのレベルまで進行すると、周囲の人は1時間前に会ったことすら忘れてしまうようだ。
「私に関する記憶は、古い順からどんどん失われてる状態。小学校の友達も先生も、もう私のことを覚えていない人がほとんど」
「……!」
小学校という言葉に驚く。もう、そんなところまで進行しているの?
久遠さんは手元のストローを口に付けて噴いた。窓の外にシャボン玉がぶわっと広がっていく。夕陽の光を反射して虹色に輝くそれは、飛ぶとすぐに消えていった。
「このシャボン玉と同じ。ステージⅣの末期に進行するまで、私には時間が残されてない――私に関する記憶はあと二年程度で皆から完全に消えていく。橘さん、あなたも例外じゃない。演劇なんて、やる意味なんてないでしょ」
「やる意味なんて、ない?」
「そ。私が舞台に立ってたのだって小学生の頃だよ。今更立ちたいなんて思わない」
「……う、嘘だよね、それ」
ぴくりと、私の指摘に久遠さんの方が僅かに揺れた。
「久遠さん、本当にそう思ってるの? 昨日の演劇にブランクがあるなんて思えなかった。舞台には立たなかったけれど、ずっと一人で、陰で演劇の練習を続けてたんじゃないのかな……?」
「……」
久遠さんは私から顔を逸らした。
「久遠さんは、演劇やりたくないの?」
「……」
久遠さんは無言のまま、窓の外を見つめている。
「私ね。昨日の空き教室での久遠さんの演技を見て、すっと世界に引き込まれた」
あそこは確かにジュリエットの部屋のバルコニーだった。
「私は久遠さんの舞台を見てみたいよ。だから、これを書いたの。これ、読んでみて。気に入らなかったら、もう二度と久遠さんを誘わない」
「……自信たっぷりね」
別に自信があるわけじゃない。私は、世界一面白い脚本を書きたいと思ってる。でも、出来あがったものはいつも歪で、顔を覆いたくなる。皆での脚本の読み合わせの時だって、何を言われるか戦々恐々だ。
(だからこれは自信とかじゃなくて……私の覚悟)
彼女を――久遠さんを舞台に上げる。中途半端な物なんて出せるわけがない。一公演十五分の短い出し物だ。彼女は原稿用紙をぺらぺらと捲くっていく。私が緊張している中、くすりと久遠さんが笑った。
「な、なんか面白かったかな……?」
大きな笑いを誘うようなシーンを入れた記憶はない。
「いや、うん。等身大だなって」
「と、等身大?」
「たぶん、橘さん自身がそのまま台詞に映ってるから」
「……それは、そうかも」
私は顔が熱くなる。
私の素直な思いをその原稿用紙の束に籠めている。
久遠さんは最終ページまで目を落とすと、顔を上げた。
「お世辞は言わない。忖度もしない。そういうの苦手だから」
「……うん」
「面白かった。すごく」
ぐっと、私は手を握りしめてしまう。
(やった……!)
でも、久遠さんの顔はまだ曇っている。私は理解する。まだ、久遠さんは演劇をする気がない。脚本が面白いだけじゃだめだ。彼女を動かすには、やはり――。
と、その時である。部室の背後で、扉が勢いよく開いた。