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世界から忘れられていく彼女と演劇を。  作者: 全数
第一幕 新歓公演編
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第4話 虚構症候群②

 お母さんの分を取り分けて、私たち三人は食卓に着く。平時休日を問わず、お母さんが早い時間に帰ってくることはほとんどない。


「どうなんだ、音葉。演劇の脚本は。悩んでたけど出来たのか?」


 向かいのお父さんが、ふんわりとした笑顔で問いかけた。


「え? あ、うん……まあ、頑張ってる……」


 書き上げた原稿は部室のゴミ箱に突っ込みました! 


 ……なんてもちろん言えない。


「楽しみだなあ。お父さん、早引きして観に行こうかな。二日後なんだろ?」


「な、なに言ってるの。新歓用だし親は来れないって、もう……」


「そうか、残念だな……。でも、どうだ。録画とかしてきてくれないか? 去年の県大会もすごく良かったし、本当に楽しみだ」


「……でも、県大会も賞取れなかったし」


 地区予選を勝ち上がり県大会まで進めたけれど、東海大会に進むことはできなかった。今でもあの時のことを思い出すと、死ぬほど悔しくなる。


「大丈夫だよ。宙羽たちの中ではお姉ちゃんの劇がいちばんだから」


「ええ? ありがとう……」


「いいっていって。報酬はハンバーグ半分で」


「報酬高すぎだよ……!」


 宙羽がすかさず伸ばしてきた箸を慌てて押さえ、私は笑ってしまう。そんな賑やかでいつも通りの家族の風景なのに、頭の片隅には久遠という子が消えないでいる。


 箸をしばらく動かしたあと、私は思い切って話題を変えた。


「ねえ、お父さん。綾瀬凛花って歌手知ってる?」


 納豆をごはんにかけていたお父さんが、きょとんとした顔で私を見る。


「それはもちろん知ってるけど……急にどうしたんだ?」


「あ、いや。今日、学校でちょっと虚構症候群の話題になって……。でも、私たちの世代って、あんまり詳しく知らないから。病気が流行ったのって、私が生まれる前でしょ?」


「そうだな。お父さんとお母さんが結婚したころだから、二十年前かなあ」


「ねえねえ。きょこうしょうこうぐん、ってなに? 怖いやつ~?」


 宙羽が能天気に、首を傾げながら言う。


「……そうか、宙羽はまだ小学校の授業じゃ習わないか」


 お父さんは、宙羽にも分かるように虚構症候群を簡単に説明してくれた。その病気にかかった人に関する記憶が、周囲の人々から徐々に失われていく病気なのだと。


「……その綾瀬凛花の事件は、よく覚えているよ。お父さんも、その生放送の番組を見てたからなあ。完全に不審者だと思ったよ」


「じゃあ、お父さんも綾瀬凛花の曲とか知ってたってことだよね。それなのに、番組で見たときは忘れてたってこと?」


「いや、知っていたどころか……」お父さんは、言葉を探すように頬を掻いた。「実はお父さん、CD全部持ってて、ライブに行くレベルで、綾瀬凛花の大ファンだったらしいんだよ」


「え……?」


 らしい、とお父さんは曖昧な言葉を使った。


「びっくりしたよ。生放送の事件があった後で、ふと家のCDラックを見たら、綾瀬凛花のCDがずらりと並んでたから。ただその時、お父さんの中では綾瀬凛花なんて人物は知らなかった。完全に、別の人が歌ってるものだと勘違いしてたよ」


「ライブに行った記憶や、曲自体は覚えてるけど、その中心にいる綾瀬凛花のことは完全に忘れてたってこと?」


「ああ……確かその現象にも、前があったはずなんだけど。なんだったかな……」


 お父さんが眉間を揉んでいると、


「代理記憶置換」


 背後から声がした。


 振り向けば、スーツ姿のお母さんが立っていた。話に夢中になっていて、玄関のドアが開いた音すら気づかなかった。


「お母さん! お帰り」と私。


「ただいま」


「お、今日はちょっと早かったな。ご飯よそうよ」


 お父さんは箸を置きながら立ち上がろうとしたが、お母さんは小さく手を振った。


「ありがとう。でも自分でするからいいわ。それより今、虚構症候群の話をしてたでしょう」


「音葉に聞かれてな。こういうのは、お母さんの方が専門だもんな」


「専門というほどじゃないわよ。仕事柄少し詳しいだけ」


 お母さんは、大学では記憶論や現象学を専門に教えている准教授だ。難しいことをたくさん知っているのに、それをひけらかしたりはしない。


「ねえお母さん、『代理記憶置換』って何のこと?」


「虚偽記憶って言葉は聞いたことある、音葉? 本当は経験していないのに、あったこととして記憶してしまう現象よ。認知症やトラウマの研究でもよく扱われるけれど、虚構症候群では、それが患者自身ではなくて――周囲の人間に起きるの」


「私たちが、その人に関することを忘れちゃうから……?」


「そう。虚構症候群の影響によって忘れられた部分はどうなると思う? ぽっかりと空いただけ? 違う。人間の脳は整合性を保とうと修復を試みる。自分の脳内から、代わりの人物をそこに勝手に差し挟むの」


「じゃあ……脳が勝手に綾瀬凛花の代わりを作るの?」


「そう。お父さんと私は、同じライブに行った記憶がある。でも――」


「お父さんは、浜崎あゆみのライブだと思ってたけど……」


「私は椎名林檎のライブだと思ってたのよ。実際に行ったのは二人とも綾瀬凛花のライブだったのに」


「ぜ、全然違うじゃん……!?」


「それが虚構症候群の怖いところなのよ。同じライブに行っていたという記憶が、私たち二人の間でいつの間にか食い違っていたんだから」


 お父さんはぽりぽりと頬を掻く。


「それでなあ、当時はそれがもとで、ちょっとした修羅場に……」


「あなたが妙に焦ってたからよ。私は浮気を疑ったもの」


 お母さんがさらりと言ってのけると、お父さんは「はは……」と苦笑いした。


「記憶の改変って自分では中々気づけないの。人は自分の記憶を正しいと思い込んでしまう。聞くところによれば、綾瀬凛花の関係者たちの記憶は、めちゃくちゃだったらしいわ。脳内はありもしない虚構の記憶に塗れる。だからこそこの病気は通称こう呼ばれているの。虚構症候群って」


「……患者と関係が深いほど、偽物の記憶がいつの間にか作られちゃうんだ」


 お母さんの解説で、私はことの深刻さを理解し始める。


(周囲の人から記憶が消えるって、ただの孤独じゃないんだ。社会そのものが、歪んでいく……)


「綾瀬凛花の場合は、彼女が有名なタレントだっていうのも大きかったよな」お父さんが言う。「有名人はテレビに出る機会も多いから、より多くの人に影響を与える。だからあんなに社会が混乱したんだろうな」


「あ……」


 私はそこで、久遠さんの言葉を思い出す。


 ――虚構症候群の患者なんだ。だからどうあがいても演劇は出来ない。


 演劇は大勢の観客の前に立たなければならない。二日後の新歓公演だって、一年生全員が来る。舞台に立てば、その観客たちの記憶に久遠透子という存在が刷り込まれる。でも、その彼女の記憶はいずれ消え、別の人物に置き換わってしまうかもしれない。三百人近い人間に影響を及ぼすのだ。


「今、罹ってる人ってどれくらいいるの?」


「全国で百人程度。ただ、虚構症候群は早い段階で顕在化することは少ないわ。綾瀬凛花だって、彼女がステージⅣに進行するまでは気づかれなかったんだから」


「やだ、なんか怖いよ」宙羽が泣きそうな声で呟いた。「もし私が罹ったら、お父さんもお母さんもお姉ちゃんも、宙羽のこと忘れちゃうの……?」


「大丈夫!」お父さんはどんと自分の胸を叩く。「お父さんは皆が罹ったって、絶対に忘れない自信があるぞお!」


「そんな簡単なものじゃないと思うわよ」お母さんはすげなく言った。「癌を気合いで乗り切る、と言っているのと同じよ。実際問題、病気としては存在しているんだから。簡単に乗り越えられるものじゃない」


「……うう」


 お父さんはしゅんと小さくなってしまう。楽天家なお父さんと違って、お母さんはどこまでも現実主義者だ。


「でも、例外はあるらしいわ」とお母さんは続ける。「強い記憶は、虚構症候群でも消えないこともあるらしいの。それに、なくなるのはあくまで記憶だけよ。誰かに忘れられても、その人が残せるものだってある。だって現にお父さんもお母さんも、綾瀬凛花の歌は覚えてるから」


「……あ!」


 その言葉を聞いて、私の頭の中に何かが走った。


(いや、だとすれば――)


 私は目の前のご飯を勢いよくかっ込んで、平らげる。


「……お母さん、ありがとう!」


「ん? 音葉、どうしたの?」


「……うん。なんか靄が晴れた気がする! ごちそうさま!」


 お皿を下げて、すぐに二階の自室へ駆け上がる。


 机の引き出しから原稿用紙を引っ張り出しペンを握る。キーボードでなんて打ち込んでられない。いますぐに、頭の中を全部、原稿用紙の上に書き殴りたい。


(……私のやりたいこと)


 お母さんたちの話を聞いて、少しだけ分かってきた。虚構症候群という病気がどんなに深刻なのか。いや、きっとまだ、病状の深刻さなんて露ほども理解していない。


 それでも、私のやりたいことは明確に見えた。


(私は、久遠さんと一緒に演劇をやりたい!)


 だから私は、書き上げることにした。


 彼女のための、彼女がまた舞台に立ちたくなるような、そんな脚本を――。




 ……。


 どれくらい時間が立っただろうか。


 目の前には、脚本が完成していた。


「……できた」


 スマホを見てぎょっとする。時刻は既に0時近くなっていた。いつもこうだ。脚本を書くとき、人から話しかけられたりしても全く気付かないことがある。気付けば朝になっていたなんてこともざらだ。


 リビングへ行くと、お風呂上りのお母さんがホットミルクを飲んでいる。お父さんと宙羽はもう寝てしまったらしい。


「お風呂、先に入らせてもらった。音葉、声かけても気づかなかったから」


「ごめん、ちょっと夢中になっちゃって……」


「夢中になると昔からそうだったものね。それでどう? いいのできたの?」


「うん。できた」


「そう、よかった」お母さんが微笑んだ。


 脚本は完成した。


 あとはこの舞台を開くだけだ。


 彼女――久遠さんと。

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