第2話 私たちの舞台
誰に聞かせるわけでもなく、彼女は続ける。
「月は悲しみのために病んで、青ざめている。
君という太陽が、彼女よりもはるかに美しいからさ。
そんな嫉妬深い月になんて仕えるな。」
その姿と声音は、あまりにも自然で様になっている。
私はただ見惚れていた。
華。
観客たちの眼を奪う、舞台の上に咲く、一凛の華。
(それに、今の台詞って……)
がたり、と。思わず手をかけていた扉が鳴った。
その音に、彼女が振り返った。
「……誰?」
鋭い警戒の色を宿した視線が、私を射抜く。すっと通った鼻梁、ぱっちりとした瞳。後ろ姿から想像していた以上に整った、凛とした顔立ちだ。
「……見てたの?」
「あ、え、いや……」
咄嗟に出た私の声は、我ながら情けないほどに弱々しかった。
彼女はため息を吐くと、床のバッグを拾い上げ、教室後ろの扉へ早足で向かう。
「あ、待って!」
空き教室で一人演技しているところを覗き見されたのだ。いい気分なはずがない。でも、私は彼女と別れたくなかった。だから足りない頭を必死に回して、声を絞り出 す。
「おおロミオ、あなたはどうしてロミオなの!」
彼女の手が、後方の扉に触れたままぴたりと止まる。驚いた顔で私を見つめる。
私は彼女へと手を差し出した。
「あなたのお父様を捨てて、モンタギューという名を拒んで。
それが無理なら、ただ私を愛していると誓って。
そうしたら、私はキャピュレットでいるのをやめるから……!」
私は呼吸を整えながら、少しだけ歩み寄った。
彼女の瞳には、驚きと戸惑いと――そして、微かな興味が浮かんでいた。
「あ、あなたがさっき、ベランダで呟いていた言葉、キャピュレット家の庭園でロミオの台詞だよね……?」
おおロミオ、あなたはどうしてロミオなの。
作品を見たことがなくとも、その台詞自体は誰もが知っているはず。ロミオとジュリエット、世界で最も有名な舞台劇の最も有名な一場面。彼女の台詞は、庭園のバルコニーにおけるロミオの独白だった。だから私は、ジュリエットの言葉を返した。
彼女はバッグを床に置き、私に近づいてきた。
私を見つめて、そして言う。
「もう少し聞いていようか?
それとも、声をかけてしまおうか?」
私はそれに、自然と応える。
「敵はあなたのそのお名前だけよ。
たとえモンタギュー家の人でなくとも、あなたにお変わりはないはずだわ」
私たちは互いに、言葉を紡いでいく。
観客はいない。でもこの瞬間、空き教室は紛れもなく私たち二人の舞台だった。台詞はところどころ曖昧だったけれど、不思議と流れは止まらない。ほんの数分だったけど、私たちは教室でロミオとジュリエットの一場面を演じきった。
演技を終えた瞬間、私は思わず、その場で大きな拍手をしてしまう。
「す……すごい! びっくりした! なに、なになになに? どういうこと!?」
今のエチュードで分かった。彼女の演技力は並外れている。私自身、よく舞台を観に行くから分かるけれど――私がこれまで見てきた高校演劇の枠を軽々と超えていた。こんな子がこの高校にいたなんて、思いもよらなかった。
「間違いなく舞台経験者だよね!? 何かやってたの!?」
「いや……ちょっと、近いんだけど」
「え? わ……ご、ごめんなさい!」
気がつくと、私は彼女の鼻先まで迫っていた。慌ててばっと飛び退くと、彼女は口元に手を当ててくすりと笑う。
「いや、そんな焦らなくてもいいと思うけど」
「あ、あははは……。ご、ごめん。私、落ち着きなくて。あ、えっと、自己紹介が遅れたけれど、私は演劇部で脚本やってる――」
「橘音葉さん」
「え」
「昨年の高校演劇県大会で上演した『籠の中の鬼』、君の脚本でしょう?」
「えええ!? な、なんで知ってるの?」
「県大会見に行ったから。いい演劇だった。暗い中盤からのラストの爽やかな情景。個人的には、優秀校にも引けを取らない作品だったと思う」
「あ、ありがとう……!」
驚きと嬉しさで胸がいっぱいになる。
私の演劇を知っていてくれてるとすれば話が早い。
「だ、だったら! ね、演劇部に入ってくれない!?」
それを言った瞬間、彼女の笑顔が、ふっと消えた。
「……ごめん。それは無理」
「えっ? どうして? ……あ、もしかして、もう他の部活に入っているとか? 校外の劇団とか? だ、だったら、週1とかでもいいし――」
「ううん、違う。君とのやり取りは楽しかった。でも、私は、演劇はできないから」
彼女は床に置いたバッグを拾い上げ、私に背を向けてしまう。
「あ……! た、確かに、私の演技力はあなたと比べて低いけれど! 部員もいないし! で、でも私は脚本や演出担当で……!」
「違う、そういうことじゃない」背を向けたまま彼女は言う。「病気なんだ」
「……え?」
「虚構症候群の患者なんだ。だからどうあがいても演劇は出来ない」
彼女はそのまま教室を出ていった。私は慌てて後を追い、後姿に話しかける。
「あ、あの、名前! あなた、何組!?」
「教えても意味ないよ。だって、君も私を忘れてしまうんだから」
それだけ言うと、彼女の姿は階下の奥へと消えていった。
西日の差しこむ廊下に私はただ一人残される。
「虚構症候群……」
そう、彼女は言った。その言葉が信じられなかった。だってそれは、テレビやネットでしか聞かない。私たちの日常からはかけ離れた言葉だ。
それは、世界を震撼させた病。自身ではなく周囲に影響を及ぼす病気。その人に纏わる記憶が、その周囲から徐々に失われていく――そんな病気だ。
階段を降りる中、私は踊り場に生徒手帳が落ちているのを見つけた。さっき会った彼女の学生証が挟まっていた。
「2年の……久遠透子さん」
私はまだ、この病の重さも、彼女の苦しみも、ちゃんと分かっていなかった。
でもこの日、私は確かに思った。
――彼女と一緒に、舞台をつくりたい。