第1話 演劇と邂逅
「……うん、読み終わったよ。橘さんの書いた脚本」
狭い部室の中、私は読み終えたA4の原稿用紙をとんとんと机の上で揃える。読み終えたのは、新歓公演用の短い演劇の脚本だ。原稿用紙は赤字で細かく修正され、脚本家の頑張りと真剣さが伝わってくる。
「ずっと考えて書いたんだね。ただ――」
読み終えた率直な感想を言わせてもらうと――。
「全然、だめっ!」
私は、ぐしゃりと原稿を丸めると、隅のゴミ箱へと勢いよく放り投げた。
「ごめん、正直全然面白くない。ねえ、どんな気持ちで私にこの脚本出してきたわけ? 本当にこれを新入生の前で演じるつもり? 新入生が魅力を感じると思う? というか、こんな多人数の高度な演技ができると思ってる? ぜ~んぶ書き直してください!」
思いの丈を全て吐き出して、私は机の上に倒れ込む。
「まったく……本当に駄目だよ。こんなつまらない脚本を書くようじゃ~……私!」
脚本を書いたのは、私――橘音葉自身だった。
行われていたのは自分で自分を叱責する下らない茶番だ。
だめ、全くだめ!
悩みに悩んで、昨日の夜にようやく完成させた、新歓公演用の脚本。それを今日になって、改めて読み返したけれど、正直全く面白くない! 昨日の夜は確かに面白いものが書けたと思ったのに! 「現代のシェイクスピア降臨!」とか布団の中で一人ニヤついていたのに!
ぶわりと、窓の外で大きな風が吹く。
桜の花がばあっと部室の中へ飛び込んできた。窓から外を見れば、グラウンドからはサッカー部の掛け声、吹奏楽部の練習音が流れてくる。どこの部も新入生の勧誘で気合が入っているようだ。
私立蒼穂学園高等学校――『自主・創造・協働』を理念に掲げる県内でも指折りの進学校だ。運動部や吹奏楽部は県大会常連、部活動目当てでこの学校へは行ってくる生徒も多い。
「いいな~、他の部は……」
でも、この演劇部は違う。昨年まで三人いた先輩たちは卒業し、今、部員は二年生の私一人きり。
なんとかして、新入生を部活に誘い込みたい。二日後には、新入生への文科系部活の紹介活動があり、演劇部は20分の公演時間を用意されている。
その脚本を用意していたのだけれど、破り捨てたのがついさっき! 公演は二日後に迫ってるのだし、もうその脚本を演じればいいのだろうけど――。
「だって、面白くないんだもん……」
部員が一人ということは、必然的に私が私が主演を務めることになる。書いた本人すら面白いと思えない脚本を、自分で演じるなんて――無理だ。
……というか私、脚本を書くのは好きだけど、そもそも演じることはそんなに得意じゃないし。なのに、書いてしまったのは技巧的で難しい役柄だし! 準備間に合わないし!
「うぁ~どうしよ、どうしよ、どうしよ~……」
頭を抱えていると、部室の扉がノックされる。
「あっ、は、はぁい!」
奇声を聞かれてやしないかと、慌てて取り繕った声を出す。
「おいっす。橘、ちょっとだけいい?」
顔を出したのは演劇部の顧問、仁科先生だ。先生は無精ひげを撫で、丈の合わない白衣をずるずると引きずりながら部室へ入ってきた。
「今年の演劇部、君一人だよね」
「あ、はい……」と私は頷く。
「橘も知ってると思うけどさ。うちの高校って部室が不足してるんだよね」
「あ、はい……」
この高校では続々と新しい部活が認められている。嫌な予感がしてきた。
「それでさ、今ね、女バド部が部室を広げたいって言っててさ」
仁科先生は、演劇部と女子バドミントン部の顧問を兼部している。この高校の女子バドミントン部は強豪、特に今年の副部長はシングルスで全国大会にも出場経験があり、先生たちからの注目度も高いらしい。
「……」
「んで、職員会議で、部室の見直しもあって。新入生の勧誘がうまくいかない場合、せめて二人部員が入らなければ、部室の継続使用は難しいかなって言われててさ」
静かに突きつけられた終わりの気配。先生は悪くない。これが学校にとって合理的な判断ということは分かっている。
「……わかりました。がんばってみます」
「うん。いや、俺としても応援したいけど学校側の判断だからな。君の脚本、俺は好きだよ。昨年の『籠の中の鳥』、かなり良かったし」
「あ、あはは……。ありがとうございます~」
先生が出て行ったあとで、私は大きな溜息を吐いた。
「……『籠の中の鬼』だよ、先生」
去年の高校演劇県大会で上演した『籠の中の鬼』。タイトルにも深い意味を込めた、大切な作品だった。それを顧問に間違われるなんて、あまりにも――。
「く、や、し~~~……!」
大声で叫び地団太を踏んで、机に向き直る。
文句を言ったって始まらない。
まず私がしなければいけないのは、すっごい脚本を書き上げること。新入生がばんばん入って、部室もそのまま存続させて、先生にも名前を覚えてもらえるような!
「――でも」
アイデアは私の頭の中にはっきりとある。でも、それを演じられるイメージはまるでない。だって私、演技そんな上手くないし。脚本家としての理想と、役者としての現実。その落差に、何度も何度も押しつぶされそうになる。
昨年の舞台だって、全力を尽くした。先輩たちは頑張ってくれた。良い講評も貰った。それでも、私の思い描いた理想の演劇からは遠い。
私の書いた言葉を、誰かの声で響かせてほしい。
でも、そんな誰かがいない。
結局、原稿は白紙のまま下校時刻を迎えた。鍵を閉めて、人気のない校舎を歩く。もうこの部室にも来れなくなるのかもしれない。長年ずっと演劇部が使ってきた部室なのに。
(止めたくない。もっと演劇を、私は……)
そう心の中で呟いた、そのときだった。
ふわりと、視界に舞い降りたものがある。
――シャボン玉。
夕陽を映して、淡くきらめきながら、目の前で弾けた。
(え?)
なんでと疑問に思いながら、シャボン玉が出てきた教室を覗き込む。
部屋の中に何個もシャボン玉が浮かび上がっている。そしてその向こう、一人の女子生徒が、教室ベランダの手すりに身を預けていた。長い黒髪が風に揺られている。
(わ、綺麗な子……)
横顔しか見えないけれど、そう思った。
彼女の傍らには、ピンク色のシャボン玉の容器。手には緑の拭き具を持っている。
突然、彼女は夕陽へ向けて、手を大きく挙げた。まるで何かを求めるように。
「ああ、美しい太陽よ。あの嫉妬深い月を殺してしまえ」
澄んでいて、それでよく通る、玲瓏な声。
――それが、私と彼女との出会いだった。