明るい夜空
ただ、人から聞いただけの光景が、胸に焼きついてしまうことがある。
この話を聞かせてくれた彼は、大学三年生のときに、中国の内陸部へひとり旅に出たのだという。旅費は八万円ほどの低予算。バックパックを背負い、ひたすら西へ、西へと向かった。何日も鉄道やバスを乗り継ぎ、河を遡る船では、乗り合わせた怖いおじさんから金を脅し取られそうにもなった。必死に断りつづけていたら、最後は向こうが諦めてくれたので助かった。お互いにあまり言葉が通じなかったので、おそらく向こうも最後は面倒くさくなったのだろう。
こうしたトラブルも乗り越えながら、彼は中国の奥地へ到り、ある砂漠に辿り着いた。着いたときには、日が暮れていた。彼が本物の砂漠を見るのは、はじめてのことだった。見渡す限りの砂――。他には何もない。これならどちらへ進んでも、何にもぶつからないだろうな。そう思うと、彼は無性に駆け出したくなった。
彼は目を閉じて走った。バックパックが揺れ、足が砂に取られ、すぐに息が苦しくなる。それでも虚空に吸い寄せられるように、彼は走りつづけた。目を瞑ったまま、でたらめに走っているのに、何にもぶつからないという奇妙な感覚に慄きながら。
ついに息が切れ、彼はバックパックを下ろしてその場に倒れた。砂が柔らかく身体を受け止めてくれる。仰向けになって目を開くと、それまで見たこともないような、無数の星が瞬いている。夜空とは、こんなに明るいものだったのか。彼は肩で息をしながら、星々に目を凝らす。
不意に、眼鏡のフレームの軌道を焼くように熱い涙が伝う(と言っても、彼は眼鏡をかけていなかったのだが)。その涙もすべて砂が受け止めてくれる。
彼は涙を流れるままにして、時を忘れて星々を見つづける。
彼が聞かせてくれた話は、短くてシンプルなものだった。この話を聞いてからもう何年も経つのに、どういうわけか、彼が語ってくれた光景が胸を離れない。それはこの光景が、ただ綺麗だとか、壮大だとかいう、ありきたりな感想には収まらない、何かを感じさせてくれるからだろう。
その何かをあえて言葉にすれば、非日常ということになる。たぶん、彼は砂漠に寝転んで星空を見上げていたひととき、顔や頭が良いか悪いか、お金や人気があるかどうか、今の生活に満足しているかどうか、といった日常的な感覚から解き放たれていただろう。
僕たちは、生きている時間のほとんどを日常的な感覚に囚われて生きるしかないが、ごく希に、それを離れられるときがある。かつて川端康成が「自分の小さい影が地上から逆に天の河へ写っていそうに感じた」(『雪国』の結末部)と書いたようなときが。それはたぶん生きている間に、数えるほどしか出会うことができない、貴重なひとときなのだろう。
そんなひとときを言葉にしようとしても、成功することは同じく希である。彼は特にそれを狙ったわけではないだろうが、巧まずしてそれをやってのけた。中国にも砂漠にも行ったことのない僕が、彼の言葉によって、砂漠の夜空に無数の星々が瞬くのを確かに「見た」ように思ったのだから。
道は険しいが、いつか僕もそんな光景を言葉にしてみたい。