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笑ってはいけないときに

 笑いが止まらないことがある。


 僕が大学一年生だったとき、父方の祖父が亡くなった。

 サークルの合宿で山奥の青年自然の家にいたところを、祖父がいよいよ危篤(きとく)だということで僕は街中(まちなか)の病院へ呼び戻された。

 病院に集まっていた親族は、祖父のベッドを囲んだり、交代で待合室へ行ったりしていたのだが、祖父が息をひきとったときにはたまたま僕がひとりで手を握っていた。(またた)()に祖父の手は(かた)く、冷たくなっていった。ひとりの人間の死を間近(まぢか)に見届けるのは、僕にとってはじめてのことだった。


 死者を送り出す人は大変である。病院や役所での諸手続、遺体を移動させる手伝い、葬儀社との打ち合わせなどなど、普段はやらないことを次々にこなさねばならない。まだ学生だったので、僕はほとんど(そば)で見ていただけだったけれど、父はとても大変そうに見えた。父は長男だったので、喪主を務めることになったのだった。

 葬儀はセレモニーホールで行われることになった。遺された写真からトリミングされ、引き伸ばされた祖父の遺影が、祭壇の上で白い花々に囲まれていた。名札の付いた供花スタンドが壁際に並び立ち、弔問客用の椅子(いす)も整然と並んでいた。天井は高く、照明は適度な明るさで、場内には静かにクラシックが流れている。立派な斎場だった。これならじいちゃんも浮かばれるだろうと思った。


 葬儀が始まる前、任された受付の打ち合わせも済んだので、僕は兄と親族席に座ってひと休みしていた。僕は喪服を持っていなかったので、大学に入学するときに買ってもらった濃紺(のうこん)のスーツを着て黒のネクタイを締めた。手には数珠(じゅず)。慣れないものを身につけているせいもあって、僕は落ち着かなかった。

 一方、父は悠然(ゆうぜん)としているように見えた。喪主を務めるのははじめてのはずなのに、場慣(ばな)れしているというか、さすがは社会人だなと感心した。父は背が高く、恰幅(かっぷく)がよかった。長く会社に勤めてきたこともあり、ブラックスーツがよく似合っていた。けっこう怒りっぽい人だったので、幼い頃には父に叱られるのが何より恐かった。

 父はゆっくりとホールを歩きまわった。椅子の列を見、供花スタンドを見、祭壇を見、喪主として斎場をひとつひとつ点検しているようだった。ふと、何かに気がついたらしく、父は焼香台(しょうこうだい)の方へ近づいていった。父が腰高の台に少し身をかがめた、そのときだった――


 ()ちっ!


 突然、紙相撲(かみずもう)のように父が跳ねた。実際には「熱ちっ!」という声は聞こえなかったのだけれど、父の後ろ姿がはっきりとそう言ったのだった。ゆっくり焼香台に手を伸ばしたと思ったら、いきなり「熱ちっ!」て。それはもう「熱ちっ!」としか形容(けいよう)しようのない後ろ姿で、背中が語るとはよく言うけれども、本当にその背中は語ったのだった。

 それを見た途端(とたん)、僕と兄は腹を抱えて笑った。両目からは熱い涙も(あふ)れた。僕たちの笑い声は、斎場中に響きわたり、それを聞き(とが)めた叔父(おじ)から「おい! いいかげんにしろ! 葬式だぞ!」とドスのきいた声で叱られても、ぜんぜん止まらないのだ。その笑いは、僕の人生で間違いなく一番大きく、長いものであり、体の奥深くからこんこんと湧き出てくるような、不思議なものであった。叔父の言う通りだ、もう笑うのはやめようと思うのだけれども、自分でも止められなかった。

 父は振り返らなかった。きっと恥ずかしかったのだと思う。今考えると悪かったと反省している。落ち着いているように見えた父も、実は自分の父親を(うしな)い、長男だからということで悲しむ間もなくあれこれ取り仕切ることになり、会葬御礼のあいさつなどもせねばならず、ということで、実は緊張していたところを息子たちに大笑いされて少なからず傷ついたに違いない。

 父には本当に悪いことをしたと思っている。思っているのだが……あの「熱ちっ!」という背中を思い出すと、自然と僕の口角は上がり、両目は熱くなる。

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