手
私が我を忘れていたし、勝ちにこだわっていたし、彼を挑発もした。
完全に私が悪い。
だと言うのに、自分が引くべきだったなんて言ってしまえる彼の甘やかし方に、心の奥がやんわりと刺激され、泣きたいような気持ちになった。恥ずかしい、と思う気持ちと、受け止められて許される嬉しさが、涙腺を刺激しようとしている。
「でもまあ、正直に言えば」
彼はなぜか楽しそうに私の手を握ったりさすったりしていて、私の顔を見ずに呟いた。
「腹が立ったのもあった」
とんでもなく優しい言葉でそんなことを言う。
「君が、本気でやれと言うから」
「……本気でなければ意味がないもの」
「わかっているが、そうじゃない。手抜きとかではなく、ただ、俺は自分の勝ちを望んでいなかった。俺に勝ちにこいと言うことは、君が別居したいということだろう? それがどうしても、腹が立ったんだよ」
拗ねたように言った彼を思わず盗み見る。
私の手を見つめながら、熱心に手を温めているその目は無邪気に見えた。
「……どうしてですか」
「ん?」
「別居したいのでは?」
「気になったのだが、どうしてそんなことになってるんだ」
呆れたような眼差しとようやく目が合う。
彼はどうしてか、そのまま眉を下げて笑った。
そっと手の甲で頬を撫でる。
「そんな顔をしなくても、俺は別居など望んでないよ」
「ここに戻れと言われたのではないのですか」
「……ああ」
ぽろりとこぼすと、彼は、それか、とようやく腑に落ちたように苦笑した。頬から手を離し、今度は両手を差し出してきた。私も、両手を渡す。
「言われた」
伏せた目が綺麗だった。嘘をつかない人の、目。
「俺が政略結婚に巻き込まれて望まぬ結婚を強いられているのなら、帰ってきていいと伝えたかったそうだ。森は森の住民で守るから気にするな、と。俺がドージアズに行ってから、遠回しな森への関与が一切なくなったせいで、逆に心配させたらしい。手紙でもこまめに書いて安心させておくべきだった」
両手を柔らかく握られる。
「ドージアズでおもしろおかしく暮らしている、と」
「……」
「本当だよ」
「では」
「もちろん帰る。あれは俺に与えられた屋敷だしな。君の父上も面白いし、同僚も、訓練も、別に不満もない。任務としてソラシオスに向かったときには、初めて自分の力を正しい方法で使えたことに、これでも嬉しかったんだ。もちろんここは大切な場所に間違いないが、ここでするべきことはもうないと今日気づいたよ」
私の手から、湖を見下ろすように視線をゆっくり移す。
悲しみや後悔や妥協の色は一切なく、むしろ清々しい晴れやかなそれは、私の心を一気に落ち着かせた。思わずふにゃりと背中が丸まる。
「ごめんなさい」
誤解を恐れずに、言わなくては。
彼がそうしてくれたように。
「ごめんなさい、私はあなたがここに残ると言うと思ったの。どうにかして気を引きたくて、剣を」
「……ああ」
「強い私でなければ興味を引けないと思って。でも、どこかで、別居にどう反応するのか、本気を出すのか、わざと負けようとするのか、気持ちを測ろうとしていたんです。だから、別居を許す、なんて言い方をした。決めるのはあなただと」
卑怯にも、そんなことを考えてもいた。
「けど、剣を振っている内に、こう」
さらに背を丸めながら言い淀むと、私の手を握る彼の手が震えた。
ふ、と浅く息を吐く音で、笑われているのだと気づく。
「我を忘れてしまいました」
もう仕方がない、と繕わずに言うと、今度は大きく吹き出した。
「……ふ、ははは」
「どうぞ笑って下さい……」
「いや、あまりに正直だから、つい……ふ」
「あんなに身体が軽かったのは初めてだったもので、感動すらしました」
さらに言うと、また笑う。
震えが伝わってくる手を見ていると肩の力が抜けた。自分のした愚かな行動を笑ってくれる彼に救われる。
「はあ、いつもドレスでよく動くと思っていたが。そうか。シダはああなることを予見してたのか」
「そうらしいですね。止めようとして下さって、ありがとうございます」
「ああ、それだが」
彼は笑い終わって呼吸を整えると、私の手をとんとんと叩いた。
「俺も本気だった。だからさっき謝ったんだ」
「本気できて下さったのは嬉しかったのですが」
「……そうか」
「笑うならちゃんと笑って下さい」
「うん、いや、うん……ああ、そうだ。いつもと違ったのはどうしてか、好奇心から聞きたい」
「いつもと、と言いますと」
「着ている物が違うから、瞬発力や反応速度、剣の可動域まで変わるのは何となくわかったんだが、いつもの無効化させる力が段違いだった」
彼は相変わらず私の手を離さない。
視線をあげると、子供のように考え込んでいた。私の我を忘れた行動を思い出しているらしい。恥ずかしい限りではあるが、答える。
「説明するのは難しいのですが……手入れをきちんとしている真剣はどの角度で受ければどれくらい滑るのか体感として知っているので、そのせいかもしれません。特にあなたは、祖父の剣筋に似ていたからかもしれませんけど」
「なるほど。そうか」
彼はおもむろに私の両手を持ち上げた。
「こんなに綺麗で小さな手なのになあ」
感心している。それが、妙に照れくさかった。
「それで」
手をお互いの目線に持ち上げたまま、彼は目を細める。
「君は勝ったわけだが、本当はなにを望む?」
「……一緒にドージアズへ帰って下さい」
「もちろんそのつもりだ」
ありがとう、と絞り出せば、彼の晴れた空のような笑みが返ってきて、緊張はほろりと崩れ、思わず視界が滲んだ。




