愛着
あれから一ヶ月半が経った。
毎日が恐ろしく穏やかで、静かで、つまり何もない一日が重なっていった結果が、この一ヶ月半だった。
隣国、ソラシオスの情勢は耳に入ってくる。
賊の討伐はたった二週間で終えたことも知っている。一掃するのに容赦なく、鬼神達が平和の中で溜めに溜めていた鬱憤を晴らすがごとく剣を振るったらしいことも。
しかし、夫は帰ってきてはいない。
二週間で隣国の混乱を収めてきた英雄らは凱旋パレードらしきことをしたらしいが、私はというと、屋敷から一歩も出ずに、書斎で書類を捌いていた。窓から賑やかな喧噪が風に混じって入ってきたが、私は手を止めずに私の仕事を続けた。
予感があったのだ。
「こりゃ帰ってこねえなあ、と」
私は口が少々悪い声の主をちらりと見上げた。
にっこりと笑って、アンナが小さな菓子を摘む。
一段落付いたら、こうして二人でサンルームで休憩をするのがいつの間にか日課になっていた。アンナによる「強制的休憩」らしい。
「帰って来るのは、来るでしょうけど」
「ふうん。もうドージアズに帰国して一ヶ月ですよ」
「そうね」
「もう少し怒ったらどうですか?」
「アンナが怒るのね」
思わず笑うと、むうっとした目が私を睨んだ。
どうやら、なにもアクションを起こさない私にも、私を放っておく夫にも、怒っているらしい。
「ええ。怒りますよ、私が。グレース様の代わりに」
「時間がいるのよ」
「……余所で遊んでいる、とは思わないのですか」
「そういう人ではないわ。アンナが知っているように」
「意地悪で言いました」
「ふふ。ありがとう。私が好きだと言ったから、帰れないのよ」
がちゃん、と音がしてアンナを見ると、慌てふためいてクッキーの皿を抑えていた。どうやら落としそうになったらしい。
「え」
「あら、大丈夫?」
「だ、大丈夫です。グレース様、旦那様に告白なさったのです、か」
「そうよ。とっても困った顔をしていたわ」
「……なるほど」
「なによ?」
「いえ、ほら。離れるなら今だ、と言っていたので、もう心も離れてしまったのかと」
「ああ」
私は紅茶を飲む。
ここでアンナに弱音を吐いた覚えがあった。
『元々私を追い出すつもりだったようだし、私が彼の興味の琴線に触れなければこうして過ごすこともなかったと思うわ。私が彼を拒否したから置いているに過ぎない。狩りをしているだけよ。大人しい餌や、自ら餌になりにきた者はどうでもいいんだわ』
「……反応が面白いから遊んでやっていたのに、大人しくなった餌が自分からやってきて好きだと言い出した。庭から出ることになった獣は、その庭に戻ってくるかしら?」
単純な話、そう考えたときに「帰ってこないわね」と思っただけのことだった。
アンナが眉間にしわを寄せて黙っている。
同じように考えているのだろう。
私はふっと力を抜いた。
「あの人は獣だけど、子供のような人だわ。変に誠実で、周りをよく見て、自分の身の振り方を考えている。狡猾なほど冷静にいられるくせに、どこかで変に真っ直ぐなのよ」
変だと思うところが、好ましいと思うところだ、と思った。
「だから必ず帰ってくる。ただ、今は私にどう返事をすればいいのかひたすら悩んでいるんでしょうね」
「……一ヶ月もですかあ?」
うろんな目で見てくるアンナに、私は笑う。
「そ。あの人は人を愛したことがないんですって。あんなに人を慈しめるくせにね」
「は、はあ」
「達観しているのよ。育った環境かしら」
彼の育った環境は、人と人とのつながりが濃密なところだったのだろう。
領分を侵さず、敵対せず、協力し合う。
そのための処世術を、彼は幼い頃から学び、叩き込み、実践してきた。祖父が目をかけていたのなら、その能力は群を抜いていたのだろうが、おかげで彼は人に愛着を持つことができないままなのだ。
「愛情を持つことはできるのに、執着することができないなんて、難儀な人よねえ」
「……」
「なあに、アンナ」
「グレース様の包容力を今見た気がしまして、密かに感動していました」
「あらあら。私は包容力の塊よ。前に、彼によそで恋人を作ったっていいと言ったくらいにはね」
「それはそれで違うような気もしますが……じゃあ旦那様は、なにをそんなに悩んでいるんですかね」
アンナが小さく唸る。
「だって、その気がないのなら、悪いが俺は応えられない、とか言って帰ってくればいいじゃないですか。離縁もできないことは向こうも重々承知でしょう? 仮面夫婦やっていこうって言えば、グレース様が受け入れることだってわかっているはずですよね」
確かに、私は受け入れるだろう。
受け入れるしかできない。
二人で距離を測りながら、お互いの心に触れないように暮らしていくのだ。
この一ヶ月半で、その覚悟だってできた。
けれど、この一ヶ月半で確信を持つことができたこともある。
「言ったでしょう。悩んでいるの」
思わず口元に笑みが浮かぶ。
「あの人、私の気持ちに応えられないんじゃなくて、どう応えればいいのかわからなくて悩んでいるの。今までの経験上、面倒なことになるから拒絶するべきだとわかっているのにできなくて、どうしてできないのかわからなくて、戸惑ってるの」
「……それは」
「可愛いでしょう」
「面倒くさい男ですよ!」
アンナが思い切り「もー、なにそれ、全く可愛くないですよ!」と怒ってくれたので、どこか奥底にくすぶっていた苛立ちが泡のようにはじけて消えていく。
思えばこの一ヶ月、私の心は忙しかったのだ。帰ってこないだろう、やはり帰ってこない、と少しばかり落ち込み、けれどいつかは帰ってくるはずだ、と自分を慰めてみたり、そもそもなにを悩んで帰ってこないのか、とふと思ったときに、私への情があるからだ、と気づいてほんの少し舞い上がり、そこまできて、いやいや落ち着こう、帰ってくるまでは、と冷静になれた。家のことに追われていたことも助かったのだろう。
気づけば私は吹っ切れたように笑っていた。
私は、やはりあの面倒な人に恋をしているのだ。




