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 なんてあたたかいのだろう。

 そういえば、人に抱きしめられることなど、幼い頃母にしてもらって以来のような気がする。それも、こんなに大きな身体ではなかった。


 自分がまるで本当に小さな少女になったようだわ。

 知らないにおいをした、自分とは違う生き物の温度を、こんなに間近に感じるなんて。

 そしてそれが、こんなにも言いようのない不思議な気持ちを連れてくるなんて。


 いくつもの命を散らしてきたのだろうし、きっと今からも散らしに行く。

 それでも、この腕の中は何よりも安全に思えた。

 ここにいたい、と。

 

 

「グレース」


 頭に寄せられた声は低く、そして小さかった。

 少し言葉を選んでいると、背中をとんとんと叩かれる。


「……はい」

「留守の間、身体に気をつけて」

「私の台詞です」

「心配してくれるのか」

「あなたこそ」


 ふ、と脱力したような笑い声が隙間のない二人の間に泳ぐ。


「もう怒っていないのか」

「最初から怒っていません」

「いいや。怒っていた」


 彼が笑う。

 恐ろしいほどの包容力だ。そのくせ、近づきすぎると牽制してくるのだからタチが悪い。

 そもそも彼の思う「近すぎる距離」とはいったいなんなのだろう。

 これは近くないのだろうか。


「正しい距離に戻ろうと思っただけです」


 少し腹が立ったので、ぶつけてみることにした。

 私が何を思っているのか、彼には本当にわかっていないのだ。


「正しい……?」

「そうです。あなたのお飾りの妻であれるように、正しい距離に。あなたもそうであれと仰ったので」

「……ああ」


 ぐっとうなだれたのか、肩にずしりと重くなる。


「いや。ああ、うん」


 曖昧な言葉が苦々しげに肩で呟かれる。

 そのとき、控えめなノックが響いてきた。


「……出立のご準備が整いました。下でお待ちしております」


 アンナだ。

 ということは、本当にもう出る時間になったのだろう。


 私がそっと身体を離そうとすると、彼は深いため息を付いて一度深く抱き留めてきた。

 さっきまで手加減されていたことを知る。ついでにすりっと顔をすり寄せてきたので、まるで大きな犬のように思えて、私はことんとそっちに頭を傾けた。腕がゆるんだので、ついでに左手を伸ばして指先で頭を撫でる。


「いってらっしゃいませ」

「……」

「いってらっしゃいませ」


 返事がないので念を押すように言うと、私を包んでいた腕が脱力した。

 そっと押し返すと、彼が私の手のひらを握る。


「下で見送りを頼めるか」

「わかりました。すぐに支度するので、先に降りていてもらえますか」


 私が言うと、彼は少しだけ不思議そうにして、それから私の格好を見るとようやく腑に落ちたように手を離した。寝室にいる姿を使用人の前でさらすわけにもいかない。


「下で待っている」

「はい」


 寝室から出て行く背中を見送り、簡単に着替えて少し息をつく。

 怒濤の一日だった。

 感情がこんなにもあっちこっちに揺り動かされたのは初めてかもしれない。よく知らない男と結婚することになったときでさえ落ち着いていられたのに。


「……よく知らなかったからだわ」

 

 彼のことを知らなかった。

 けれど、知ってしまった。好ましいと思ってしまった。ちぐはぐな印象を持つ、獰猛な獣のようで、幼い少年のような、私の夫。愛を知らないと言う、もう離れることのできない相手。

 あの人は私にどうしてほしいのだろう。

 適切な距離でいようとすれば「嫌だ」などと言う。そのくせ自分は私のことは特別でも何でもないと言ってのけるのだから、やっぱりよくわからない。


 正しい距離も取れそうにないのなら、私ができることは一つしかないのかもしれない。

 

 私はクローゼットの扉を思い切り開けた。







 下へ降りると、使用人たちがきちんと整列をして彼の見送りをしていた。

 アンナが私に気づき、深々と頭を下げる。彼の迎えに来ていた騎士が私に気づいて、アンナと同じように頭を下げた。


「お嬢様。遅くに邪魔をして申し訳ありません」

「久しいわね、ジェイ。顔を上げてちょうだい」


 声をかけると、よく父の迎えに寄越されていた顔見知りの騎士は朗らかな笑みを浮かべて私を見つめた。若く見えるが、彼は童顔なだけで決して若いわけではない。そして父が信頼する腕を持つ、騎兵隊の隊長だ。


「あなたがお迎えに来て下さったの?」

「ええ。お父上様から、新婚の夫を奪う役目を賜りました」

「面倒なことを押しつけてごめんなさい。気にしないで、とお父様にお伝え願えるかしら」

「はい。あの人は一人娘であるお嬢様から嫌われるのを心底畏れていますからね、ああ見えて。しっかり伝えさせていただきます」

「……知り合いか?」


 彼が私を見る。

 なんでそんな拗ねた目をするのかわからない。ジェイは彼を見て目を丸くしたかと思うと笑いをかみ殺しているし、使用人たちにも囲まれているのに、むすっとされていてはかなわない。

 アンナがさっと人払いをしてくれた。こほんと咳払いをし、恭しく頭を下げる。


「旦那様、使用人一同お帰りをお待ち申し上げております。屋敷のことはお任せ下さいませ」

「グレースを頼む」

「心して」


 アンナは顔見知りであるジェイにも軽く会釈をして、さっとその場から離れた。


「では、行こうか。キリ」

「はい」

「お嬢様、少しこれ借りますね」


 ジェイに言われ、私は何も言わずに頷いた。察してくれたのか、ジェイは「門で待ってる」と彼に告げると足音一つ立てずに出て行った。


 私は握りしめていた右手を差し出す。

 彼が左手を私の手の下にそっと出したので、彼の手にそれを落とした。


「これは」

「ええ。この間のスゴロクの、私の駒です」


 小さな白い猫が彼の傷だらけの手のひらの中で横たわっている。




「あなたが好きです」




 私にできることの一つ。

 離れることができないのなら、私からぶつかっていくしかない。


「私の気持ちが迷惑ならば、戦地で捨ててきて下さいませ……ご無事を、お祈りしております」


 腰を曲げ、深く頭を下げ、美しい礼で送り出す。

 返事は何もいらない、と言うことが伝わるといい。


「いってらっしゃいませ、キリ様」




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