臆病
「今日の勝負はチェスにいたしましょう」
私がにっこりと笑うと、夫は訝しげな顔で私を見下ろした。
アンナとサロンで話をしている間に、彼はふらりと屋敷からいなくなっていた。夕食の時間にも戻らなかったので、私は一人でさっさと食事をすませ、彼が深夜に戻ってくるのを待っていた。出迎えなどする気分ではなかった。私が寝室のテーブルで待っていたことに彼は酷く驚き、そうして、私が今日の勝負として出したチェスを見て、顔をほんの少し険しくしたのだ。
「待たせてすまない」
それでも気遣いの言葉を使うところが彼の「変」なところだ。
「いいえ。勝手に待っていましたので」
「……それでももっと早く帰るべきだった。実は」
「誰とどこにいたかなど聞いておりません」
椅子を引いた彼がぴたりと止まる。
「怒っているのか」
「全く」
「そうか」
「ええ、そうです」
視線を感じながらも黙って用意をする。
駒を並べ終え、無言のままチェスがスタートした。ことん、と一つ駒を動かすたびに沈黙が重く垂れ込む。
しばらく手を動かしていて、わかった。
やはり彼は飲み込みが早い。
初めてした時が遙か昔に感じるほどだった。駒の動きは全て的確で無駄がない。迷いすらしないその手は腹立たしく感じるほどだった。
わざと負けるつもりだったけれど、妙な小細工をしなくても負けることができそうだわ。
ただ、勝ちたい欲さえ抑えててしまえばいい。
こつんこつんと駒が無表情に動いていく。
あっという間に、そのときは来た。
「チェックメイト、だったか」
彼が言う。
私は頷いた。
「ええ。チェックメイトですね。負けました」
「グレース」
「片づけは私がいたします」
片づけに伸ばした手を、バッと掴まれる。
顔を上げずに、私は「なんでしょうか」と返した。手がゆるんだのでふりほどく。
「わけがわからない」
「私が負けただけです」
「勝つ気がなかった」
「何を怒っているんです」
声に若干の苛立ちを感じた私が苦笑して言うと、彼はテーブルをぐるりと回って私の前に立った。柔らかい力で両腕を掴まれる。
「怒っているのは君だ」
怒っているのではない。少し悲しいだけだ。間違えた自分が愚かで、近くなっていた距離を離さないといけないことが、負けたことが、結局それも見抜かれていることが、悲しいだけだ。
彼を待っている間に、今までのことを思い出して心が揺れたことが、悲しいだけ。
頭を撫でてもらったことを、無意識の中で何度も反芻していた自分が、馬鹿だと思っているだけ。
「初夜を」
私は呟く。
「約束通り、初夜をいたしましょう」
両腕を握る手が一瞬強ばった気がした。
私はそのままの勢いで言う。
「そうして離れに置かせて下さい」
「嫌だ」
怒りを沈めた声が頭上から降ってくる。顔を上げられない。声の力強さに反して、腕を掴む力はどこまでも優しい。
「どちらも嫌だ」
きっぱりと言われる。
どうしてわかってくれないのだろう。
私のことなど特段大切にしているわけじゃないと言っていたくせに、どうしてそんなことを言えるのだろうか。狩りの駆け引きのつもりなのだとしたら、きっと私には手に負えない。
意味も気持ちもない、ただの妻への対応ならば別にいらない。
勘違いをしてしまうような上辺の優しさなんて。そんなことをするくらいなら「おまえなどお飾りの妻だ」という態度の方がマシな気がした。
「グレース」
「離れが対外的に駄目だと仰るなら、使用人の部屋で過ごさせていただきます」
「グレース」
「あなたの領分を侵さず、敵対せず、協力し合うためです」
「……」
一瞬の沈黙。
しばらくして、彼は浅いため息を吐いた。
呆れられただろうか。
情けない考えが過ぎる。そんな自分が嫌だった。こんなに心が揺れたことはない。こんなに、弱々しく相手の反応を気にするなんて私らしくない。
「俺と離れたいのなら、別の部屋を用意する必要はない」
彼が静かに言葉を落とす。
「仕事になった。隣国のソラシオスへ一ヶ月ほど」
「……一ヶ月?」
思わず反射的に顔を上げて見た彼の表情は、なぜか悲しげだった。
無表情に見えるが、その瞳の奥が寂しげに静まりかえっている。
私は目を離せない。
考える間もなく、口を開いていた。
「ソラシオスは……今、情勢が」
不安定だと聞いている。賊が住み着いて勢力が拡大し、町に被害が出つつある、と。国が討伐に出ないのは、勢力の拡大に貧困問題が絡んでおり、不遇の民を国が力で抑えることでさらなる反感を買わぬ為だということだが、ドージアズに討伐の依頼が来たのならもう差し迫った混乱が起こっているのだろう。
しかも、一ヶ月もの長期で、この国に来たばかりの彼を使うほど。
危険でしかない。
「……いつからですか」
「あと一時間後には」
「申し訳ありません。余計なことをしました」
勢いよく頭を下げる。
両腕を掴まれたままで不格好だが、恥ずかしくて顔を上げていられなかった。
緊急召集されていたのだ。そうして支度のために数時間与えられ帰ってきた夫に、私はチェスを仕掛け、初夜をしろと迫り、そして妻の役目を放棄したいと怒って言った。
あまりの恥ずかしさに、幼稚さに、子供のように目頭が熱くなる。
「出立の支度を」
「アンナと使用人たちがしてくれている」
「手伝って参ります」
「いいから、ここに」
両腕を強く握られる。
情けない。自分が情けなくて仕方がない。
「……すみません」
「いや」
彼が、ふう、と息を吐く。
「君の言うとおりだ」
声は真っ直ぐに私に刺さった。
「俺は臆病らしい。君を抱き寄せたくてもできない」
「……手を、離して下さい」
ゆっくりと、惜しむように手を離される。最後に指先で腕を撫でられ、私はそのまま一歩前に踏み出した。ゼロ距離になった彼の胸にぽすんと頭を預ける。
ほんの少しだけ硬直した彼は、しかしすぐに「ふっ」と安心したように笑って、私の身体を包み込んだ。
その声を聞いて思う。
臆病なのは、私だったのだ。




