正しい距離
戻ると、アンナはサンルームに休憩の用意をしてくれていた。
開け放たれ、さわやかな空気がふわりと入ってくる中に甘い匂いがほんのりと混じっている。アンナは私だけが帰ってきたのを見て、すぐに苦笑した。
「駄目じゃないですか、グレース様」
「いやね。殺してなんかいないわ」
真剣を持って手合わせに行ったことを知っているアンナのからかいに軽く乗っておく。
ころころと笑うアンナは、私を座らせると紅茶を注いだ。
「では喧嘩でもなさったのですか」
「いいえ」
「まあ、怒ってらっしゃる」
「呆れているのよ」
「それはまたどうして」
「アンナも座りなさいな」
「私がですが?」
目を丸くしたアンナに、早くなさい、とちょいちょいと指で示す。慣れたアンナはさっと私の向かいに座った。夫のために用意していたであろう席で、あっさりとくつろぐ。
自分の分の紅茶を自分で注ぎ、私よりも先に一口。アーモンドクッキーを摘んで「で?」と聞いてきた。一緒に座ってお茶をするときは幼なじみの友人になってくれるアンナに感謝を示しつつ、私もカップを持つ。
「呆れているの」
「あの清廉潔白そうな旦那さまに?」
「精錬潔白……?」
「聞けば聞くほどあの人無欲ですもの」
「どこで聞いてきたのよ」
「そりゃ、あなたの実家ですよ。血気盛んな男共の中でも諍い一つ起こさない、むしろやわらかい統率力があってみんなをまとめ上げていて、それでいて出世欲がないから安定感があるって、あなたのお父様は大変気に入っていますよ。訓練は黙ってこなしているし、不調の者にもすぐ気づいてフォローする上に、酒に強くて、女遊びもなさらないときた。私が見ている限り、かなり大切に扱われていますよ、グレース様は」
「違うのよ」
私が言い切ると、アンナは「へえそうですか」とやや投げやりに返事を寄越してくる。
どうしたらうまく伝わるのだろうか。
確かに、外の面ではアンナの言うとおりの人かもしれない。父が私に嫁げと言うくらいなのだから、いろいろと優秀なのは間違いない上に、祖父が関わっていたらしいので所作教養ともに悪くもない。
けれどそういう表面的なところではなくて。
「私、彼と勝負しているの」
「聞き及んでおりますので詳細は結構です」
びしっと手のひらを向けられる。
「誰から?」
「ユーリ様から」
「ああ」
初めて手合わせをしたときに、そういえば初夜のことも含めて話していたので、聞いていたユーリはその辺りを察してくれたのだろう。こちらに来ることになったアンナに話してくれているのなら、話を省けてありがたい。
「つまりそういうことでね、毎夜勝負をしていて私は無敗なの」
「えーと」
「私がふつうに強いわ。おじいさまに鍛えられているもの」
「自分で言っちゃうところが素敵です」
「手加減はしていないと言っているけれど、でもきっとそうじゃない気がする」
私が呟くと、アンナは首を傾げた。
「手抜きするタイプには見えませんけどね」
「きっと自覚していないのよ」
「ふうん。どういうところを見てそう思ったんです」
紅茶もクッキーもおかわりをしながら、アンナは私に振る。
聞き役に徹してくれるらしい。
「さっき」
「はい」
「さっきね、彼を褒めたの。ただ純粋に、素晴らしいと思ったところをふつうにね。けれど、すぐに線を引かれたわ。私は別に踏み込んでもない。少し寄り添っただけでその反応よ」
「冷たくされたんですか」
「いいえ。とてもスマートな拒絶だったわ」
「よけい嫌ですねえ」
「臆病な人」
サンルームに風が吹き込む。
「元々私を追い出すつもりだったようだし、私が彼の興味の琴線に触れなければこうして過ごすこともなかったと思うわ。私が彼を拒否したから置いているに過ぎない。狩りをしているだけよ。大人しい餌や、自ら餌になりにきた者はどうでもいいんだわ」
「……」
「どうしようかしら」
私は呟いていた。
「彼が私に踏み込んで欲しくないのなら、さっさと彼の庭から退散すべきよね」
毎夜の勝負を楽しんで、徐々に理解して、心を解かされていきながら相手に拒絶されるのと、相手を知らずに仮面夫婦に徹するのなら、どちらがいいのだろう。
「グレース様」
「離れるなら今だわ。あの人はこの国で私がいなくてもやっていけそうだもの」
「グレース様」
怒っているんですね、とアンナが消え入りそうな声で言う。
君の領分を侵さず、敵対せず、協力し合うためのものだ。意味などない。
彼が私に向ける「全て」がそうだから、勘違いをするな、と言われたのだ。
近づくな、と言われたことが酷く腹立たしく、そしてつまらなかった。夫婦として寄り添おうとしたわけではない。けれど彼は私の言葉など不要とした。彼が求めている「妻」は「私」でなくともいいのだろう。私は、彼の「妻」は「私」でないと務まらないと思っていたけれど。
「距離を間違えたわ。必要とされる姿を見誤った、私のミスね」
あの初夜の日に自分の意志など関係なく抱かれ、そして離れに追い出されておくべきだったのだ。
祖父の「小さな分身」だと、容赦なく剣を振るうことも、毎夜の勝負を「遊ぶ」と言うことも知らず、ただお飾りの妻でいればよかった。
それが正しい「妻の姿」だったんだわ。
どうせ離縁などできはしないのだから、正しい距離でいるべきだった。
心が何も感じない距離。
彼を変だと思うところは、好ましい、と思っていたところだと今更気づく。
遅い。
私がいくら彼を好ましく思おうと、彼には私など不要なのだ。
人を愛したことがないと言っていたけれど、そうじゃない。
人を愛する気がないのだ。
何も言わなくなったアンナを前に、私は冷め切った紅茶を飲む。
少し、苦い気がした。




