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 朝食をともにして、書斎にこもって今日の分の書類を捌く。

 夫は私のあとをずっとついてきている。

 気づけばさりげなく手伝っているので、私は何も言えない。わざとらしく「手伝うよ」とでも言ってくれれば「ありがとうございます」でも「大丈夫ですから」も言えるというのに、どこまでもよくわからない人だ。

 

 しかもなぜか楽しげに、ソファでくつろいでサインをしていく。

 アンナの用意した紅茶に時折手を伸ばし、ぺらぺらと紙がめくられていく音が響いた。


「すまなかった」


 突然、そんなことを言う。

 私は書類に目線を下げたままとりあえず返事をした。


「なんのことでしょう」

「朝食の席のことだ。つい癖で朝に仕事を。君と話すべきだったのに」

「はあ」


 思わず適当な返事をする。

 話も何も、食事の時に和やかな会話をしたことなどない。さっさと食べて支度するのが通常だ。

 そう言えば会話らしい会話は、夜になって寝室で勝負をしているときくらいかもしれない。


「お詫びに、これが終わったら手合わせでもどうだろう」

「お詫びですか」

「そう。好きなだけ打ち込んでいいぞ」


 ぱっと顔を上げる。

 私が食いつくのをわかっていたように、彼はにっと笑っていた。


「君はいつも人の相手ばかりだったろうから、今日は俺が君の剣を受けるよ。俺なら心配ないだろう?」

「……ええ、まあ」

「よし。そうきたらさっさと終わらせよう」

「そうしましょう」


 俄然やる気になった私が再び書類に視線を落とすと、ふわりと笑っている声がした。


「ところで」

「はい」

「多くはないか?」


 何が、と聞く前に、ようやく彼の意図がわかって脱力する。

 最初から、私に回した仕事が多くてすまない、と、だからこうして手伝っているだけだから気にするな、と言えばいいのに。


「多くありませんよ。全く。いつも時間が潰れてちょうどいいくらいです。まだまだこちらに回しても構いませんが」


 彼がくすくすと笑う。


「ありがとう。君に任せられるものは全て渡してしまったから大丈夫だよ」

「そうですか」


 本当に妙な人だわ。

 私は少々呆れながら、ペンを走らせる速度を自然と上げているのだった。







「ですから」


 ふっと息を吐いて、剣を上から真っ直ぐに振り下ろす。

 彼は軽い動きでそれを受け止めた。

 キィン、と金属音が庭に響く。


「旦那さまのその細かな心配りというか、気遣いは、変です」


 今度は左からすくい上げるように。止めたいところできちんと受け止められるので、ひたすらただ打ち込んでいくのが気持ちいい。

 夫と言えば、私の打ち込んだ剣を止め、そうして軽く引く。私が再び剣を振るえるように。稽古相手としては中々ありがたい相手だ。所作が軽くて美しいので、剣舞のようにも見える。


「変か?」

「ええ、変です」


 剣を振るいながら、どうしてかこんな話に行き着いた。

 最初は「意外と受けるだけの剣もできるんですね」ということだったような気がする。

 ただただ剣を振るうのが好きな人だと思っていたので、大人しく受けるだけでいてくれるのが不思議だったのだ。そこから「あなたが変です」に変わったような気がしないこともない。


「君の方が変だぞ」

「どうしてですか」

「真剣で相手をしろと言うなど狂気の沙汰としか思えない」


 キンッと剣を優しく押し戻されて、両手でぎっちりと握ってもう一度打ち込む。

 私が振るっている剣は一つ。二つの剣のうちのもう一つは今彼が手にしている。私のために祖父が用意してくれた細身の剣なので、彼が持つとまるで細い針のようだ。可愛らしすぎて面白いことは黙っておいた。


「あら、だってあなたのレプリカはここにないでしょう」

「木の棒でも何でもいいんだが」

「切ってしまわないか気にしながらでは打ち込めませんから」

「本気だな」


 屈託なく笑いながら相手をしてくれるのが、また「変だ」と感じる。

 

「またその顔をしてる」

「? なんですか」

「変だって書いてあるぞ」

「まあ」


 ガッと一歩大きく踏み込む。今日はヒールを脱ぎ捨てているので、足の軸への力のかけ方も遠慮しなくていいのが嬉しい。ひときわ大きく金属音が庭に響くと、彼がなぜか嬉しそうに笑った。


「いい踏み込みだ」


 ふっと黒茶色の長髪が揺れる。


「また。変か?」

「ええ。よくわかりましたね」

「君は意外と顔によく出る。見ていて飽きないよ」

「そうですか?」

「ああ。何か聞きたいことは?」

「そうですね……あなたの気遣いはどうやって培われたのか聞きたいで、すっ」


 前へ、前へ、ただ振る。

 剣を振りながらだと、なぜか身構えずに聞くことができた。


「森での暮らしは意外と大変だったんだよ」

「どう大変なんですか?」

「前に言ったように……っと、少数民族が森の中にそれぞれの地区を作ってくらしてたからな。それぞれの領分を侵さず、かといって敵対せず、適度に協力し合うにはバランス感覚が必要なんだ。いわゆる処世術がない奴は生きていけない特殊な世界だったんだろう」


 軽く受け止めながら、思い出すように言う。

 懐かしんでいるのか、その顔は柔らかくて「大変だ」というのに愛おしんでいる表情だった。そこに残してきたものは、彼にとって大切なものなのだろう。


「あそこに比べれば、ここはシンプルだ」

「ドージアズがですか?」

「そう。強ければいい。それだけだろう」

「そうですね。でもそれは、あなたの育った環境で得たもののおかげだと思いますよ。あなたは聡い」


 私が言うと、彼は「おや」と私を見下ろした。


「褒められたのか」

「ええ」

「俺が君に気遣いをしていると思っているのなら、それは気にしなくていい。ただ単に面倒なことが起きぬよう、自分のために気を回しているのが癖になっているに過ぎない。君の領分を侵さず、敵対せず、協力し合うためのものだ。意味などないよ」


 線を引かれた。

 そんな気がして、にこやかに言う夫の顔を見上げた。

 

 今まで狙わなかった首筋に剣を突き立てる。


「ずいぶん臆病なのね」


 すっと剣を引き、私は呆けている彼に向かって微笑んだ。


「本当に変な人」


 さて、アンナにお茶でももらおう。

 私は反応しない夫を庭においたまま、さっさと屋敷に一人戻るのだった。

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