朝
ふと、目が覚めた。
静まり返った空気の中に、やわらかな朝日の気配を感じる。枕に日が射し込んでいるのか、ぽかぽかと気持ちがいい。そこに、いつもと違うふわりとした花の香りが残っていて、そう言えば昨夜アンナに香水をつけられたことをぼんやりと思い出した。
徐々に意識が浮上してくる。
ああ、よく寝たわ。
やっぱりベッドはよく眠れる。それに、寝付きも良かった。緊張していたはずなのに。
そろそろ起きなきゃ、と左に寝返りを打った瞬間、私は思いっきり目を覚ました。
「!」
思わず息を詰める。
夫が眠っていた。
寝息も立てず静かに横たわっている様は、生きているのか確認したくなるほどだった。白いシャツの胸元が上下しているのを見てほっとする。
シーツの上に散らばる結った黒茶色の髪。
薄く開いた唇と、伏せられた長いまつげ。
その顔に差し込む朝日。
彼の姿形が美しかったのだと言うことに気づく。
私はそこから動けず、なぜか息を潜めて彼を観察していた。腹の上に置かれた傷だらけの手や、投げ出された足、私とは違う骨の太さに、男と女というものは別の生き物なのだと今更ながらに実感した。
起きているときと違って、彼はまるで青年のように健やかだ。
無垢で無色。
私の知らない男が、同じベッドに眠ってているのは妙な感じがする。
……眠る?
どうして眠っているのかしら。
いつもは朝が明けると同時に起きて支度をして出て行っているというのに。
ふと「遅刻だ」と気づいた私は慌てて起きあがると、彼に声を掛けた。
「あの」
反応がない。
「あの、旦那さま、お仕事は」
少し大きめの声で再び起こそうと試みるが、まつげ一つふるえない。
肩を揺らそうとつい手が伸びそうになったところで、境界線が目に入った。昨夜彼が伸ばした手を止めた境界線は少しも乱れていない。
どうしよう。
「旦那さま」
何度も呼びかけるが全く起きる気配がない。
ああ、もう。
「キリ様!」
ぱちりと切れ長の目がまん丸く開く。
「あの、お仕事なのでは?!」
「……今日は……休みだ」
「休み……?」
「休み」
「それは……失礼しました」
「いや」
ぼんやりしたまま目を擦る彼の前で、恥ずかしさのあまり小さくなる。
休みの夫を叩き起こしただなんてあまりにも滑稽な妻だ。
「悪い。俺が伝え忘れていた」
「え?」
私が身を小さくしているのに気づいた彼が、のそのそと起きあがって言う。
ベッドの上で二人とも座り込んだまま向き合う形になった。あぐらの彼が頭をかく。
「言わなければと思っていたのだが、君と遊んでいて楽しくて忘れてしまった。つい」
「……すみません、お休みのところ」
「気にするな。それにしてもずいぶんよく眠れた」
「そう、ですか」
「ああ」
ぼんやりとしている彼が朝日に照らされる。
真っ白なシャツが輝き、とてつもなく無防備だった。
「眠りは浅い方なんだ。朝日にもすぐに反応して目覚める。こんなに眠ったのは初めてだ。これ以上寝ていたら逆に身体が辛くなっていたかもしれん」
私のための気遣いではなく本当に心からそう思っているのが、その表情から伝わってくる。何度か首を傾げ、眩しそうに朝日を見ていた。
「朝寝坊もいいな」
「……ありがとう、ございます」
「大丈夫だよ」
くすくすと笑って、彼が手を伸ばした。
頭を撫でようとしたのだろう。しかし寝ぼけながらも境界線を思い出したようで、すとんと落とそうとした。
落とそうと、した。
なぜかわからないが、私はその手が引っ込められると思った瞬間、頭を差し出していたのだ。
ぽんっと無骨な手が私の頭の上に着地する。
「……」
「……」
しん、と静まりかえる。
頭が真っ白になる経験など初めてだった。
何か。
何か言わなければ。
でも何を? 私だってどうしてこんなことをしているのかわからないのに。
どうしよう。どうし……
ぐしゃぐしゃぐしゃっと、手が乱暴に私の頭を撫でる。
撫でるというよりも、混ぜっ返すような手つきだ。
「だ、だんなさま」
「……ふ。ははは」
カラッとした笑い声が頭上から振ってくる。
嬉しそうな、くすぐったそうな、子供のような無邪気な笑い声だ。私をからかっているようなそれではないことに、少しだけ安堵する。そうして、何かがわき上がるように私までおかしくなってきた。
「……ふふ」
私が笑うと、もっと豪快に撫でられる。
「わっ」
「なあ、そういえば、さっき名前を呼んでくれたような気がしたのだが?」
「気のせいです」
冗談をよこしてくれたので、同じような温度で返すと、彼が再び力が抜けたように笑う。
最後にぽんっと頭を軽く撫で、手を離した彼はそのまま伸びをした。
「さて、そろそろ起きるか」
私が頭を差し出したことをなかったことにしてくれて、ベッドから降りた。
あまりにも自然で、そしてスマートだ。感心してしまうほどに。
これで「人を愛したことがない」などと言うのだから、よくわからない。私から見れば、人を慈しむことができる人だと思う。孤高で獰猛である中にも、情に厚く、懐が深い感じが隠し切れていない。
彼が「人を愛する」と自覚した時にはどうなってしまうのだろう。
きっと、どこまでも愛情を注ぐに違いない。
そしてそれは誰なのだろう。
見知らぬ相手に、彼が惜しみない愛情を渡す。
「不思議な人ね」
私がベッドの上で呟くと、彼は私を見てまた笑った。
「君の方が不思議だよ」
と、子供のように。
私は、彼が誰かを愛すところが想像できなかった。
彼を信頼しているのに、人を慈しむことができると知ったのに「隣の誰か」を全く想像する事ができなかったのだ。




