眠り
絶対触れない。
さらりと言われた言葉に反応するのが遅れた。
あまりにも自然で、下心が一切ない「明日は晴れそうだな」くらいの温度で言われたからだ。
彼は私の表情などちっとも見ずに続ける。
「君にベッドを譲ればいいんだが、俺もソファではじっくり眠れない。俺は君のと約束を守って触れないし、あのベッドならお互い離れて眠ることもできるだろう? なんだったら俺の手を縛って寝てもいいが」
「私がソファで」
「それは却下だ」
「どうしてですか」
「身体によくない」
もっともだ。
あまりにきっぱりと言われると言い返せない。
反論できない私を見て、彼は大きく頷いた。
「決まりだな」
片づけを終え、テーブルの真ん中に木箱を置く。
頭にかぶっていたタオルを引き抜くと、私に渡してきた。
「なんですか?」
「手を縛ってくれ。自分じゃできない」
「……」
本気で言っていたらしい。私はタオルを押し返した。
「結構です。そんなことをするくらいならソファで寝るのと変わらないわ」
「いいのか?」
「ええ。私の相棒も隣に置いておきますし」
いつもソファに立てかけている二本の剣を指さすと、彼が屈託なく笑ってタオルを引っ込めた。
「確かに。君は強いし、心配無用だった」
「あなたは約束を守って下さる人でしょう」
「もちろん」
「なら問題ありません」
私がソファから剣を二本持つとベッドへ行き、左側に座って剣を立てかける。
「ああ、そうだ。これ真ん中に置いとくか」
彼が私のブランケットを見せる。そうして、綺麗に折り畳んでベッドに境界線を作りはじめた。その姿に思わず笑ってしまい、妙に緊張していたどこかが解れる。
ああ、緊張していたんだわ。
何でもないふりをしたけれど。
彼は満足げに境界線を完成させて、私に見せた。
「少しは安心できそうか?」
「……はい」
「笑ってるだろ」
「はい」
私が頷くと、小さく笑って横になった彼が境界線をとんとんと叩いた。
私もそっと寝そべる。目を瞑っている彼の横顔を盗み見ていると、言いたかった言葉が今なら出てくる様な気がした。
「……ありがとうございます」
「なんのことだろう」
「アンナのことです。私のために呼び寄せて下さったとか」
枕に頭を沈めた彼が、優しく笑う。
ずっとこれを言いたかったのだが、どうしてか言えなかった。
どうして今言えたのだろう。
強いて言うならば、私たちの勝負が終わった後のほんのひとときの間だからかもしれない。
私も彼ももう眠るのだ。
その間の、無防備な一瞬。
「アンナを連れてくること、お父様がよく許しましたね」
「ああ……外に嫁がせたのなら一から関係を構築して主となるべきだ、とずいぶん頑なだった」
「でしょうね」
「だが、心配もしていたんだろう、君のことを。十二杯飲んだところで、首を縦に振ってくれたぞ」
「まあ」
酒豪の父とそこまで一緒に飲めるだなんて、と苦笑した私を、視線だけでちらりと彼が見た。
目が合う。
穏やかな目だった。ただ静かに横たわっている、無防備な獣のように。
胸のどこかが妙な音を立てた。
誤魔化すように言葉が勝手に口から滑り出す。
「……あの、ずいぶん飲んでいらした日ですか。手合わせをした日の夜」
「どうだったかな」
「追加の訓練で遅くなったのかと」
「それは時間内に済ませた。それが生意気だからと酒の席に連行されたんだよ」
「なんて言いがかりかしら……」
自分の父ながら横暴でわがままだ。
しかし、夫も相当お酒に強いらしい。どちらにしてもお酒でも強さを競おうとするのだからどうしようもない。
私が呆れると、伝わったのか彼もくすくすと笑う。
「アンナが隣にいると、君の表情が明るい」
「……そうですか?」
「そうですよ」
また目をうっすらと閉じる。
「君の表情が明るいとほっとする」
最初から、彼の言葉には嘘のにおいがない。
繕うことをしないからか、嫌に真っ直ぐ刺さる。
どう生きて、どう感じてきたらこうなれるのだろう。
どこまでも自由に見える。
このドージアズという強き者が正義の国に繋がれてもなお、彼は、彼の心は自由だ。
乾いた風を持って、どこまでも行けるような強さを持っている。
ふと思う。
妻という鎖がなくても、彼はここに身を置いておくだろう、と。
なぜかそう確信が持てた。最初から、妻など誰でもいいと言い放っていた。興味がないのではなく、そんなもので繋がなくてもここからは離れないと言う強い意志があったのかもしれない。私と初夜を過ごせば追い出すつもりであったというように、ここに囚われに来たのではなく、何か目的があって、信念があって来たのかもしれない。
だったらきっと、私はいらない。
彼に必要なカードではない。
なのにどうして、私によくしてくれるのだろう。
私の言い出したくだらない約束を守り、アンナを連れて来てくれ、ベッドでも境界線を作ってまで安心させて休ませようとする。
毎夜の勝負を「遊ぼう」とふざけてくれる。
「……昨夜は考えたのですか」
昨夜、彼は私を愛しているか考える、と言った。
尋ねた私を、目を開けた彼が不思議そうに見る。
顔をこちらに向けて、じっと私の真意を探ろうとする。しばらく瞳を覗いた後、ふっと力を抜いた。
「ああ、考えた」
「……」
「わからなかった。だが」
彼はうそを付かない。
「俺は人を愛したことがないことだけは、わかった。愛そのものがわからない」
そう言った目は少し寂しげで、けれど達観していた。
私はその目から目が離せない。
飢えた孤高の獣の目。
ぞれにしてはずいぶん優しい目。
見ていたいのに眠たくて、まるで森の湖にでも引っ張り込まれるように、瞼がとろりとするのに抗うことができない。
彼が目を細めて手を伸ばしてきた。
が、頭をなでようとした手は境界線の上を通過することなく落ちる。
私はどうされたかったのだろう。
何を言いたかったのだろう。
愛しているかわからないと言った夫に、
何を。




