おともだち
「起きて下さい、グレース様!」
ごろっと身体が回転した衝撃で目が覚める。
が、覚めたと思ったのは夢のようだった。だって、この声はアンナのものだもの。私の唯一の友人である傍付きのアンナが、どうして寝室で昔のように叩き起こしてくれるのだろう。容赦なくシーツをはぎ取るあの鮮やかさが懐かしい。
私、ずいぶん懐かしい夢を見ているのだわ。
「寝ぼけてないで、起きるんです! 全くもう、嫁いでも全然変わらないじゃありませんか。妻であるのなら夫のお見送りくらいなさったらいかがですか? そういうところが可愛いんですけど」
あら。
いつもの文句の文言が違う。
私がぱちっと目を開けると、アンナの顔が間近にあった。
くりっとした美しい瞳に、可愛らしい少女のような顔つき。
その顔が、私を見て花が咲くように微笑んだ。
「お変わりなくて、嬉しいです……んぎゃっ」
思わず手を伸ばしてしがみつくと、アンナもベッドに倒れ込んだ。
嬉しくて嬉しくてぎゅうっと抱きしめると、戸惑ったようなアンナがくすくすと笑って私の肩を叩く。
「グレース様。このアンナ、参りましたよ。これからも末永くよろしくお願いいたします」
「……驚いたわ!」
「そのようですね。私も驚きました。嫁いでもなおお寝坊さんとは」
「ふふ!」
私が解放すると、優しい笑みをきゅっと引き締めたアンナは、「さて、私が来たからにはダラダラさせませんよ!」ときびきびと私を叩き起こしてくれるのだった。
朝食を終えて書斎の椅子に座ると、アンナは昨日までの倍の量の書類を恭しく渡してきた。
「お仕事でございます、奥様」
「もう、やめてちょうだい」
「はいはい、グレース様。頑張って下さいね。じゃあ私はこれで。何かご用がありましたら仰って下さい」
「待って、アンナ」
さっと出て行こうとするアンナを引き留める。
振り返ったアンナがにや~っと笑った。
「……なによ」
「ん、失礼しました」
こほんと咳払いをして姿勢を正すアンナに、私は朝から頭にあった疑問をようやく口にした。
「何を聞きたいかわかっていると思うけれど」
「はいはい」
「どうしてアンナがここに? 私夢かと思ったわ」
「それはですね」
再びアンナがにやける。
私が軽く睨むそぶりをすると、アンナは意外な人物の名を上げた。
「グレース様のそばに心おきなく話せる相手を、と、キリ様が大旦那様に直談判されたんですよ」
私は思わずぽかんとした。
その顔を、アンナが満足そうな顔で見ている。
「……ユーリではなく?」
「ではなく」
「……お父様の配慮でもなく?」
「でもなく」
「……お母様の」
「あなたの旦那様であるキリ様の配慮です」
アンナは柔らかく微笑む。
「数日前に打診を受けておりましたが、引継もありましたので遅れて申し訳ありません」
「数日前……」
「ええ。いい旦那様ではありませんか。容姿良し、気遣い良し、ユーリ様より聞く限り剣の腕も立ってグレース様が本気でお相手できるということですもの。これ以上の好物件はありませんよ。そもそも、私たちの間ではいつグレース様が相手を打ちのめして帰ってくるか賭け……いえ、心配をしていたんですから」
うふふ、と丁寧に口元を隠したが、しっかりと聞こえた。
実家の面々は、私がいつ夫を殺して帰ってくるか賭けていたらしい。
なんてことかしら。いつか強者に嫁ぐ娘として教育を受け、覚悟を持って嫁いだというのに賭けの対象にされていたなんて。
私が呆れた目でアンナを見ると、アンナは悪気無く笑う。
「みんな寂しがってるんですよ。すぐに帰ってくると思っていたお嬢様が帰ってこなくて」
「ちなみにあなたは何に賭けたのかしら」
「そうですね、一日目の晩に血濡れになって帰ってくると」
なんて、嘘ですよ、とアンナは笑う。
朗らかで夏の風のような笑みが懐かしくて、その遠慮のない言葉が嬉しくて、ひどい言葉でも思わず感極まりそうになる。
「ちなみにアリシア様は帰ってこないに賭けているので、どうやら一人勝ちになってしまいそうです」
「お母様が」
「ええ。さすがですね」
「みんな私をなんだと思ってるのかしら……」
「グレース様を尊敬し、愛しているんですよ」
「それはありがとう」
私は安心したのか、それともどっと疲れたのか、体から力が抜けるのを感じた。
そう言えばこの屋敷でこんなにリラックスすることはなかった。
使用人達はギラギラしていたし、私も気を張っていたらしい。
「まあ、ごゆっくり書類に目を通して下さい。私は屋敷にいるので、寂しくなったらお呼び下さいね」
私の心情を見抜いているのだろう。
幼なじみはやはり侮れないわ。
私がひらひらと手を振ると、アンナは笑みを残して書斎を出ていった。
私が仕事を巻き取ると宣言したからか増えた書類を捌きながら考える。
アンナは私がどう反応していいのかわからないのを察してくれてあっさりと流したが、アンナがここに来てくれるようになったのは夫が父に直談判をしてくれたかららしい。
数日前、と言っていたのを思い出し、記憶を探る。
君は? いるのか、おともだちは
そう言えばそんなことを聞かれた覚えがある。
私は「いない」と言い、彼は「ふうん」と不思議そうにしていた。
もしかして、父にわざわざ聞いたのだろうか。
どうして?
飾りの妻にそんな配慮などしなくてもいいというのに、手合わせでは容赦もなかったというのに、私を愛してもいないのに、どうして。
シダはいつも、可愛くて可愛くて仕方ないと言っていたよ。
どうして彼は、私が欲しい言葉をくれるのだろう。
「仕事もくれたけど」
私はひとり呟く。
その声は思いの外穏やかで、嬉しげで、妙な響きになって書斎にほわんと浮かぶ。
なんとなく天井を見上げ、日差しを追う。
今日は何の勝負をしようかしら。
そんなことを思う。
そういえば、それを楽しみに思うのは初めてのことだった。




