高校生の男女が、部室で本を読んだり会話したりする話
久しぶりの投稿です。よろしくお願いいたします。
窓の外からカキンという、ボールと金属バットが当たるあの気持ちのいい音がふとした。さっきから活字の海に無理矢理沈もうとしていた僕の浅い集中力は、その音のせいであっさり途切れてしまう。窓の方に目を向けると、青い空に夏らしく大きな入道雲が浮かんでいるのが見える。でも本当は窓の外を見たかったわけじゃない。僕は入道雲に見入るふりをして窓のそばに座って本を読んでいる先輩の姿を横目でしきりに窺っていた。肘を太ももにつけながら文庫本を両手で持って食い入るようにそれを読みふけっている彼女の背は少し傾いている。夏服の袖から白くて細い二の腕が見える。メガネの下にある奥二重の大きな瞳は忙しなく上下に動いている。小ぶりな唇を半開きにしながら、そして長めの前髪を時々かきあげながら、僕と違って本当に活字の海に没頭している彼女は、二人しかいない文学部員の片割れで、僕のこの16年の人生の初恋の人である。
中学生の内はひたすら勉強に打ち込んで帰宅部を決め込んでいた僕は、念願かなって県でも有数のこの名門高校に入学したところで不意に思った。僕の青春ってこれでいいのだろうか?高校受験は終わった。次は大学受験だ。じゃあまた勉強、勉強、勉強だけの日々に明け暮れるのか?それでホントにいいの?まさしくそれは灰色の青春じゃないか。今だからできること、高校生だからできること、それを目一杯やっとかないと後々後悔するんじゃなかろうか。そんなことを不意に思ったのである。
なら部活に入ればいい。すぐにそんな答えが思い浮かぶ。部活に入ればやるべきことができる。目標を共有する仲間もできる。青春するには一番手っ取り早い。どこに入ろう。野球部、サッカー部、バスケ部、バレー部。色々あるけど体育会系は全部なしだ。色白で細身、背も低めな僕。今更スポーツをやるような柄じゃないのは、僕のガリ勉の遍歴を知らない赤の他人ですら一目で分かることだ。じゃあ文学部にでもしようかな。だって僕は本が好きだから。
緊張しながら小さな部室棟の三階の隅にある文学部の部室の扉をゆっくりと開ける。目に飛び込んで来たのは小柄な少女がたった一人。椅子に座って本を開いて持ちながら、顔だけをこちらに向けている。眼鏡の奥のきれいな瞳は少し潤んで大きく見開かれ、僅かな緊張を伝えてくる。
この瞬間僕の青春が始まった。仲間と夢を語り合う熱いのじゃなくて、色恋に振り回されるピンク色のだけど。
文学部には僕と先輩の二人しかいない。しかもどちらもただ本を読むのが好きだから入部した人たちなので書く方にはあまり興味がない。したがってこの部活の活動内容は部室でひたすら本を読むこと。これに終始する。実態が先生にバレたらすぐに廃部になってもおかしくないような完全なる部室の無駄遣いである。でも当然のことながら廃部は困る。この文学部という空間の中で僕は学校の中でただ一人、先輩という女の子を独占できるのだから。好きな女性のそばにいるために僕は毎日学校のこの端っこに律儀にトコトコと通うのである。
部室では会話がない。二人ともひたすら本を読むだけ。ページを繰る乾いた音だけが規則的に起こる。
先輩ってどんな本が好きなんですか?読書以外に趣味はあるんですか?どこに住んでるんですか?中学はどこだったんですか?彼氏はいるんですか?気になる人はいるんですか?僕のことはどう思いますか?色々聞いてみたいことはあるけれど、全部喉の奥で止まってしまう。
時々先輩の方を横目で見ながら、小さなページに敷き詰められた文字をひたすら頭の中で音読する。それを2時間続ける。いつの間にかオレンジ色になった太陽の光に照らされながら先輩が立ち上がる。その影が扉に映る。僕も立ち上がる。先輩の影と僕の影が重なる。それでその日の部活が終わる。
入部の日から一か月過ぎる。二ヶ月過ぎる。三ヶ月過ぎる。長机の端と端。椅子3つ分の間隔。二人の距離は縮まらない。とうとう明日から夏休み。ただ本を読むだけのこの部活に夏休みの登校なんてあるわけない。しばらく先輩と会えなくなる。ただそれだけのことで胸が締め付けられる。とても苦しい。それに耐えきれなかった僕はついついこんなことを言ってしまう。
「明日からしばらく寂しくなりますね」
ただ夏休みに入るだけなのにこんなことを言うのは我ながらちょっとミスマッチ。先輩の顔を見れない。
「うん、そうだね」
少し間が空いてから返答が来た。すごく嬉しかった。
人生で一番長かった夏休みが終わって今日からやっと二学期。放課後急いで部室に向かう。先輩は相変わらず窓際に座っていた。
悶々とした夏休みを過ごした僕。縮まらない距離に焦る僕。だから今日はとても大胆な僕。机の端から二番目、前よりも先輩に一つ近い席に座る僕。
……ほんの少しだけ大胆な僕。
もうそろそろ12月。日が沈むのも早い。帰る頃にはもう真っ暗だ。一週間前から考えていたことを勇気を出して言ってみる。
「送りましょうか?」
僕は頭の中で何度も練習したセリフを読み上げる。
「もう暗いから女の人が一人で歩くのは危ないですよ。こんな僕でもいないよりはマシだと思って」
言ってしまってからセリフの理屈っぽさに気付く。やっぱりすごく恥ずかしい。
先輩は一瞬驚いた顔をしたあと、目を少し伏せながら言った。
「ありがとう。じゃあ駅まで」
帰り道、先輩と初めてたくさんの話をした。
その次の日から部室ではページを繰る音だけでなく僕らの話し声も響くようになった。僕が先輩に話しかける。先輩がそれに答える。僕も先輩も内向的な性格だからそんなに話すのが上手くない。会話のキャッチボールは長くは続かない。自分の意見をぶつける。相手がそれに反応する。分かち合えることも分かち合えないこともある。でもすごく楽しい。先輩のことがもっと分かる。先輩にもっと自分を分かってもらえる。僕らは結構似た者同士。コミュニケーションが苦手な人たち。でもどんどん先輩のことが好きになる。いつの間にか先輩との距離がまた椅子一つ分近づいた。
冬休みになった。やっぱり先輩と会えないのは辛い。友達もいないからずっと一人きりで過ごすことになる。すると余計なことを考えてしまう。あのときに先輩にあんなことを言ってしまったのは失敗だったんじゃないのか。変なふうに思われたかもしれない。口では気にしない風だったけども内心ではどうなんだろう。嫌われる。いやもう嫌われた。
人と接した経験が少ない僕はなんでもないコミュニケーションも冒険なのだ。自分が言ったことに対する相手の感情を大きく大きく悪い方へ悪い方へ考えてしまう。多分人は僕が思っているほど、僕の言うことやることに深い意味を考えない。そんなことは頭では分かってる。でも僕自身が相手の細かい言動をいちいち気にするタイプだから相手もそういう人だと思ってしまうのだ。自分が話せば話すほど相手に嫌われる気がする。だから話すのが怖くなる。人と接するのが怖くなる。
三学期になった。二学期の始まりとは全然違って部室に行くのがすごく憂鬱だ。変なことを冬休みの間に考えすぎたから。でも足は部室の方を向く。
習慣の力ってすごい。教室を出る。廊下を歩く。渡り廊下を歩く。階段を登る。もう一回階段を登る。廊下を歩く。端まで歩く。部室にたどり着く。ドアを……開けられない。
習慣の力がここで尽きてしまった。どうしても怖い。先輩と顔を合わせるのが怖い。何分も立ち尽くす。なら帰ればいいのにそれはしない。すると変なことに気付いた。部室の中で椅子が軋む音が繰り返し聞こえる。先輩がいるのは間違いない。でも先輩は本を読むときはページを繰る手以外ほとんど微動だにしないから、こんなに椅子が軋むのは変だ。立っては座ってを何度も繰り返しているような……
とうとう気になった僕はドアを開けて中を見る。そしてすごく驚いた。先輩はいつもの長机の端、窓際の席ではなくそこから一つずれた席に座っていたのだ。それを見て僕はさっきの音の意味をすぐに理解した。だって僕と先輩は似た者同士だから。
でも僕は先輩より少しだけ大胆な人なので、迷うことなく先輩の隣の席に座った。
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