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木漏れ日の中の死闘

 数分ぶりに戻ってきた森は、とても静かだった。

 実は、森の中は数多くの音で満ち溢れている事を知っている。生き物たちの生活音、風に揺れる枝葉の擦れる音や地面へ落ちる音、鳥のさえずりなんてよくイメージするものまで、たくさんの音で満ちており、人間が想像するよりもずっと賑やかなのだ。


 フローチュアと大樹の根元で休もうとしていた時だって、風の音や周囲を動く小動物たちの動く気配がしていた。

 だというのに、今は風が吹いて草木が揺れる音以外、何も聞こえてこない。

 まるで森が死んでしまったかのようだ。


 こんな事は初めてだった。戸惑う思考とは別の場所で、頭がこれ以上進むなと言っている。

 嫌な予感がした。

 まさか、あの蛇、戦った魔獣を食らった後、それで満足せずに森の中を荒らしまわっているんじゃないだろうな。それにしては、やはり静かだ。


 不気味になってきて、怖気が顔を覗かせた時だった。


 轟音が、森の奥から聞こえてきた。

 木が折れる音、それまで静かにしていた獣が悲鳴を漏らしながら逃げる気配だった。

 そして、腹の底から響いてくるような、重たい咆哮が、空気を激しく振るわせて、俺へと叩きつけられる。


 蛇じゃない、別の何かの雄叫びだ。相手を必ず殺すという、明確な意思を、嫌でも感じた。

 また木が折れ、倒れる音が聞こえてきた。

 頭の中に、天を突く大樹と、フローチュアの姿が浮かんできた。


「フローチュア!」


 いらぬ心配かもしれない。けれど、気になったらもう仕方がなくて、俺は走り出した。

 目印のない森の中を、聞こえてくる破壊音を頼りに進んでいく。もしもこれで、到着先にいたのが普通の魔物で、フローチュアは全く関係ありませんでした、というオチだったらいいな。そうだったら、回れ右をして、全力で森の外へ出よう。


 獣の唸り声が近くなってくるのと同時に、鼻が曲がりそうな臭いがしてきた。

 何だこれ、まるで、腐った血肉の臭いと、獣臭が合わさったみたいだ。


 それでも足を止める訳にはいかない。今も、木の幹が抉り砕かれるような音が聞こえてきた。

 もうかなり近い。あの木々の向こうだ。


 巨大な影が腕を振るったのが見えた。その先にいた影が、すぐ近くに生えていた木を盾にするように動いた。しかし、巨大な腕は盾になった木を軽々と砕き、小さな影を吹き飛ばした。


 それは、俺が探していた人物だった。


「あぁっ?!」


 悲鳴を漏らしたフローチュアは背中から木に叩きつけられ、そのまま地面へと落ちようとしていた。

 そのままだと、頭から落ちて大変な事になる、そう思ったら、もう俺は何も考えずに叫んでいた。


「フローチュア!」


 フローチュアは落下途中で体勢を整えて、どうにか無事着地する事に成功していた。

 ホッとするのも束の間、強烈な視線と死の気配を感じて、俺は体が自然に動くままに任せて走った。

 直後、俺が立っていた場所を、大きな何かが通り過ぎ、近くに生えていた木々をへし折っていた。


 あれは、熊?

 滝の上で見た熊どもなんか目じゃない程の巨体が、低い唸り声を上げながら起き上り、俺を睨み吠えた。

 衝撃波と勘違いするような圧に、足が竦んでしまったが、


「カイト、こっち!」。


 フローチュアの声で、見えない束縛から解放され、一目散に彼女の下へと駆け寄った。

 後ろから巨大熊の迫る気配があったが、苦悶の唸り声と、めきめきという音がして、追跡が止まったことを察知する。

 それでも足を止めず、俺はついにフローチュアの真横にたどり着いた。振り返ると、熊は何本もの木に行く手を遮られて足止めを食らっていた。先ほどまで、あそこに生えていなかったはずなんだが。


「こっちに来て!」

「お、おう!」


 今はそれよりも、ここから離れる事を優先しないとな。

 フローチュアの後に着いて走り続けると、やがてあの大樹が聳える場所まで来た。


 俺たちは根元まで近づき、体を大樹に預けながら息を整える。

 危なかった。

 よくは見えなかったが、あの熊、今まで見てきた奴の中で、一番デカかった。

 本能が、アイツには立ち向かうなと強く警鐘を鳴らしている。巨大蛇もヤバかったが、あんな化け物もいるんだな、この森。


「どうして戻ってきたの?!」


 フローチュアから叱責の声が飛んできた。

 振り向かなくても、今の俺の視界なら、彼女がどんな顔をしているのかがわかる。

 綺麗な柳眉を逆立て、キッと音がしそうな程に目くじらも立て、俺を睨み上げている。

 あまりに強い語気と勢いに圧されて思わず目を逸らしかけたが、どうにか堪えた。


「ご、ごめん。指輪を返そうと思って」


 俺は加えていた木製の指輪を彼女の前に差し出した。リングの小さな穴に嘴の先端同士を入れることで、力を入れ過ぎて砕いてしまう事故を防いだのだ。指輪の穴が小さくて、ちょっと勢いよく嘴をずらせば壊れる可能性もあったが、運が良かった。」


 驚いた顔で指輪を受け取ったフローチュアは、少し困惑した様子だった。


「これ、君に上げたつもりだったの。どこで気が付いたの?」

「丘の向こうで、体の上から落ちて来たんだ。それよりも、もらった覚えなんてないよ?」

「それは……」


 フローチュアが言いよどみながら顔を逸らした。


「君が、離れていても、ちゃんと生き残れるようにって、加護を、あげたくて……」

「ぇ?」


 小さな、震える声が紡いだ言葉に、呆けてしまった。

 フローチュアは指輪を両手で包み込んで胸に抱え、苦笑をこぼしていた。


「首の襟巻に付いてる角に入るように投げたつもりだったんだけれど、急いでたから上手く嵌っていなかったみたい」

「いつそんなことを……」

「森の出口で呼び止めた後、君がもう一度走り出した時」


 あの一瞬で、そんな事をしていたのか。妖精だから、魔法で飛ばしたのかどうかはわからないが、またも驚かされてしまった。


「……ごめんね、カイト。怒っちゃって」

「何で君が謝るんだよ。危険が待っている可能性がある森にわざわざ戻ってきた俺の方が悪い。折角、逃がしてくれたフローチュアの気持ちを蔑ろにしたんだ。怒って当然だ」

「蔑ろにされたとか、そんなことじゃないんだ。……君に、生きていて欲しいと思ったの。だから君が死んじゃうかと思ったら、居ても経ってもいられなくなった」


 今度こそ、自分の馬鹿らしさを心底、痛感した。

 指輪は確かに大切な物かもしれないが、また次会った時に返せばよかったんだ。

 それよりも、ずっと遠くへ逃げて、いつかもっと強くなってからこの森へ戻って来るべきだったんだ。


 フローチュアがそんな風に考えてくれていたのに、俺は、彼女の気遣いを無駄にしたことに、酷い罪悪感と、彼女への申し訳なさでいっぱいになった。


「フローチュア――――」


 ごめん、と言おうとした時だった。

 木々がざわめき始め始めたかと思うと、地面を揺らすような、憤怒の咆哮が襲い掛かってきた。


 振り返ると、俺たちが通ってきた木々を折り砕きながら、巨大な熊が出て来るところだった。

 二本の足で歩く、全長五メートルは下らない巨体をおろし、四つん這いになった熊の目が、俺を射抜いてきた。

 魔蛇に襲われた時なんて比べ物にならない恐怖を覚え、悲鳴を漏らしてしまった。


 どうして、森に入ってはいけないと、頭が拒絶していたのかわかった。

 こいつは、魔蛇のようにどうにか逃げられる相手ではない。会えば、俺程度なら確実に死んでしまう完全な格上だったからだ。


 そして、フローチュアの言っていたことを思い出した。

 この森には、大きな大きな、熊の魔獣がいるの。

 きっと、それはアイツのことだったんだ。あの時、そこまで危険だと考えていなかった俺に対して、彼女は真剣だった。アイツのヤバさを本当に知っていたからに違いない。


「何なんだ……アイツは……」

「レッドハンド。人間たちはそう呼んでいる」


 フローチュアがレッドハンドを睨みつけながら、俺の体に触れた。

 暖かさと、微かな震えを感じ取り、ハッとさせられた。


「カイト、生き残れたら、うんとお説教するからね」

「フローチュアっ!」


 制止する間もなく、フローチュアは駆け出した。


「さっきと同じとは、思わないことだよっ!」


 フローチュアが勇ましく叫ぶのと同時に、彼女の足元の地面が爆ぜ、何かが飛び出した。

 それは、木の根っこだった。フローチュアが三人程手を広げてようやく囲めそうな程に太い根が、何本も生えてきたのだ。

 それらはまるで生き物のように蠢き、レッドハンドを串刺しにするように襲い掛かった。


 だが、レッドハンドはぐっと体に力を込めたかと思うと、何と前へ駆け出すことで強襲を凌いだ。


「まだっ!」


 フローチュアが、激突まで間近と迫ったレッドハンドを誘うように右手を振ると、躱された根がカーブを描き、レッドハンドの背後から再び襲い掛かる。さらに、フローチュアの足元から新しい根が生え、レッドハンドを挟み撃ちにする形で伸びた。


 だが、それもレッドハンドは横っ飛びに避けた。恐ろしい動体視力に、巨体に似合わない俊敏さと運動能力だ。

 しかし、レッドハンドが着地しようとしてた地面が突如として盛り上がった。


 瞬間、轟音と共に、レッドハンドの体が空中へ舞い上がった。真っ赤な血を散らしながら、その巨体を器用に空中で体勢を立て直し、着地することに成功していた。


 先ほど奴を吹き飛ばしたのは、地面から生えた、一際太く、先端の鋭い根だった。

 避けられることも見越して、フローチュアが用意していたトラップに違いなかった。


 必殺の一撃を耐えたようだが、奴の息は荒く、先ほどよりもふらついているようだった。出血もそれなりにしているようだし、致命傷を負ったのだろう。

 十本以上の根がレッドハンドを囲むが、奴はそれらを睨み、唸るだけで動こうとしなかった。


「終わりだよ」


 フローチュアがレッドハンドに向けて左手を翳すと、根の槍たちがその巨体を刺し貫いた。

 痛ましい絶叫を上げながらレッドハンドがもがくが、フローチュアは根を操ることを止めなかった。何度も何度も根たちが奴の体を突く。その度に血が吹き出し、レッドハンドの巨体と根の槍、周囲の地面を汚していく。


 流石に見ていられなくなり、目を逸らそうとして、気が付いたことがあった。

 確かに根の槍は奴に刺さっているのだが、それほど深くは刺さっていないように見える。先端の、ほんの少しだけしか血に濡れていない。それでも、人間であれば重症だろうが、熊にとってはどうなのだろうか。

 それも、魔獣で、巨大蛇よりも危険だと本能が警告を出すような相手が、本当にあれだけで終わってしまうのだろうか。


「くっ……!」


 フローチュアが苦悶の声を漏らした。

 何事かと見れば、彼女の後姿が小刻みに揺れていた。今にも崩れそうな状態なのに、どうにか耐えているようにしか見えない。


「お、おい、大丈夫なのか?!」

「大丈夫!」


 元気そうな返答だが、声音に混じった疲労が全然隠しきれていない。


「……ごめん、やっぱり嘘。実は、君が来る前に一発受けちゃってね。そのダメージが回復できていないんだ」


 俺が来る前に一発って、あの時に殴られた奴か。

 血も出ていなかったし、上手く着地していたから、木を上手く防御に使ったおかげで、俺が考えているよりもダメージは少なかったんだとばかり思っていた。


「君が私を呼んでくれなかったら、私、気を失ってた」


 フローチュアは振り返らない。けれども、疲れ切った声が、笑っていた。


「君は、私の命の恩人だね」

「しゃべらなくていい!」


 何か、俺に出来ることはないか。

 周りを見渡すが、今の俺が枝を拾い上げても、何の役にも立ちそうにない。

 レッドハンドに近づいて攻撃しようにも、今の俺では、きっと奴に思うようなダメージを与えることはできないだろう。それにフローチュアの攻撃の邪魔になるだけだ。


 何もできずに、ここでじぃっと見ているだけしかできないのか。


「いいんだよ、焦らなくても」


 見透かしたようなタイミングで、フローチュアが言った。


「それよりも、今の内に逃げて」

「逃げてって……もうアイツは瀕死だろう! だったら」

「いいから逃げなさい!」


 レッドハンドに群がっていた根の一本が動きを止めて、地面に音を立てて落ちた。そこから、同じように根が力なく倒れていく光景に、俺は、フローチュアの限界を悟った。


「……最後まで、恰好付けさせてよ」

「何で、そこまで……」

「初めてだったから」


 それまで、反撃すらできずにじっとしていたレッドハンドが、近づいた根の一本を殴って砕いた。


「おしゃべりできる魔獣で、それも竜種なんて、初めて会ったから」


 残り三本となった根を、レッドハンドは立ち上がり、大きく腕を振り回して、一気に無力化する。半ばから砕かれ、折れた根たちが地面に落ちた。


「頑張り屋さんで、おっちょこちょいで……甘いくせに、優しい子だったから」


 レッドハンドが唸り声を上げて、フローチュアへ突進する。


「私、君がね」


 最後まで言い終わる前に、レッドハンドの左剛腕が、フローチュア目がけて横薙ぎに振るわれようとしていた。


 その光景に、俺は動いていた。竦んでいた足は枷を外されたように軽く、そして意識はとても澄んでいて、ただフローチュアを助けたいという気持ちが先走りしている。

 その鋭い爪がフローチュアに当たる寸前に、俺は彼女の体を左横へ突き飛ばすことができた。


「カイ……?!」

「よかっ」


 よかった、そう思った。

 だが、視界に飛び込んできた、フローチュアの後ろに迫る赤黒い影に、心が凍りついた。


 スローモーションになった世界で悟った。

 罠、だ。

 フローチュアが俺を守ろうとしていて、俺もフローチュアの事を気にかけていた、そんな関係を、この僅かな時間で、奴は察したに違いない。

 だから、フローチュアの危機に、俺が飛び出すと踏んで、左腕で殴るフリなんてしたんだろう。


 レッドハンドは熊だ。だから、その表情が読めるなんてことは、トリケラトプスの状態の俺でもないはずだった。


 なのに、今この瞬間、ソイツが筆舌に尽くしがたい、苛烈な表情をしている事がわかった。

 奴は、最後の最後まで油断なんてしていなかった。


 絶対に俺たちを殺す。

 そんな壮絶な宣言を、ベアハッグと言う形で、奴は果たそうとしていた。


「させないっ!」


 フローチュアが叫んだ直後、足下から強い衝撃を受けて、俺たちは宙高くに飛ばされていた。

 恐らく、彼女が地中から根を出して、二人纏めて押し上げたに違いなかった。

 真下で、レッドハンドが唖然とした様子で俺たちを見上げていた。


 フローチュアは、今の一撃で、もう限界そうだった。

 このまま落ちれば、レッドハンドが手を下すまでもなく、俺たちは死ぬ。


「ごめんね、カイト」


 朦朧とした様子のフローチュアが、掠れた声音で言った。


「どうにか生きて、て……!」




 “前世で接していた妹”の友達、みたいな感覚で接していたが、守られていたのは俺の方だった。

 一人で突っ走って、足手纏いになって、その上まだ気を使われてしまった。

 彼女の言う通り、岩山の方に逃げていた方がよかった。そうすれば、彼女は俺を気にして余計な力を使うことなく、もしかしたらレッドハンドを倒せていたかもしれない。

 俺が軽率だったせいで、自分の命も、彼女の命もここで潰える。




 俺が、“前世の人間”のままだったら、の話だが。


「あぁ、生き残ろう。俺とお前で!」


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