始まりからの衝突
水深二百メートルの世界、太陽光がほとんど届かない、暗闇の世界。
しかし、真っ暗な世界の中をもう少しだけ潜って行けば――地上で生きる者であれば、酸素が続き、水圧に負けない限りは――淡い輝きが見えてくる。
海底の一画に街がある。
岩と石と、朽ちたサンゴからもらった少しの材料でできた、立派な石造りの街だ。
儚げな灯りは、街の街灯であり、家々から洩れる生活の営みの証であった。
そこは人魚の街、その一つ。
穏やかに楽しく、誰も傷つけず、誰も困らせず、毎日を懸命に生きている知的生命体だ。
だが、そんな平穏な街に、悪魔の音色が響き渡る。
人魚たちは家の中に急いで逃げ込み、戸締りをしっかりする。
警備を司っている者たちも、武器を手に街の入口を封鎖し、息を潜めて身構えている。
真っ暗闇の向こうから、大きな影が向かってくる。
ぷーきゅいっきゅっ、くるっくるっ。
水笛のような音を立てて、海の底よりも暗い黒と、鮮やかな白を纏った、巨大な魚影がやってくる。
しかし魚に非ず。
魚はおろか、サメも食い殺し、果ては鯨も襲うとされる、海の狩人の頂点に立つ者。
その名はオルカディア。
大海原の魚虎と人語で呼ばれる、魔獣である。
『気に入らねぇぜ……』
オルカディアの苛立ちを含んだ意識が、彼女の発する甲高い歌と共に、海の闇へ響き渡る。
それは、耳にする者を怯ませる、怒気が混じっている。
『どいつもこいつも……私を苛立たせる』
門が閉じられた街を睨みつける。
跳ね返ってきた歌から、門の内側に衛兵が八人待機している事がわかる。
今日も街の上側は強固な結界に固められている。
どうしようもない。
今の自分では破壊不可能だ。
オルカディアは悪態をつきたくなるのを我慢すると、代わりに門へ向かって殺気を飛ばす。
『てめぇら、今日こそは通してもらうぞっ!』
『ちょっと待ったぁっ!』
『?!』
突然の乱入者の声と、右頬に衝撃を感じ、視界がぐるぐると回ったのは、同時だった。
オルカディアはどうにか体勢を立て直すと、攻撃が飛んできた大凡の方角を特定し、睨みつけた。
『誰だ?!』
エコーロケーションと共に、殺気を放つが、返ってきた反応に目を見開いた。
『お、お前は……!』
薄明りの中へ姿を見せたのは、昨日、獲物を横取りした見慣れぬ三本角の生物の子どもだった。
彼は陸地で生きることに特化した四足を器用に動かしながら、それにしたって驚くべき速さでオルカディアの下へと向かって潜航していた。
『お前、どうやってここに来たんだ……息は? この海の重さに潰されないのか?!』
『ちょっとアンタを止めるために……少しばかり無茶をさせてもらった』
海底に足を着けた三本角の魔獣が啖呵を切った。
どうして彼が海の中へ潜れているのか、息が続いているのか、そしてこの水圧をモノともしていないのか……。
疑問は尽きなかったが、オルカディアは瞬時にそれらを切り捨てた。
彼女の中にある彼への思いは一つ。
昨日、獲物を横取りしたことへの恨みだった。
『てめぇ、よくもまぁぬけぬけと私の前に現れたもんだな……あのまま逃げておけばよかったのによぉ』
『俺もそうしたかったんだけどなー』
魔獣は言うと、唐突に頭を伏せた。
最初それが何を意味しているのかわからなかったが、
『昨日のことはすまなかった。改めて、謝らせて欲しい』
どうやら、謝罪の意を示しているとわかり、オルカディアは余計に苛立った。
わざわざそんなことのために、こんな無茶をしでかしてきたのか、と。あまりにも下らないと、ため息を吐いた。
『言いたいことはそれだけか? だったら消えな……今はお前に構っていられねぇんだ。今度、私の目の届く範囲にいたら殺すぞ』
『その前に、アンタに尋ねておきたいことがある!』
『あん?』
『あそこは人魚の街なんだろ? 何で攻撃しようとしているんだ?』
『テメェには関係ないことだろ』
『確かに関係ない。けれど、人魚たちを攻撃しようとしているお前を見過ごす訳にはいかない』
『何言って……あ?』
その時、オルカディアはようやく、目の前の魔獣から、違和感を覚えた。
うっすらと、彼を包み込むようなオーラを感じ取れるようになった。
そして、その正体を見極め、激昂した。
『テメェ……その加護……まさかっ、あんの首長野郎の手先になりやがったか!』
『手先というか、依頼を受けた。人魚たちを困らせているアンタを止めて欲しいってな』
魔獣は誤魔化すことなく、真正面から認め、答えた。
その様子は、子どもらしからぬ、堂々としたものだった。
それが、ついにオルカディアの堪忍袋の緒を切ってしまった。
『獲物を横取りしただけじゃなく……アイツの言いなりになって……今度は私の邪魔をしようってか……何様のつもりだテメェ』
これまでは、子どもだからと、自分の攻撃から生き残れたら見逃すつもりだったが、もうその気は失せた。
オルカディアは目の前の魔獣の子どもを、正真正銘、倒すべき敵と認識した。
『ぶち殺す……後悔しても遅いぞ、ガキ』
『後悔なんてあんまりしてない!』
『ちったぁしてるじゃねーか!!』
後ろ鰭で海水を蹴り、高速で突っ込む。そのまま噛み付き、適当に地面へ叩きつけるつもりだったが、
『っらぁ!』
『何っ?!』
魔獣の子どもはオルカディアの体当たりを避けた。
追撃が来る、と思っていたオルカディアだったが、何も反撃がないまま、通り過ぎてしまった。
振り返ると、魔獣は自分を見上げている。
『教えてくれ、アンタが人魚の街を襲う理由を!』
『知る必要なんかねぇよ!』
もう一度体当たりをするが、今度も避けられてしまう。
動体視力がいいらしい。
超水圧により動きが阻害される中、自分の攻撃を避けられるのは、加護があるからだが、それにしたって見極めが早い。
それなりに死地を潜り抜けてきたのだと、オルカディアは分析した。
だが、修羅場を潜り抜けてきた数は、オルカディアの方が上だった。
『甘ぇんだよ!』
『ぐぅ?!』
通り過ぎる前に、尻尾で魔獣を殴った。あまりダメージを与えることができなかったが、体勢を崩すことには成功していた。
『なんて頑丈な野郎だ……けど、これならどうだぁ!』
振り向きざまに、魔獣の背中へと食らいついた。
しかし、魔獣の表皮は岩のように硬く、歯を食いこませることはできなかった。
『ちっ、けど、捕まえたぜ!』
『それはどうかな!』
痛みは感じているらしく、耐えているような意思が伝わってくる魔獣が、意味深に告げる。
この状態で何ができるのかと思いきや……オルカディアの体に、またも衝撃が走った。
それも、今度は強い痛みを伴うものだった。
『がっ?! これは?! ぐっ?!』
次に、左腹にまたも鋭い痛みを覚えた。
これは、打撃だ。それもかなり強い。
オルカディアは自分を傷つけた原因をエコーロケーションで探し当てた。
『な、テメェ!?』
それは、オルカディアの頭上にいた。
昨日、魔獣の背中に乗っていた、人間の子どもだった。
そして今、彼女が妖精であることを、気配で悟った。彼女もまた、魔獣と同じく、腹立たしい加護を持っていた。
妖精の少女は、手に持っていた武器――――骨でできた銛を構え、オルカディアの頭に狙いを定めていた。
『しゃらくせぇ!』
エコーロケーションの威力を高めて妖精へぶつける。
通常のシャチとは比べ物にならない、超威力の音波が襲い掛かれば、ただでは済まない。
だが、妖精の少女は無傷で、一瞬前と変わらずにそこに佇み、そして銛を放ってきた。
オルカディアはどうにか直撃を避けることはできたが、左頬を先端が掠めて行った。先ほどから鋭い先端が突き刺さらず、鈍器のような打撃だけで済んでいるのは、オルカディアが魔獣だからである。
そうでなければ、この加護を受けた者の武器のダメージが、この程度で済んでいるはずがない。
『外したわね……やっぱり、完全奇襲作戦にしておくべきだったかしら』
『けれど、データは取れたんじゃないか?』
『ある程度はね。お疲れ様』
妖精と魔獣が、加護を持った者同士での会話を行っていた。
魔獣の背中に跨った少女は、長さを短く調整された手綱を握り、銛を槍のように脇に抱え、オルカディアを見据える。
その目は、オルカディアをして、一歩退かせるに足りうる迫力を秘めていた。
妖精に狼狽えさせられたことに、オルカディアは少しのショックを受けた。
『ようやく、アンタ達、魔獣の会話に参加できるわね』
『テメェら……一体何者だ?』
『名乗る程の者ではないわ。ただ、アンタがどうして人魚の街を攻撃するのかを教えてくれれば、それはそれで助かるのだけれど』
『それはアイツに頼まれたのか?』
『いいえ。これはこの子の疑問なの』
少女が、跨っている魔獣の背中を開いている左手でたたいた。
魔獣は、戦う意思をあまり感じさせない、穏やかな眼差しでオルカディアを相変わらず見ている。
先ほどまであれだけ腹立たしかったのだが、狼狽えたせいもあって、気持ちを落ち着かせる必要もあり、仕方なく、オルカディアは話してやることにした。
『何でそんなことを気にするんだよ』
『何となくだ。アンタは……理由もなしに、食べるつもりのない相手を……罪のない奴を攻撃するほど、悪い性格をしていないと思ったからな』
『口の減らないガキだぜ……』
何もしらないくせに、一丁前な評価を下してくる魔獣を鼻で笑う。
『で、教えてくれる? 私も、アンタが人魚を攻撃する理由については興味があるの』
『アイツからは何も聞いてないのか?』
『何も』
『全然聞いてないな』
『けっ、アイツらしいぜ……』
オルカディアは鼻先で人魚の街を指した。
『まぁいい。人魚どもはな、俺の妹を攫って、閉じ込めているんだ』
『妹?』
魔獣が目を見開いた。妖精も、顔をいぶしかげにしかめた。
本当に何も知らなかったらしい反応に、オルカディアは鼻で笑ってみせた。
『本当に何も聞かされていないんだな。まぁ、人魚やアイツからしてみれば、私は迷惑千万な野郎だろうが……私だって好きで暴れているんじゃないんだよ』
『そんな……』
魔獣が人魚の街へ顔を向けて、唖然としている。
自分が正しいと思って来てやってきたら、相手にはしっかりとした事情があって、ショックを受けている様子が手に取るようにわかる。
その姿を見ると、急にこの魔獣の子どもをぶちのめしたい気持ちが失せてきた。
『わかったら、もう帰れ。それで私の邪魔をするな。いいか、これが最後の警告だ』
身を翻し、オルカディアは街へ顔を向ける。
『さて、今日こそぶち破ってやるぜ……!』
『待ちなさい』
妖精の意識が割り込んできた。まだ何かあるのかと振り返ると、魔獣に跨った少女が、右手を向けて来ていた。握られているのは、短い木の枝だった。
『本当に、人魚たちが貴女の妹を捕まえているの?』
『そうだと言っているだろう』
『……そう。なら、私が人魚たちのところへ行って、様子を見てくる。だから、暴れるのはやめなさい』
『何?』
唐突に何を言い出すのかと思いきや、少女は魔獣の背中を軽く叩き、街へと向かわせた。
『オルカディア……人魚を攻撃するのはやめておいた方がいいわ』
『おい』
怒鳴ろうとしたが、言葉は続かなかった。
妖精の目が、再び、言葉にしようもない威圧感と、感じたこともない大きな何かを放っていた。
『いい……? 街へ入ってから、三十分で、私たちは貴女の下へと戻って来る。これが一秒でも破られることがあれば、その時はもう街を攻撃するなりなんなり隙にすればいいわ』
『お、おいリチュア!』
突然の妖精の提案に、魔獣が慌てていた。
オルカディアも、彼女の意図がわからず、混乱に拍車がかかるだけだった。
『どういうことだ……そんな事をして、お前に何の得があるって言うんだ?』
『私だけじゃない……この子にも、アンタにも、人魚たちにも得があるかもしれないわ』
言い終わると、妖精はもう振り返ることはなかった。
勝手にやってきて、勝手な事を言われて、オルカディアも本来なら怒髪天を突く状態であったが、妖精のあの目を思い出すと、体は動かず、言葉も出なかった。
街の前に着くと、妖精が一言、二言、何か告げる。
門が小さく開くと、妖精と魔獣が入っていく。
(今なら、あそこを突破できるはずなのに……)
オルカディアは、門が閉じるまで、見守る事しかできなかった。
次回、決着です。




