序章5
日が、昇ってきていた。
日が昇り切り、夜の闇が空から消えれば、魔物の類の動きは鈍る。つまりは、夜よりも比較的殺りやすくなるのだ。だから、日さえ昇り切れば逃げ切れるとダレットは思っていた。
ただそれは、完全に昇り切れば、の話だ。中途半端に日が昇るか、沈むかしている朝方や夕方はむしろ夜よりも狂暴になる。それは、もはや魔獣と化した狼共も一緒だろう。
もし奴らが森を駆けていったならば、いくらかは待ち伏せしているはず……。そんな当たってほしくない、しかし確実にそうなるであろう予想をしながら馬を進めていく。そんなとき、ダレットの鼻がここ1日でずいぶんと慣れてしまった匂いを感じ取った。
濃厚な血の匂い。
それを感じた時には、ダレットは馬を止めていた。
「ダレット? どうしたの?」
「アーノルド様……。狼共が、この先に待ち伏せしております。恐らくは迎えの兵を殺して。ですので私が先に行き、様子を確認してまいります。アーノルド様はここでお待ちを」
「分かった」
馬から下り、アーノルドも下ろす。
「では」
「うん……。さっきも言ったけど、死ぬなよ。お前まで死んだら僕は一人になる」
「承知」
アーノルドの言葉に短く返し、槍を抱えて歩き出す。しばらく歩くと更に血の匂いが濃くなってきた。
「そろそろか」
一度足を止め、風で自分の周囲を覆う。自分からでる匂いを消し、奇襲をしかけやすくするためだ。物陰に身を潜め、道の先の様子をうかがうと……
数多の「死」が、転がっていた。
無論、その死骸の大半は人間だ。
「やはりか……」
目で死体の数を数える。
人が五十、狼が十、生きている狼が更に五。だが、生きている狼達は人の死骸を貪るのに夢中になっている。
今、体を覆っている風を攻撃と推進力に使えば、二体は無傷で殺せる、とダレットは踏んだ。だが、そこからは賭けだ。一人で三匹屠れるかという賭け。
"出来るか?"という声が聞こえた。
自分の声だ。
"出来るさ"とそれに答える。
目を閉じ、息を吸い、吐く。
そして身をかがめ、槍を構え走り出そうとし、その飛び出す直前に、
「風よ!」声が響く。
次の瞬間、ダレットは風と化していた。
ダレットが放った風の刃は狼を物言わぬ肉塊に、彼の槍はもう1匹を既に串刺しにしていた。
そして、槍に刺さった狼を落とす為槍を振るい、その勢いで距離をとる。が、その頃にはもう残った三匹は態勢を整えていた。タイミングを僅かにずらし、三匹が襲いかかってくる。 一匹目は槍を当て吹き飛ばし、二匹目には左腕に噛み付かせて噛みつかせた腕ごと振るってそのまま三匹目に当てる。
二匹が吹っとんだところでまた一匹目が飛んでくるが、一匹ならば怖くない。 大きく開いた口から槍を突き込み頭まで通し、肉を突き破り命を絶つ。
これで、一。嫌な感触だ、とダレットはいつも思う。この感触に慣れてしまうときが、いつか来るのだろうか。そんなことを考えながらも、ダレッドの耳は狼が駆ける音を捉えていた。
だが、そんな音が聞こえる程度の距離は、この狼たちにとっては一瞬駆ければ事足りる。よって、槍から骸を落とす時間も無く、狼達はすでに喰らいついてきていた。最初は左側に体勢を崩し、何とかかわす。しかし、二匹目の牙はもろに右の太ももに食らった。
「ぐっ……」
声が漏れる。痛みをこらえ歯を食いしばり、自分の足に食らいついたままの狼の背骨に石突を落として砕く。
これで二。残りは一匹。しかし自分は左腕と太ももに傷を負っている。 が、相手もそれは同じ。最初の払いが地味に効いているようだ。少しおかしな歩き方をしている。
その隙を見て、一度後ろに下がり、槍に刺さったままだった狼の骸を振り落とす。そこで生じた、ほんの少しの気の緩み。それを狼は見逃さなかった。すぐさま飛びかかってくる。
狼の牙が喉元に迫り、対応が一瞬遅れる。
"間に合わん……!"
だが、その時。なぜか少しだけ、狼が何かに気を取られたような素振りを見せた。
その一瞬が、その狼の命取り。その僅かな時間で、ダレットに生じていた対応の遅れが埋まり、そして狼を下から突き上げた。
狼が空を飛び、地に叩きつけられる。そしてピクリと痙攣したあと、動かなくなった。
「はあ……勝ったか」
息を吐き出す。それと同時に、麻痺していた感覚も戻ってくる。
「っ……痛いな…。まあ良い、戻らねば」
戻ろうとしたところで、最後の狼の挙動を思い出す。
--あの時狼の動きが遅れていなければ死んでいた……。では、何故動きが鈍ったのだろうか。
歩きながら考え続けるも、答えが出ない。そしていつの間にか、アーノルドの所へたどり着いていた。
「アーノルド様、ご無事で」
「あぁ、うん。こっちは大丈夫。そっちは……わあ、大丈夫? 馬、乗れる?」
「えぇ、乗れますとも。では、参りましょう」
「うん」
再び馬に乗り、ゆっくりと走らせる。アーノルドはもう抱えれないので、自分の前に乗せたそして馬を走らせながらも、やはり頭は先程のことを考えていた。
「アーノルド様、一つよろしいでしょうか」
「うん、何?」
「私がいない間、何かありませんでしたか? なんでもいいです。お教え下さい」
「うーんと……。そういえば、お前が帰ってくるちょっと前に、森の中で物音がして……」
「ほう、それで……?」
「あと、馬も耳を立ててた。それ以外は……特にないかな」
「なるほど……。ありがとうございます」
アーノルドからの情報を元に、考えを巡らせる。
--馬が耳を立てるのは、何かに注意を払っているということだ。
そして、私が帰る数分前に聞こえたという森の物音……。これが狼共だとすれば、狼共はアーノルド様の方にも向かってきていたことになる。しかし、ならば何故襲わなかった? 一匹もいれば私含めて殺せていただろうに……。
そんな、決して答えの出ない謎の闇を切り裂くように、アーノルドの首元にかかる見慣れぬ翠玉の首飾りが輝く。
「アーノルド様……。首元にある翠玉は一体?」
「これ……? これは、国を出る前に父上から頂いたものだ。お前にもあげないよ」
「ははは、欲しいとは申しておりませぬ。しかしそうですか、陛下から……。では此度逃げ切れたのも、陛下のお陰やもしれませぬな」
「うん、きっとそうだ。じゃあダレット、先を急ごう」
「そうですな。む、アーノルド様、ここよりは少々凄惨なことになっております。お目に入れぬように、私の方を向いてくだされ。ここを抜けましたら一度開け、草原を見下ろすことができます。その時にお声をかけますゆえ、しばらくの辛抱を……」
「分かった。その景色、楽しみにしているよ」
アーノルドが自分に掴まったのを見てから、また馬を進める。先程狼と殺しあっていた場所を、多少馬を急かして抜ける。
「アーノルド様、抜けましたぞ。もう前を向いて構いません」
「分かった……わあ」
目線の先には、広大な草原が広がっていた。ほぼ太陽は昇り切り、あと数分もすれば夜が完全に明ける。生きている実感のせいか、普段は何気なく見過ごす風景なのに、今は何よりも美しく見える景色に気を取られながらも、思いをここまで逃げ切る為に死んでいった人達に馳せる。陛下、将軍殿、父上、王妃殿下、そして名もなき戦友達。
その人々の骸の上に自分とアーノルドが立っていることを実感し、また、その屍の重みをアーノルドに背負わせてはいけぬと心に決める。
「アーノルド様……。では参りましょう。間もなく山の国の関所でございます。……アーノルド様?」
「あ、あぁ……。ちょっとぼおっとしてたよ……。さぁ行こう。もうすぐなんだろう?」
「えぇ、まもなくにございます。お疲れでしょう、着いたらゆっくりお休み下さい」
「うん……」
少し疲れているように見えるアーノルドと共に、山の国の関所に向かう。
二人のその背を、朝日が明るく照らしていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
前を向いた僕の目には、綺麗な景色の他に、見えたものがあったんだ。
多分僕にしか見えてなかったんだと思う。ダレットは何も言ってなかったし。でも、絶対に見間違えなんかじゃない。
なんで見えたのかは分からない。いや、何故かあの時だけ、見えてしまったんだ。きっとそう。ダレットが僕に前を向いていいって言った時。夜の闇が、空から消えようとしていた丁度あの時だけ。
とても黒い、昏い目の、暗い影のような狼、狼のような影が。
顔に大きな傷がある【影】の狼が。
何かを嘲笑うように天に向かって吠え、そして……気のせいかもしれないけど、こちらを向いて嗤ったように、僕には見えた。