序章4
「ふっ!」
飛びかかってきた狼を、一息で貫く。それでも狼はしばらくもがき続けていたが、完全に動かなくなったのを感じとり、狼の骸を槍から振り落とす。
これが三匹目。直接追ってきていた狼は殺しきったが、未だどこかに潜んでいるはず……。などと考えていたところで、胸元でゴソゴソと動き始めた殿下……いや、アーノルド様が私に話しかけてきた。
「終わった? ダレット」
「いえ、まだ終わっておりませぬ、アーノルド様。とりあえず追いかけてきた三匹は倒しましたが……。気を抜くことはできません。再び狼共が近づいてくればお知らせ致しますので、その時は私の指示に従って下され」
「分かった……。ダレット、母上達はどうなったかな」
「それは、私如きの口から申せることではございません。ただ言えることは、奥方様はアーノルド様を逃がすために残られたのです。それを無為にしてはなりませぬ。私は未熟者ですが、陛下の勅命を受けた父より奥方様とあなた様を託され、更に奥方様からはあなた様を託されました。であれば、我が身命を賭してあなた様をお守りするのみにございます」
「そっか……。じゃあダレット、僕からも命令。絶対、死なないでね」
わざわざ絶対、というところを強調しなさった。幼心に不安を……、いや、大人心でも不安だな。
「命令とあらば、決して死ねませんな。承知しました。共に山の国まで参りましょう」
「良かった。じゃあ、またしばらく大人しくしているよ。狼が来たら教えてね」
「分かりました」
そして私は一人、アーノルド様を前に乗せて馬を走らせる。
そう、一人だ。
何故私とアーノルド様のみが山の国に向かっているのかは、数十分程前まで遡る……。
「ダレット殿、ダレット殿!」
ん? なんだ? どこからか声が……。
「風です、ダレット殿! 隊長からの連絡です!」
おっと、呆けている場合ではない!
「す、すまない。それで連絡とは?」
「ようやく届いた……。そして、連絡の内容ですが……隊長の推測をお伝えします」
「父上の推測?」
「はい。で、隊長曰く、「百ほどそっちに向かってるだろう。多分影の属性を持ってるから気をつけろ」と……」
「影? そうか。ちなみにそちらの状況は?」
「間もなく戦闘が始まるかと。では、一秒も惜しいのでここで失礼します。ご武運を」
「ああ、ありがとう。そちらもな」
言葉を返したところで風の流れが途切れる。しかし影、か。影……。ふむ。まあ良い、考えるのは後だ。まずは殿下方にお伝えせねばな。少し馬を進め、先を行っていた馬車に追いつく。
「奥方様、馬上から失礼致します。追撃に来た狼三百の内百ほどが、こちらに向かっているとの事です」
「あぁ、ダレット殿ですか……。しかし、私達を? 何故でしょうか?」
「分かりませぬ。もしかすると奴らにも目的があるのかもしれませんが……。ご無礼を承知でお聞き致しますが、身辺に何かお変わりはございませんでしたか?」
「いえ、特には……。アル、あなたは何かあったかしら?」
「僕も何もありませんでした、母上!」
「そう? なら良いのだけど……。ではダレット殿、これからどうするのです?」
「はっ、まずは……」と言いかけた所で、
"アォォォ……ン!"
という狼の遠吠えが聞こえた。背筋が凍り、喉が一瞬で干からびる。まさか……もう来たのか!? 早すぎる!
「奥方様、ここはお逃げを。私共が足止めします! では……!」
と、私が駆け出そうとした瞬間。
「いいえ、待ちなさい」
奥方様の声が響いた。
「はっ?」
「待ちなさい、と言いました。ダレット・グレイン殿。あなたが行く必要も、私が逃げる必要もありません。あなたの代わりに私が行きます」
奥方様が、先程までとは全く違う、どこか突き放すような空気さえ漂わせながら、私に話しかけられた。しかし、奥方様が仰っていることは、まるで……。
「まるで、私の代わりに奥方様が戦われる、ということを仰ったように聞こえたのですが……?」
「その通りです。私も魔法をそれなりには使えます。戦うに不安は無いでしょう?」
「そうですが……。しかし……」
「では聞きましょう。相手は百、こちらも百。しかも相手の方が大分強いのです。これで私とアーノルドが馬車で逃げることの出来る時間を稼げますか?」
馬車では無理だ。馬に乗る、といっても奥方のみならばともかく、アーノルド様も前に乗せて、などというのは難しい。
「っ……。それは……」
「できぬのでしょう? であれば、取るべき道は一つです。あなたよりも幾らかは敵を殺すことの出来る私が、ここに兵達と共に残って足止めをする。あなたがアーノルドを抱えて馬で逃げる。私達では殲滅はできないでしょうから、食らいついてくる狼共を打ち払いながら。できますね?」
「それならば、何とか……」
それならば出来る、出来るが……。それでは奥方を死なせることになってしまう。それは臣下としてあるまじき行為であるし、何よりも父を裏切ることにすらなる……。
「あなたの考えていることは分かります。大方、それでは私を死なせてしまう……。とでも考えているのでしょう?」
「その通りでございます……。ですが、そこまでお解りならば何故……!」
「先程から言っているではないですか。それしか道が無いと。あなたが残って私達が逃げられるのならば、私はそうしています。しかし、現状ではあなたが残って私達が逃げても、途中で追いつかれて殺されるのが関の山……。そのぐらい、あなたも分かっているはずです」
「そう、ですな……」
「よろしい。では、少しそこで待っていなさい。アーノルドに別れを告げてから、ここに連れてきますので」
「はっ……」
返事を返すと、奥方様は馬車の中に入られた……。
「アル、来なさい」
「はい、母上」
努めて平静に、心の中の恐怖がアルに伝わらないよう注意を払いながら、アルに話しかける。
「私はここに残ります。あなたはダレットと共に逃げなさい。少し行けば、山の国の迎えが来るはずです」
「え……? 母上もですか?」
あら。分かってしまっているの。ごめんね、アル。でも、これもあなたのためなのよ。不安げなアルを少しでも安心させるために、少し柔らかめな口調に変える。
「そうよ。そして何故残るのかは、賢いあなたなら分かるわよね」
「はい……」
アルの綺麗な金色の目には、涙が浮き出ていた。賢いと言っても、まだ六歳。泣きたくなるのも当たり前だけれど……。
「アル、泣いてはいけませんよ……。あなたは良い子なのですから」
自分がつられて泣いてしまうだろうから、息子に泣かないでと言うなんて、我ながら酷い母親。酷い母親で、それでもアルにとっては大切な母親。父親の代わりはダレッドがなってくれるでしょうけど、母親は……難しいわよね。アルへの心配とちょっとの心残りを手に乗せて、髪をなでる。
「はい……」
うん、涙が止まったわね。
「偉い子ね。じゃあアル、ダレットの言うことをよく聞いて、生きるのよ。母からの最後のお願いです」
「母上……」
口をぎゅっと堅く引き結んで、泣かないようにしている。そんなアルに対して、もう一つ重要なことを付け加えておく。
「ああ、あとね、アル、あなたはね、もう王族でもなんでもないのよ。だから……何にも縛られず、自由に生きなさい」
ふふ、これには首を傾げてるわね。ちょっと難しかったかも。さてと、気持ちを切り替えて。
「ダレット殿」
「はっ。ここに」
「アーノルドを、頼みました」
「はっ……」
まだ罪悪感が抜け切ってなさそうな顔してるわね……。それなら。あの老人の、不器用な息子への気遣いを彼に伝えるとしましょう。ついでに彼が、このような状況になるだろうことを予想していたことも含めて。
「ダレット殿。あなたの父、ファリス殿は恐らく私を「使う」ことまで見越していたでしょうよ。なのであなたが気に病む必要はありません。私を「使う」ことまで予測してあなたをこちらにつけたとすれば、全くもってファリス殿らしい老獪さです。次に会ったら、私を「使う」のが前提で物を考えていたこと、とりあえず叱っておきましょう」
効いたかしらね?
「そ……そうですか。だとすれば真に父らしいことですな。ははは……」
効いたみたい。乾いて力がない笑いだけれど、さっきまで見たくずっと陰気臭い顔をしているよりは全然良いわ。
「分かったなら、早く行きなさい。それと、アーノルドを落としてはいけませんよ」
「承知致しました。殿下、では参りますぞ!」
「殿下、じゃない。アーノルドって呼んで、ダレット」
「は……?」
「そう母上が言ってた。だからアーノルドだよ。ただのアーノルド」
ダレッドはぐむむと唸った末に、自分の中で折り合いをつけたのか、はっきりと軍人らしく言い切った。
「分かりました。ではアーノルド様、とお呼び致します。では奥方様!これにて失礼!」
二人の姿が闇に紛れて消えてゆく。ふふ……。それにしてもアルってば、やっぱり賢い子ね。あの子が言ったこと、ダレッドも驚いたでしょうけど私もよ。ただの。そう、ただのアーノルドなのよ。他の人はそうは言わない。そう思いもしないかもしれない。だけど、あの子はただのアーノルドなの。それを分かってくれる人に、逢えたら良いわね。
山道の中でちょっと開けた場所に私たちはいるから、少し遠くまで見通すことができる。だから、しばらくは二人の姿が見えて、でもそれもすぐに森の木々にかき消されてしまった。
「ふぅ……」
感傷に浸るのもこれぐらいにして、周りの兵士達に声をかける。
「二人が逃げるための時間を稼ぎます。私を狼の攻撃から守るように陣を組んで。魔力が尽きるまで魔法を使いますので」
「承知致しました」
では、始めましょうか……。
狼が見えてくる。火と水、風に地まで使いましょう。後先考えずに……ね。
私が指を振るう度、狼を火が焼き、石柱が貫き、風の刃が切り刻み、水の槍が穿つ。でもその分、普通に使うよりも倍ぐらい魔力の消費も激しい。いつまで持つかしらね。
「っ……。はぁ、はぁ……」
どのぐらい経ったのか、時間の感覚が最早無い。まあ、魔力が切れているから当然なんだけど。頭は割れるように痛いし、汗も変に脂っぽい。ここまで絞り出したのなんて、夫と若いころ旅をしていて無茶をした時くらいかしら。最もあの時は死ぬつもりなんてなくて、今は逆に決死の覚悟というか、もう死ぬ寸前というか。それでも、最後の一発を狼に食らわせる。ついに魔力が切れて、指先に慣れ親しんだ魔力が集まる感覚も消える。足が震えて、倒れそうになるけれども歯を食い縛り、ふと目を上げると……。
大地の端から日が昇ってきていることを示す金色の光が見えた。
「ああ、日が……」
綺麗ね。まるでアルの目。そしてあの子のこれからの人生のように。
「生きなさい、アル。あなたの人生を……」
独りでに呟く。 次の瞬間。私の目の前に立っていた兵士が倒れ、視界が開ける。それでも太陽は変わらず、いっそ残酷なほどに美しく。その光景を最後に、私は微笑みながら目を閉じた。
次の瞬間にはに訪れるであろう痛みを、死を受け入れるために。