序章3
ガラガラと、車輪の音が森にこだましている。
殿下と殿下……まどろっこしいな、つまりはあれだ、王の奥方とご子息だ。お二方を乗せた馬車が立てる音だな。
それともうひとつ、馬蹄の音も響く。こっちは儂ら、つまり近衛隊の馬の走る音だ。
「隊長!」
おっと、伝令か。
「おう、どうした?遠見からの知らせか?」
「はい。ただいま遠見から入った報告によりますと、黒い狼……のようなモノが三百ほど接近中との事です」
なんでようなってつけたんだよ。ようなって。黒い狼でいいだろ。
「分かった。じゃあ、そろそろ戦闘態勢を……そうだな、四百だ。後ろから数えて四百名にとらせとけ。儂は殿下方にご報告だ」
「承知しました」
そう言ってから殿下方の乗る馬車の方に馬首を廻す。部下の前では平静を装っていた顔に、ジワリと汗がにじんでくる。
だって、狼だろ?となれば、あれだよなぁ……。ガキの頃によく聞かされる、そして儂も息子によく聞かせた、三百年前に我らが初代王が草原から駆逐したとかいう狼共だろうし。初代王が切り開く前は魔物どもが跳梁跋扈していたこの平原を、我が物顔で支配してたっていう化け物。追い払うのにも多大な犠牲を払って、おまけにヌシは傷つけただけで殺せやしてないっていう奴ら。
生き残ってたのか……。三百年も生き永らえて数を増やすとかどんな執念だよ。いっくら魔物が儂らの想像を軽く超えてくるような奴らだからと言って、普通三百年も復讐のためだけに費やさないと思うんだが。
……いや、でも。それはちと虫の良い話か。いきなり自分たちの同胞が殺されて、しかもそいつらが自分たちの物だった国を支配してるってなれば、恨みは骨髄まで徹するわな。恐れと恨みだったら恐れの方が早く消え去る。その恐れを儂らがまだ抱けてるってことは、恨みに関しては言わずもがな、ということか。
はぁ……。それでも。それでもだ。来るのがいきなりすぎやしないかね。しかも黒、ねぇ……。狼なんて普通灰か黒だってのに、わざわざ報告してきたことからして嫌な予感が……。
ただ、三百しか来ていないってことは陛下と将軍の奴、よっぽど頑張ったらしい。 とすれば百を殿下方の護衛に回して、残りで足止めよな。
おっと、着いた。
「殿下方、馬上から失礼致します。緊急の事態にて、ご報告に参りました」
「その声は……ファリス殿ですか。こんな状況ではいつでも緊急みたいなものだと思いますが……。良いでしょう、報告を」
近衛隊長である儂の今の護衛対象がこの方々なわけだが……。まあ、もうすでに亡国になっちまってるわけだから、近衛隊長だなんて肩書に大した価値があるわけでもないんだがな。
「まぁ、その通りですなぁ……。では、ご報告をば。遠見の者からの知らせによれば、狼が三百ほどこちらへ向かって来るとの事。つきましては百を殿下方の護衛に回し、残りの四百で彼奴等の足止めを計りたく存じます」
「構いません。好きになさい」
「ありがたく。また、護衛の長には愚息をつけておきますゆえ」
「なるほど、ダレット殿を……。ふふ、ありがとうございます」
「はっはっは。儂のような身には過分のお言葉ですな。では、散々こきつかって下され」
「ふふ……。いえ、分かりました。では、武運を祈ります」
「はっ。では」
殿下方の馬車から離れて元の場所に戻る間、少し奥方の笑みについて考えてみる。あのお方はそもそも臣下の前ではそこまで笑みを浮かべることはない。だが、息子を護衛に付けるといったとき、奥方は微笑んでいらした。
とすると、奥方が笑みを浮かべた理由は儂の言葉しかないわけで。あの様子じゃ、少しの私情もお見通しかな。聡いお方よ。
だがまったく。こんなに早く死に場所を思い定める羽目になるとは思うてもおらんかった。まあ良い。これで陛下からの勅命は果たせただろう。あとはしっかり仕事をするだけよ。
でもなぁ……。やっぱり、いきなりすぎだよなぁ……。
「父上 !」
ん? お、来たか。
「どうした、ダレット。そろそろ行かねばまずいぞ? 」
「いえ、用意は既に整っております。後は私が号令をかければ、すぐに走り出しますよ」
「じゃあ、何だってんだ?」
「一言、申し上げに参りました」
「一言? あぁ、もしかして」
俺に似ず几帳面というか。でも、そういやそれ、今まで俺らどうしでは一度もやったこと無かったしな。最も、必要もなかったし、必要になってほしいとも思ったことはなかったのだが。
「分かった。じゃあ、そっちから言え。それに返すから」
「承知。では父上」
ご武運を!
「おう、そっちもな。……ダレッド。武運長久を、祈っているぞ」
生真面目な息子の大声に対し、噛みしめるように、言葉を返す。
二人で真逆の方向に歩き出す。
俺は後ろに、あいつは前に。二度と交わりはしないだろう。だから、振り返りなどしなかった。
息子の号令が夜空を切り裂く。それに合わせて馬車が先程よりも激しく音を立てて走り出しそして、最後には。
何も聞こえなくなった。
「……行ったか」
もはやこの世に未練はない。
仕えた主も、その主に共に仕えた同世代の友人達も既にあの世への道を歩んでいる所だろう。
あいつらの中で1番遠く、遅く死ぬのが、一番年長の儂というのもどこか皮肉だがな!
ただ……。息子世代の成長を見届けられなかったのは残念な気がしなくもない。特にアーノルド殿下。陛下の遅くなってからの子でもあるしなぁ……。まあ、未練はない。ないったらない。
「未練たらたら、という顔ですな、隊長」
うおっ!?
「うおっ!? 」
あ、心の声が漏れた。
「驚かすなよ……、副長」
「驚かすつもりで声をかけました。悪く思わんでいただきたい」
変わんねぇなぁ、こいつは。俺の世話役についた時からずっと変わらん。主をからかって遊ぶところとか特に。
「お前……。平然とした顔でいつもふざけたこと宣うよな」
「それが、私のもう一つの仕事であると考えていますので」
そして、今も変わらない。確実に死ぬ未来が間近に迫っているのに、普通に俺をからかう。それのおかげで少し落ち着けるというところも、実際なくはないんだ。絶対言わないけどな。どうせわかってるし。
「あっそう……。まあ良いや、お前が来るってことはよっぽどなんだな?」
「察しが早くて助かります、隊長。えぇ、あとまもなくで会敵するかと」
「そうかい。じゃあ前に行くか。で、お前は後ろな」
「承知しました。魔法士達の指揮はお任せを」
「任せた。それじゃあな」
副長を名乗らせるのには、それなりの理由があった。こいつが魔法を扱う部隊を指揮すると、俺が前で暴れやすいったらないんだよ。
「はっ。では、隊長もとっとと行ってくだされ。さもなければ後ろから撃たせますぞ」
こんな緊迫した場面でも、まだ俺をからかう。それに乗っかる俺も俺だが。
「何をだよ!」
「少しはご自分で考えては如何でしょうか。この程度のことも分からないようでは、私は心配で心配で、うっかり手を滑らせてしまうかもしれませぬ」
「流石にわかるよそんぐらいは……。ちなみに、手が滑るとどうなる?」
「敵ではなく隊長に攻撃が集中します」
「やっぱりな!んなこったろうと思ったよ!ほんとお前ふざけてんな……」
「褒め言葉として受け取っておきます」
ただ、からかうのはギリギリまでで、決して戦に影響が出ちまうようなへまはしない。こんな風に。
「殿。こんな無駄口を叩いていられる時間も、終わりのようですな」
「みたいだな……。じゃあ、行くわ」
「ええ、では」
どれどれ、戦かぁ……。幾らかでも生き残ることには、今回は期待できないな。
んでもって……。見えてきたな。あれが噂の狼共か。見た感じは、五十、百、……二百?報告じゃあ三百だったよな。黒の狼……。北の防壁からの伝令が言うに、「影」としか言い表せない獣。まさか……。
「隊長!」
「報告か。もしかして、百匹ほど急に消えたか?」
「はい。まるで暗闇に溶け込むように消えたと……」
「決まりだな」
「はっ?」
「多分影の属性を持ってやがる、あの狼共。でもって、それなりに頭も回るらしい。こっちとしてはありがたくないことにな。百で馬車を奇襲するか、こっちの後ろを突くかだろう。こっちに来るならまだ良いが……。殿下方に行ったらまずいな」
「では我らから増援を……」
「それはできん。今でさえ四百だ。百も割いたらすぐにこっちが崩れるし、それより小さきゃほぼ意味が無い。行けるとすればあいつらを全滅させてからだな。とりあえず誰か風の魔法を使える奴、ダレットに連絡してやれ」
1人が駆け出していく。さらに、報告に来た兵士が俯きながら言葉を返してきた。
「そうですか……。しかし、それは……」
「ああ、無理だろうよ。滅法強いって話だからな」
そう、あの狼共は強いのだ。王都に残ってたのは精鋭だけだ。その四千五百が精々二千の狼共に全滅させられ、なおかつあいつらは追撃まで放ってきたのだ。強くないはずが無い。そしてそれが、御伽噺みたいな存在だったあの化け物どもの立証にもなっている。
「悔しいか?」
まあ、悔しいだろう。儂とて悔しいのだから。
「はい……」
「じゃあ俯いてねえで、あの狼共を1匹でも多く殺す準備をしろ。悔しさを糧にして多く殺してから死ね。それしか今の儂等には出来ん。しかも、それが殿下方の逃げる苦労を減らすんだ」
「……!」
お、顔を上げたな。殿下方って言ったらすぐに顔を明るくしやがった。
「よし、じゃあ行け!儂もすぐに行く」
「はっ!」
さてはて……。後の結果は、奥方次第か。軍人としては女性頼りというのも歯痒いのだがな。
それに、だ。なぜ狼共は馬車を狙うように消えたんだ? あいつらを引き付ける「何か」があるとでも?
まあ、これから死ぬ人間が考えても無駄か。
「隊長! 狼共が見えてきました!」
「来たか。よし、道を塞ぐように円陣だ! 儂等の所にのこのこ来なすった狼共は一匹たりとも通すなよ!」
「おう!」
次の瞬間、後ろから風の刃、炎の矢、水の槍まで一度に飛んでくる。
副長め、張り切ってやがるな……。これは負けられん。
「よし、儂も前に出るぞ。狼共に切り込む。命が要らねぇ馬鹿はついてこい!」
怒鳴りながら、狼どもに向かって突っ込む。どうにも荒くれものみてぇな口調になっちまうが、これはもう若いころからの癖だ。どうにもならん。ついて来てるのは大体百五十ってところかね。顔ぶれを見るに、当然だがどっちかっていやぁ、剣だの槍だのを振り回すのが得意な奴らだ。
中の百が肝心の魔法士で、残ったのはそいつらの護衛。そこんところはあいつに任せとけばいいか。俺の役割はあいつの割いた兵隊でできる限り派手に「ガァァァ!」暴れることだからな…っと。おお、危ない。
いつもの確認を頭ん中で済ませながら、飛びかかってきた狼を頭半分切り飛ばすような具合で切り裂いてやったが……。どうにも手ごたえ無いな、こいつら。なんだこれ?
いや、力は十分だし、奴らの武器である牙も爪も、恐ろしいまでに研ぎ澄まされてる。獣の癖に、鋭いんじゃなくて研ぎ澄まされてやがるのさ。挙句の果てには木々、俺ら、馬……。そんなものの影からも飛び出してくる。今もそこで二人ぐらい、一気に吹っ飛ばされていったしな。
だがよ。真っ直ぐすぎるんだ。いくら不意を打たれるような場所からって言ったって、直線的に突っ込んでくるだけなら、最初に驚いて少し焦るぐらいでしかない。影から来ることが分かってるなら、飛び掛かられる前にうちの兵隊どもはすぐに切り伏せる。
影から襲ってくるっつっても、影は地面にしかないものな。いくらかの猶予がある。おまけに、分裂もしないんだから頭数を増やして、同時に襲い掛かることも中々できない。よしんばできたとして、だ。儂らには魔法の援護がある。
今も、儂の目と鼻の先を掠めていった魔法が狼に命中して、飛び掛かっていく軌道が少しずらした。で、その隙を突いて……「ザクッ」っとやるわけだ。利きはしてないみたいだが、それでも衝撃は入るらしい。副長もそれを重視して、扱いやすくて簡単に衝撃を出せる、風の魔法が型も整えずばんばん飛んでくる。最初の大盤振る舞いは様子見でもあったか。
まあ、つまり。最初の予想より弱くて困惑してるわけだ。これは絶対におかしい。こいつらは王都に残した兵隊を全部殺しつくしてきたはずだ。それは間違いない。何せ王都が燃え上がっているのが空の色から分かるからな。
……王都には、奥の手が一つある。言わば、死なば諸共ってことなんだが。人でも魔物でもいいが、王都に入り込んだ敵の魔力総量がいくらかになると、そいつらから全部搾り上げて王都ごと燃え上がるってやつだ。
そしてこの時搾り上げるのは、王都の中にいる全員から、だ。だから全滅する前に兵隊を城の中に引っ込めて、相手の目算より早く発火……という真似もできる。敵味方の区別がないってことだな。最悪だ。考えたやつは絶対ろくでなしだよ。
そんなろくでもない王都が燃え上がるのは、ろくでもない状況になった時だけ。で、今この状況でのろくでもない状況ってのは考えるまでもない。
王都に残した軍が、全滅することだ。
ずっと王都のことを考えながら、狼をサクサク切ってきたわけだが。飛び掛かってくる狼どもがいなくなったもんで目をあげてみると。おかしなことに気が付いた。
周りに、何も残っていない。勿論、狼の死骸が、ってことなんだが。残っていないということは、消えた、としか考えられない。では、なぜ消えたか。
ちょっと馬を止めて、今切ったはずの狼の死骸を見続けてみる。
するとまあ、信じられんことが起こった。影となり、まるで周りに溶けだすように消えていったのだ。
「おいおい、冗談じゃないわ」
力ない笑いまでもが儂の口から零れる。こんな声を出したことはいくらもないが、これはさすがに笑い飛ばせん。文字通り、儂らは今まで実体無き影と戦っていたわけだ。『影』の魔法とはいえこんな洒落にもならん物を狼が使ってくるなど誰が予想できようか。この分では、儂らでは想像できん力がまだあるのだろう。
これを見て、変に手ごたえがないのにも合点がいったわ。影なのだ、本体ではない。何故影をわざわざ出してきたのかは知らぬが、結果として兵隊は消耗している。儂ならここで、本体を出すがな……。と、そこまで考えたところで。
地に消えたはずの影が蠢き、動き出していた。それは儂らが今立っているところからだけではなく、進んできた道を流れるようにしても向かってきている。
恐らく、この影が何某かにはなるのだろう、とすぐに想像はついた。かといって、それを止める手立てがあるわけでもなかった。果敢にも斬りかかっていった者は、影に何ら傷を負わせることもなく、吞まれていったからだ。故に、影が実体を持ってゆくのを、儂らは呆けながら見つめるしかなかった。そして、影の流れが止まり、何もいなかったはずのそこには。
そこには、今の予想をその存在をもって肯定してくれる存在があった。
その『影』は、狼の形をしていた。その『影』は、片目が欠けていた。しかしそれが、もう片方の目の知性を引き立てていた。
その『影』には、腹に巨大な傷跡があった。しかしその傷は、その『影』の何かを損なうということは微塵もなかった。
その『影』は、その巨躯を、さらに憎悪と敵意で膨らませていた。それでもその『影』は、美しかった。
美しい、というほかない。たとえその美しさが人間に対するあまりにも純粋な憎悪からのものであったとしても、美しいことには変わりない……。これで儂が宮廷にいる文官の類でもあったのなら、すぐさま詩の一つでも書き上げておっただろう。柄にもなく、そんなことを考えた。どうにも今日は、柄でもないことがいささか多い。
儂と周りの兵士がその『影』の王……考えぬでも見ればわかる……の姿にひとしきり見惚れ終わると、しかしそれでも魔物らしく、その美しさを枉げる本能の笑みを浮かべた。
そしてその巨躯はさらに膨れ上がり、天の月光すらも遮り、儂らすべてを影に包み込んだ。
儂らが、影からの奇襲に対抗できていたのは、影が少ない場所で戦うようにしていたのと、百人からの魔法の援護のおかげだ。そしてこの王は、それを最も単純な形で解決した。つまり、地を影ですべて覆い、百人では対応できぬだけの狼を生み出すことだ。
今ここにおいては、王の下はすべて影。どこよりも出で、どこへでも去る。そんな場所にいた儂らは、なすすべなく、影の奔流に呑まれた。