第5話【視察】そのいち
そこに立っていたのはひどく美しい女だった。
俯きがちに憂いを帯びる、そこらの宝石など路傍の石のように思えるサファイアの瞳。腰まで流れるストロベリーブロンドは陽を受けて天使の輪を形作る。まだ体つきは子供のそれであるが既に異性の視線を引きつけ、少女から羽化せんとする儚げな魅力に満ち溢れている。
広場の噴水の前に楚々と立つその女に老若男女問わず誰もが目を惹かれ、見惚れた。
あれこそは至高の美。神のつくりたもうた至宝であると。
そうして誰もがその言葉を思い浮かべる。
ああ、彼女はまるで……天使のようだ。
そこで、何人かの女がふと目線を横にやった。向こう側から優雅な足取りで一人の男が歩いてくる。格好は少し良いところの坊ちゃんといった風であるが、自然と滲み出る高貴さは隠せていない。
つられてそちらを見やった何人かが感嘆のため息を漏らした。
その男もまた、この世のものとは思えぬ美貌を持っていた。深みのある金髪は天の煌めきを宿した絹糸のようであったし、思慮深い光を湛えた紫の瞳は光の加減によって力強い生命のごとき紅を纏う。豪奢な上着の中の鍛えられた肢体とは裏腹に、幼い少年のような何処かあどけない表情が薄氷のごとき危うさを孕んでいる。
女としての美が彼女ならば、男の美の具現が彼であろう。
広場にいる全ての人間が今日ここにいることを神に感謝し、男が女に近づいていくさまを恍惚の中で見た。
男の気配を察してか、はっと顔を上げる彼女の瞳には涙が滲んでいる。その揺れるサファイアに男を映した女は口を開いた。
「遅えッ!!! 姉御と義兄さまが行っちまうだろうが!!!」
鈴のなるような声であったが、いかんせん声量が巨大である。
美麗な男が驚きを示して、女に答えた。
「あァ!?!? 時間通りだ時計見やがれ!!!」
男の怒声に天使のような女――ミシアが舌打ちする。それに男――ルードは鼻を鳴らした。
ミシアがまた口を開きかけたところで、「お静かに」と別の声が遮る。
彼女が凶悪な目つきでその声の主を見据えた。呆れを含んだため息を吐く声の主にルードは瞳を瞬く。声の主はフォゼンという最愛の兄の側近を務める男だった。その隣にはどことなく雰囲気の似た貴族令嬢が扇子を手に立っている。
彼がじろりとふたりを睨め付けた。
「大声を出したらティード殿下と婚約者さまに気づかれてしまいます」
「あと、待ち合わせももう少し目立たないようにして欲しかったですね」
後を引き取ったのは後ろの貴族令嬢である。ミシアはその令嬢を最愛の姉の情報源として認識している。確か、名はイユレといったか。栗色の髪と黄の瞳を持つ気が強そうな少女だ。姉と同い年であるはずだが素の顔立ちはいとけない。普段学園では化粧で無理やり気が強そうに彩っているものの、今日は目立たないようにと考えてのことだろうか、殆どすっぴんに近い装いである。面差しが似ている隣の男と並ぶとまるで対で作られた人形のようだ。
冷静な指摘に美しい男女は黙り込んだ。
「今日は隠密行動ですよ、気をつけてくださいね」
フォゼンがふたりに笑いかけるが、その目は笑っていない。今日は何よりも気配を消すことが求められる。それには大声を出したり人の目線を惹きつけるなど言語道断であった。
痛いところを突かれた、という風に言葉に詰まった様子のふたりにイユレが口元を綻ばせる。常々エリシアにせっせとミシアのかわいらしさについての講義を受けていた彼女は、エリシアの語る通りの反応に思わず和んでいた。
イユレの楽しげな面持ちに呆れたような視線を送ったフォゼンが促す。
「それでは、そろそろ行きましょうか」
その言葉に三人が緊張した面持ちで頷いた。
澄んだ青空が美しい晴れの日。
ティードとエリシアによる視察という名のデート……の尾行は、そうして始まった。
*
デートで一番事前に頭を悩ませるのは何か。ティードに限って言えば、それはデートプランである。まずどこに行き、何をして、次にどれほど歩き、どこで何を……。そこまできっちり考えない方がいいと側近は言うが、生真面目な性質のティードはかなり細かく予想を立てていた。とにかくきっちり道筋を決めておかなくては落ち着かないのである。
待ち合わせは昼少し前だ。
三十分は早めに来るようにと側近に注意されたが、その心配は無用だった――ティードがそこに着いたのは待ち合わせより一時間も前の時刻。逆に早すぎると側近に怒られそうな有様である。
彼は懐中時計で現時刻を確認するとそれを懐にしまい、待ち合わせによく使われる初代国王の銅像の前、設置されたベンチに座り彼女を待った。
視察とはいえ、民に告知せずお忍びで行うために今日の彼は庶民じみた軽装だ。立ち居振る舞いで彼を侮る者がいないように――弟が暴走する可能性を減らす努力のために、いつどこでも隙のない服装を心がけていた彼にとっては些か頼りなくも思える。しかしその頼りなさが一層彼の気分をふわふわと浮き上がらせた。
端的にいえば、子どものようにはしゃいでいたのである。
その軽装で王都の喧騒に溶け込んでいたティードは、待ち合わせ場所でまんじりともせずに婚約者を待つ。このまま彼女を迎えに走り出したいほど浮かれきった気持ちを冷ましてくれる時間が多少あったことは、今となっては僥倖とさえ言えた。
視察についてくるかと思えた弟がやけに聞き分けよくにこやかに彼を見送った時のことを思い返していると、「……ティードさま」と聞きなれた声が鼓膜を叩く。
婚約者エリシアのご到着だった。
声の方を振り仰げば、そこには表情筋が死んでいるものの、瞳に申し訳なさそうな光を宿したエリシアが立っていた。学園のドレスじみた服ではなく、シンプルなつくりのワンピースを身に纏っている。薄い黄色の生地に赤みがかった橙の花飾りがあしらわれたそれは深い紅色の彼女の髪とも調和しておりよく似合う。ティードは息を飲んで彼女の姿をまじまじと見つめた。
無言の彼に、エリシアはおそるおそる問いかけた。
「待たせてしまいましたの?」
「いや……わたしが早く来すぎただけだ」
そう口に出してから、側近が「待たせたのかと聞かれたら今来たところと返すのですよ」とくどくど言っていたことを思い出す。失敗した。一応事前に会話もシミュレーションしたのだが、やはり想像と現実は違うのである。
彼女は呆れただろうか。流石に一時間は早すぎたのではとも思っている。頭でわかっていても身体は欲求に素直に動いてしまうが。
エリシアは表情を変えず淡々と言った。
「ティードさまをお待たせしてしまったことは悔しいですわね。次は私も早く来ますわ」
「いや、それだと待ち合わせ時間の意味がないだろう」
「それではティードさまもあまり早く来すぎませんように」
呆れたと言うよりかは窘めるような物言いの彼女にティードは素直に頷く。
今日はすっかり頭から抜けて落ちていたが、一人になることはあまり褒められたことではない。何故なら、一人になった彼に絡んでくる人間がいたならば、彼らは弟たちによって粛清されてしまうからである。偶然彼にちょっとした因縁をつけたばかりに弟に襲撃される不幸な人を増やしたくないという、民に対する慈しみは常に彼の胸中にあった。
もっともその不幸な人々に威嚇する弟がちらりと見せる兄を心配する顔がかわいらしくてわざと一人になることもあるが……無論、相手は選んでいる。
しかし今日の建前は視察である。彼にはその気配を察せないが何人か警護の騎士が付いて来ているはずであった。それに誘った者の義務として、たとえチンピラが襲ってこようとも彼女を守り抜く覚悟はある。これでも――弟と側近には負けるが――武術は学んでいる。一応彼女よりは強いはずだ、恐らく。彼女の妹を思うと不安になるが。
あの少女は何故あんなに強く逞しいのだろう。エリシアと同じくらい華奢で大人しそうな外見をしているのにも関わらず、この前彼は一瞬で伸された。何が起こったのかわからないくらいに素早い動きで痛みもなく困惑とともに暫く呆然と横たわっていた。その義妹と弟は互角の強さだというのだから、どうやら弟と側近は彼と相対した時、彼を精一杯優しく倒してくれたらしい。
「……どうかなさいましたの?」
「いや、君の妹はちいさいな、と……」
エリシアは不思議な顔をした。何か、驚いたような疑うような……それでいて、どこか同意がうかがえる。
「わたしは何かおかしなことを言っただろうか」
「いえ、恐らくティードさまに他意はないことはわかっているのですけれど」
「他意?」
彼は首を傾げた。それを見た彼女は深々と溜息をつき、「なんでもないですわ」と言を引っ込める。彼女の様子が少しばかり怪訝であったが、なんでもないと主張するからには話す気は無いのだろうと察した彼は彼女に手を差し出す。エスコートの手だ。
道端でエスコートをする庶民のカップルなどいるのかと疑問を抱いたものの、デートプランを共に練っていた側近が目を血走らせて必要性を強く諭してくるものだから自然と手を出してしまった。
その時の鬼気迫る様子に側近の恋愛遍歴に強い興味が湧いたものだ。確か、側近にはイユレという従妹がいるらしいから、今度その令嬢に接触して側近のことを詳しく聞いてみようと思っているのだが。その素朴なかわいらしいご令嬢とやらが見つからないので保留にしていた。
そこまで考えて、ティードはひどく浮かれている自分に気づいた。考えが取っ散らかっている上に脈絡もない。
思考に飛ばしていた意識を先程から反応のない彼女に戻すと、恥ずかしそうに周囲を窺っている。彼女は妹以外にくっつかれることをひどく厭うから、エスコートが嫌なのかもしれない。義妹に負けた現実からそっと手を引き抜く。
「あっ」
思わずと言ったように、彼女がちいさな声を上げた。どうした、と聞けば彼女は躊躇いまじりに呟く。
「その、手を……」
「手を?」
「……ティードさまと手を、繋ぎたいのですけれど」
頬を赤らめて見上げてくる彼女に、彼はたいへんな衝撃を受けた。
――ああ、これが、かわいいは正義という気持ちか……。
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