壱
黙りこくった男女が、向かい合って座っている。
狭い部屋には、片隅に長持が一つ置かれているだけで、他には何も見当たらない。家具といえるものが全くないのだ。その為、部屋を狭く感じることはなかった。
男は長持から視線を移すと俯いたままの女を見つめ、静かに口を開いた。
「理由をお聞きしても?」
女はしばらく俯いていたが、ようやく顔を上げた。男は初めて女の顔を正面から見た。だが、女の目は男を見てはいなかった。真っ黒な瞳は思い出をたどるように、宙を見つめていた。虚ろな目をした女は、今まで見た中で一番穏やかな表情を浮かべていた。
初めて男は、女から目をそらした。
「では、どこから話しましょうか」
女は幸せそうに微笑んだ。
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今は何という時代だろう。
此処は何という街だろう。
私は何という名前だろう。
そんなことは、どうでもいいことです。
ヤツギさんさえいれば、それで良いのです。
ヤツギさんは、街で一番の大店を持つ名家の一人息子でした。ヤツギさんの住む屋敷はとても立派なもので、大勢の女中が住み込みで働いていました。私もその一人で御座います。女中は皆、ヤツギさんのことが好きでした。
艶やかな黒い前髪から覗く、太いしっかりとした眉。どこか病弱そうに見える白い肌。知的で凛々しいお顔は、微笑むと子供のように無垢で可愛らしいお顔になりました。ヤツギさんの人懐っこい笑みを向けられて惚れぬ女子はこの街にはいません。ヤツギさんも、来るものは拒まずという様にいつも違う女と肩を並べておられました。女だけではありません。ヤツギさんの物腰柔らかな立ち振る舞いや、優しげな話し方は、男女を問わず人を惹きつけました。
だから、いつも周りには人がおりました。
私もその中のひとりにすぎませんでした。
ヤツギさんと出会ったのは、私がこの街に来て間もない頃でした。
奉公先のヤツギさんの屋敷に女中として働き始めた私は、不慣れなことも多くこの街にこの屋敷に、馴染めずにおりました。人には得手不得手があると申しますが、残念ながら私はやることなすこと全てが不得手でした。様々な失敗を積み重ね続け、何故上手くいかぬかという怒りはとうに消え去り、情けない気持ちで一杯になっておりました。
私は何をしに此処まで来たのだろう。
私はどうして此処にいるのだろう。
ある春の昼下がり、私が女中頭に叱られて……といっても何で叱られたのかは忘れてしまいましたが、中庭の井戸の傍で泣いていた時のことでした。
「ああ、いけない。こんなに可愛らしいのだから、泣いているのはもったいない」
ヤツギさんは私を見つけて、優しく微笑みかけてくれました。
見事な桜の木が屋敷の庭に幾本かありまして、私のいたところにもちょうど綺麗な花を咲かせた桜が一本植えられておりました。ヤツギさんは花のついた細い枝を手折ると、私の髪にさして「ほら、君は桜が似合う姫なんだ」とおっしゃいました。
私はなんだか嬉しくって、おかしくって、気づけば声を出して笑っていました。ヤツギさんもそれを見ると、満足そうに笑いました。私はどうしてそんなことを言って下さるのかと不思議に思い、そう尋ねました。隣に腰かけたヤツギさんは、桜から私に視線を移すと、無礼な女中の質問に答えてくださいました。
「可愛い女の子には出来るだけ長くいて欲しいからだよ。君は辞めたりしないだろうね」
その目には、黒い夜が広がっておりました。淡い桜の花弁も、うららかな空の青も、目の前にいる私さえ映ってはいませんでした。
その虚ろな瞳に、私は心を奪われていました。
きっとこの時のためだったのです。
私は、ヤツギさんのためにこの街に来たんです。
そして、ヤツギさんのために此処にいるのです。