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主人は副業小説家2

作者: 吉城

 結婚して半年、最近の彼は副業に勤しんでいる。どんな話を書いているのか気にはなっているが未だに聞けていない。彼の担当編集者の市川から一番おすすめだと渡された本も、最初のページを開いただけで仕舞ってしまった。

 彼と出あったのは結婚する一年前で、交際期間は半年程だ。まだまだ知らない彼の顔があり、今それを知る機会が巡ってきている。そうわかっていて踏み出すのを恐れていた。

「水族館にいかないかい」

 これは久々のデートということだろうか。二つ返事をして、早く土曜日が来ないかと楽しみに待った。せっかくだから可愛い服を新調しようと出た買い物も、独身の時のように胸がときめく。生憎彼はそういう小さな変化に気付いてくれないのだととっくに知っているのだが。

 車で一時間程の距離にある水族館に彼と来たのは二回目だ。初めての時は確か、他県からも観光客の訪れるそこに行ったことがないと春が言い、じゃあ一緒に行こうと彼が誘ってくれた。また交際が始まる前で、彼への認識は一度食事に行った取引先の人だったが、その時から人とは少し違う雰囲気に惹かれていたのだろう。終始心臓がうるさかった記憶がある。

 さすが休日は水槽の前の人だかりで殆ど魚など見えない。あの時もそうで、一番大きくて見やすい水槽をずっと眺めていた。

「前もこの水槽、ずっと見てましたね」

 結局今回も他の水槽の人だかりを避け、前と同じ場所で同じ水槽を眺める。あの時と殆ど変わっていないというのに、隣にいる人との関係が変わっただけでこんなに新鮮に見えるものなのか。いや、前回は緊張であまり覚えていないからだろう。

「ここでずっと魚を見ていると、いい構想が浮かぶ気がするんだ」

 彼はよく水族館に来ると言っていた。そしてこの場所がお気に入りなのだと。その時は彼の副業を知らなかったからただ魚が好きなのだと思っていた。

 最近の彼は夜遅くまで書斎に籠もり、ずっと執筆をしているらしい。彼のプライベートな空間に簡単に足を踏み入れる気になれなくて、掃除の時以外はそこに入ったことがないから本当にずっと執筆しているのかは知らないのだ。そもそも本を書くのにどれくらいの時間を要するのかさえ春には見当もつかないのだが、執筆は順調なのか行き詰まっているのか。もし順調ならこの時間さえ惜しんで書いているだろうし、行き詰まっているのならどうしてここに来たのか。

 ああ、そういうことだったのか。さっきまで輝いて見えた魚たちが一瞬で嫌なものに見えてくる。デートなんて浮かれていたのは自分一人だったなんて、滑稽な話だ。

「春?」

 ついさっきまで食い入るように水槽を見ていたのに、顔を逸らしたのが気になったのだろう。賑やかな館内に気を遣い、彼の穏やかで優しい声が耳元で聞こえる。不満を口にするのは簡単だ。彼は優しいから、簡単に自分が悪かったと頭を下げられる。だからこそ、言いたいことも言えなくなるのだ。

「今日の晩ご飯、魚にしようかなって」

「ああ、いいね。帰りにスーパーに寄ろう」

 彼は優しいから、春が言わなかったことがあることにも気が付いているだろう。しかし聞いてくることはない。彼は優しいのだ。

 それから春の頭は今晩の献立でいっぱいになり、嫌なことはすべて消した。彼は飽きずに水槽を眺めている。ずっと同じ景色なのに何が楽しいのだろうか。それすらも聞けないのだから、副業について聞くことなんてもっと困難だ。

 帰りにスーパーに寄って並んでいたお買い得の魚を入れたカゴを持ってくれる彼は端から見ても良い旦那さんだろう。家に帰ってキッチンに立つ春に今日は手伝うよと言ってくれるのも、友人に言わせれば理想の旦那さんだ。元から長く一人暮らしをしていた彼の料理の腕は並で、結婚してから料理教室に通い始めた春とそれ程変わらない。出あった時こそそれでさえ素敵に見えたが、今の心境では後ろ向きに考えてしまいたくなる。果たして彼は結婚する必要はあったのだろうか。

 夕食後、最近ならすぐに書斎に籠もる彼がコーヒーをいれようと湯を沸かす。結婚してからはコーヒーメーカーに豆を入れボタン一つでいれていたから、彼がハンドドリップする姿を見るのは久々だ。初めて見たとき、まるで口下手なマスターのいる喫茶店みたいという陳腐な感想に、彼は成る程と笑っていた。

「信行さんのコーヒーが一番好きです」

 渡されたお揃いのカップに口を付け、熱いそれをそっと口に含む。同じようにハンドドリップでコーヒーをいれたいと言った春に彼は丁寧に教えてくれたが、何度やってもこの味にはならなかった。それがどうしても気に入らなくて、自分には才能がないのだとコーヒーメーカーを買ってしまったわけだが。

「僕は春のコーヒーが好きだよ」

「ボタンを押してるだけなのに?」

「コーヒー豆、拘っているだろう」

 確かに彼がコーヒーが好きだと知ってから少し勉強をした。少しでも共通の話題が欲しかったのだ。結婚してからはコーヒーを飲んだ後の彼がどんな反応をするか盗み見て、香り高くコクが深めの今のコーヒー豆に辿り着いた。

 春が髪を切っても、シャンプーを変えても彼は気が付かないと思っていた。しかしこんな小さなことに気が付いていて今まで口にしなかったということは、今までずっと気が付いていても口にしないだけだったのかもしれない。春の機嫌が良くないとわかっていて何も聞いてこない今のように。

「……今日は、お仕事しないんですね」

 並んでソファに座りテレビを眺める。久々にそんな時間を過ごす彼に、何事でもないように装って訊ねる。今日水族館に行ったのは執筆に行き詰まっているからで、帰ってきたらすぐに書斎に籠もると思っていた。

 彼は少しだけ間を空けて、春の小さな手に自分の手を重ねる。いくら手入れをしていても荒れてしまうそれを愛おしそうに包みこんだ。

「最近はずっと書いていたから、今日一日は春と過ごしたかったんだ」

 そう、言わなかったかな。なんて、八の字になる眉を見て気付かされる。執筆に行き詰まっているとか、気分転換に付き合わされただけとか、勝手に辿り着いた考えだ。彼は出掛ける準備に手間取るのも、ランチメニューに悩んで決められないのも、夕食の魚を煮るか焼くかで決めかねていた時も、全部春に合わせてくれていた。元から彼は優しいから気が付けないでいたが、今日はさらに特別だったのだ。

「いつもより可愛らしい格好をしていたから、春も同じ気持ちだと思っていた」

 ごめんねと謝る彼の手に、空いた手を重ねてきつく握る。謝るべきは自分だと思いながら、勝手に失望していたことが情けなくて口にしたくない。

「水族館、また行きたいです」

「そうだね。今度は空いているときにしよう」

 久々に一緒に入るベッドはやたら狭く感じて、いつも以上に身を寄せる春の躰を長い腕が包みこんだ。

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