村雨美由梨と悪夢の夜
部屋の冷房の設定温度を極限にまで下げ、私は無心で作業に没頭していた。
口の中を歯ブラシとスポンジで洗浄。その後、口が開かないように顎の下に巻いたバスタオルを入れて固定する。
次に、腹部を圧迫。中身を出来うる限り引きずり出し、沐浴剤をいれたぬるま湯で洗浄。終わった後は服を脱がし、濡らしたタオルで全身を満遍なく拭い、抵抗のなくなった手足を動かして浴衣を着せる。
こうして、死体の簡単な整容とお清めが終わり、私は静かに息をついた。
お葬式に立ち寄ったのは、随分と昔。小学校低学年位の時のこと。正直欠片も記憶はなくて。故にこうして家族や親類でない死体に触れる日がくるなんて、想像すらしていなかった。
改めて、魂の抜けた坪井さんの身体を見る。さっき目が合ったその顔はすでに白い布がかけられている。
思い出した時に身体がブルリと震えるのは、決して部屋の寒さから来るものではないだろう。
『長い間こういう仕事してるとね。不思議な現象に遭遇した。なんて人は沢山いるわ。気にしなくていいわよ。私もこれで三回目だし』
そうあっけらかんと言ってのけたナースさんの声が頭から離れない。
曰く、霊感なんてふわふわした事はわからないが、はっきり確認できない。更には説明しようもないので、もう割りきるしかないのだという。
本当にそんな人がいるかは知らないけど、常に視えてないだけまだいいんじゃない? ナースさんはそう締めくくった。
だから私も、もやもやと胸につっかえる疑念を抑え込んだ。
「失礼しました」
返事など返ってくる筈がないのに、そう一言述べて。私は部屋の電気を消して、ドアをしっかりと閉めた。
坪井さんの家族は、明日の朝に来るとおっしゃっていた。特に何の感慨もなさそうな、あまりにも冷淡な声に私が別の意味で震えてしまったのは、今はいいだろう。
幸いだったのは、坪井さん自身が死の間際、そこまで苦しまなかったこと。そう思う事にする。
明日は施設の医師がいないので、坪井さんの遺体は翌朝に病院へ搬送される手筈となった。
夜通し働く私のフロアに死体が安置されているという事実はやはり心を抉るものがあるが、これはもう職務上避けては通れないものなので割りきろう……。そこでなんとなく、毎日面会に来ていたあのご友人はどんな顔をするだろうか。ふとそんなことを考えた。
「うわっ、もうこんな時間?」
そうこうしているうちに廊下を横切り、夜勤中に常駐するスペース、Cフロアに戻ってくれば、既に時刻は一時半に差し掛かろうかという所だった。
見回り、もう一度行かなきゃな。そんなことをぼやきながら、また端の部屋から様子を見に行こうと歩き出して……。薄暗いフロアのテーブルの前に、誰かが座っているのに気がついた。
「――っ! って、なぁんだ。山木さんじゃないですか」
思わず身を硬くしかけたところで、ホッと一息。
座っているのはここに入所しているお爺ちゃんの一人山木さんだった。
何十人もの老人がいるならば、当然深夜に目が覚めてしまう人も現れる。そんな当たり前な事だというのに身構えてしまった自分がおかしくて、私はいつもの倍以上に明るい声で、ぼんやりと座っている山木さんに話しかけた。
「や~まきさん。まだ真夜中ですよ~? どうかしましたか?」
「いや、な。部屋にお爺ちゃん入ってきたんだよ。今もいる」
「…………へ?」
一ミリ足りとも予想していなかった返答に、自分の表情が凍りつくのを感じた。
一度山木さんの顔を見て、今度は山木さんの部屋を見る。入り口は閉ざされていた。
「お、お爺ちゃんって……。やだなぁ山木さん。寝惚けてたんじゃないですか?」
「いや、そんなことは……寝惚けてたんかなぁ? 何か寒くてよ。目を開けたら落武者みたいに頭が禿げた爺さんが傍に立っててなぁ」
嘘であってくれ。そう思いながらそういえば、山木さんはますます話を恐ろしくしていく。
彼が言う部屋に現れたお爺ちゃんとやらの特徴は、紛れもなく坪井さんのものだったからだ。
山木さん自身、冗談はたまに言う人ではある。けれども、彼はCフロアにずっと住んでいるし、ましてや隣のDフロアにいる、寝たきりで部屋から出たこともない坪井さんの名前は愚か、容姿すら知らない筈なのに。
「ちょっと見てくれよ。気味が悪くて部屋から逃げてきたんだ」
お前男だろこの野郎という悪態が出かけた私を責めないで欲しい。それでも、部屋を確認しないと山木さんも寝てくれそうもない。
今から朝までずっと起きていたら、老人の体力なんてあっさり底をついてしまう。そうなれば、翌朝にやってくる他の職員にも迷惑がかかる訳で……。
「そ、そこにいてくださいよ?」
ままよ。と、開き直り、私は山木さんに念を押し、そっと扉に手をかける。
寝惚けてたんだ。寝惚けてたんだ。と唱えながら扉を開けて、私はすぐにその場から飛び退いて……。
「……ん~?」
やっぱりそこには、誰もいなかった。
ただ、冷たい風が奥から吹き抜けてくる。どうやら窓が開いているようだ。
「い、いないじゃないですかぁ、誰も」
「いや、いたんだよ確かによぉ。ざわざわぁって寒くなってなぁ……」
「でも現に……ってか、窓開いてますよ? そりゃあ寒くもなりますって」
ホッと胸を撫で下ろし、私はズカズカと部屋に入る。手早く窓を閉めて施錠し、そのまま山木さんの手を引いてベッドまで誘導すした。
「開けっ放しで寝たから、夢見が悪かったんですよきっと。暖かくして、横になりましょう。まだ深夜ですから」
まるで自分自身にも言い聞かせるように私がそう言えば、山木さんは物凄く納得がいってない顔で毛布を被る。
変に考え込まなくていいから、休んでくれ。私はそう願いながら山木さんに一礼し、部屋の出口に向かった。これ以上この人と会話していたら、知りたくもない事がどんどん発掘されてきそうだったからだ。
「だがなぁ……。そもそも俺、窓なんか開けた覚えないぞ?」
もっとも、既に手遅れな感じも否めなかったのだが。
※
その後に起きた事はといえば、酷いものだった。何故だかその夜に限って、他のお爺ちゃんお婆ちゃんが、妙に落ち着かなかったのである。
ナースコールに従って部屋を訪れれば。
「貴女じゃない誰かが入ってきたの」
「何だか寝付けなくて」
「引きずるような音が外からするが、何かしているのか?」
「寒い。妙に寒い」
等。果てには目が視えない一人のお婆ちゃんが「さっき坪井さんっておっしゃる方が訪ねてきたけど、どちらにいかれちゃったのかしら?」とまで言い出した。……その人もまた、山木さんと同じように坪井さんと面識が一切ないにもかかわらず。
「もぉ……やだ……」
繰り返される恐怖の連鎖に、私の精神はガリガリと削り取られていく。
目が冴えてしまう人が出てくるだけならば、まだよかったのだ。なのに、毎回毎回背筋が寒くなるような事が飛び込んでくると……。気を張り続けている心が参ってしまいそうだった。
2021異常なし。
2022異常なし。
2023異常なし。
2025異常なし……。
時刻は午前の二時半。定時の見回りをする私はふらつきながら廊下を行く。ハミングを口ずさむ余裕は、もはやない。
早く……早く朝がきて。そう願いながら私は一つ一つ部屋を回る。
Cフロア巡回終了。続けて……Dフロア。
2031異常なし。
2032異常なし。
2033異常なし。
2035異常なし。
2036異常なし。
2037異常なし。
そこで突き当たり。後は坪井さんの部屋だが、ここはもう見る必要はない。さっさと引き返して、残りの部屋へ。そうしようとした私は、意図せずそれを発見してしまった。
「……う、そ……」
山木さんの部屋の扉が、開いていたのである。
しかも、そこから響く独特な風の音からして、恐らく窓も開いているらしかった。
「なんで、よぉ……」
全身がガタガタと勝手に揺さぶられる。
本日何度目かになる恐怖の戦慄は、私の心をへし折るには充分すぎた。
一体誰がやった? 私は必死に自分の意識を落ち着けるべく、何度も頭の中で可能性を組み上げる。
他の職員やナースさんの悪戯?
あり得ない。死体の腐敗を出来るだけ食い止める為に冷房を効かせているのである。台無しにする理由がないし、それを分からない人がいるとも思えない。
誰かが用事で入室している?
もっとあり得ない。そもそも誰がどんな用事で入るというのだろう。家族さんは明日来る筈ではないか。利用者さん? それはもしかしたらそうかも知れないけど……。私はここに来るまで、各部屋を回って異常がないことを確認している。まだ見てない部屋は三部屋だが……。その三部屋は寝たきりの方なので、ここにたどり着くことは不可能だ。
「う……うぅ……」
もう無理。耐えられない。
そう直感した私は、ブレ続ける指で何とか業務用の携帯電話を取り出して、ナースさんの呼び出し番号をプッシュする。
だが……。私が通話ボタンを押すよりも早く。その携帯電話自身が着信を受け、鈍いバイブ音を奏だした。
「――ひっ!」
業務用故に、施設の担当フロア内でナースコールが鳴ると、しっかりと受信してしまう。よりにもよって! と、涙目になりながらもディスプレイを確認した私は……。今度こそ、声にならない叫びを上げた。
『D―2308』
それは紛れもなく、すぐ目の前にある坪井さんの部屋からで。
同時に、この呼び出しに応答しなければ、ナースさんも呼べなくなってしまった事を意味していた。
「……っ、やだ。やだやだやだぁ……!」
その場にへたりこみ、身体を抱き締めるようにして踞る。
意味がわからなかった。
死体が安置された部屋で、ナースコールが鳴るなんて。こんなのどうしろというんだ……!
『…………ちゃん』
誰か助けて。そう口にしかけた時だ。微かだが、耳に誰かの声が届く。
それはか細くて。だが、確かに聞いたことのある声色で……すぐ傍の誰もいない筈の部屋からだった。
『…………れ、…………梨ちゃん』
やめて……!
悲鳴すらあげられなくなった私は耳を塞ぐ。だが、それは無駄な抵抗だった。
『……て……れ、……由梨ちゃん』
ゾワゾワとした寒気にも似た感覚が立ち上る。同時に、誰かが、私の背後に立っているのを感じた。
「やだ……いや……いやぁあ!」
あらんかぎりの絶叫を上げる。その直後、私の両手首は氷よりも冷たくてしわしわな手にむんずと掴まれた。
感情を殺したような。だが、確かに聞いたことのある声が少し後ろから、ノイズのように私の耳を侵食して……。
『助けてくれぇ……美由梨ちゃん……』
それっきり、限界を超えた私は、ついに意識を手放した。